
比類なきイノセンスの物語として、私は中路啓太『昭和天皇の声』を読んだ。
innocenceに当たる適切な訳語をこの場合は思いつけないのでカタカナ表記となった。無垢、とすると純真さと混同されそうで意味合いが異なってくる。責任を負わない、とする語義のほうがまだ近い。あえて当てはめるならば、無色、だろうか。色がついていない。いや、何の色を帯びることも許されないという他に類例のない在り様を求められた人物を中心においたのが、この『昭和天皇の声』という小説なのである。
本書は五篇から成る連作短篇集である。単行本は、奥付表記に従えば二〇一九年八月十日に第一刷が刊行されている。私は全篇を初出の『オール讀物』掲載時に読んだが、最も感銘を受けたのが巻末に収録されている「地下鉄の切符」(二〇一九年二月号)だ。ある記念品が過去の懐かしい思い出を招き寄せるという類型を用いた短篇である。ではその地下鉄の切符とは誰が、いつ用いたものなのか、ということが物語運びの上で重要になってくる。すべての事実が明らかになったとき、読者の心には温かい感慨がこみあげてくるはずだ。
先ほど本作を無色の存在の小説と評したのは、中心人物が昭和天皇だからである。王侯、貴人を登場人物に配した小説は特別なものではない。日本の小説でも多くの作例があるが、それは近世以前に限定される。明治以降に即位した天皇が創作物に登場することは極めて珍しいのである。本作を除けば最近の例では、二〇一七年に『ビッグコミックオリジナル』で連載が開始された『昭和天皇物語』(小学館。永福一成・脚本、能條純一・作画)くらいではないか。半藤一利『昭和史1926-1945』(二〇〇四年。現・平凡社ライブラリー)を原作とする作品であり、ノンフィクションの物語化という性格が強い。
たとえばイギリスでは、エリザベス二世が物語の主人公となるアラン・ベネット『やんごとなき読者』(二〇〇七年。現・白水Uブックス)のような作品が書かれている。他にも王室の血筋に連なる人物が登場する作品は枚挙に暇がない。なぜ彼の国ではそれが可能で、日本では天皇小説が書かれないのかという問いには答えを出すのが難しいが、一口で言えば制度の問題ではないかと思われる。現在の英国王室はヴィクトリア女王とドイツ・ザクセンの貴族だったアルバートの婚姻に端を発するウィンザー朝である。そこが起源であることは明確であり、比喩的に言うならばウィンザー家は英国王室の現在における管理者なのだ。存在のありようがはっきりしているので、これは実体の伴った人物として創作世界にも登場させやすい。だが、日本における天皇は違う。
日本国憲法の本文が「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と記された第一条から始まることは周知の通りである。では象徴としての天皇とは何か。憲法学的な議論は他に譲り、あくまで小説執筆に話題を限定するが、象徴であると規定された対象を実体の伴った人物として物語世界に登場させることは困難を伴うはずだ。なぜならば、そこになんらかの意味を持たせようとした瞬間に、本来は帯びてはならない色彩によって天皇という存在は塗りつぶされてしまうからだ。不偏不党、無色透明であるということが本質であるのに、何らかの意味を持たせれば、それは元の対象物からかけ離れた作者の勝手な創造物になってしまう。
ではどうすれば天皇の持つイノセンスを維持したままで、彼を一個の人間として描き出すことができるのか。この難しい問いに挑んだのが前述の「地下鉄の切符」という短篇であり、この『昭和天皇の声』という作品集なのだ。『声』という一語が非常に巧みだと感じるのは、本書の中で天皇本人が発した言葉はごく僅かだからである。「地下鉄の切符」でも書かれているが天皇は「通り一遍のことは語っても」「それ以上に突っ込んだ質問になると」「当事者や子孫に迷惑がかかるかもしれない」と言って口をつぐんでしまったという。公式には自身の真意をほとんど表明したことがない人物であるから、周囲の証言や報道された事実などを元にそれを浮かび上がらせていくしかない。中路はそれに挑戦した。
『昭和天皇の声』は短篇集として素晴らしい一冊である。五篇のうち、雑誌掲載の順では四番目にあたる「地下鉄の切符」が掉尾(ちょうび)に置かれているのは、本全体の主題に関係する作品だからだろう。その前に置かれた「転向者の昭和二十年」(二〇一九年五月号)が、実際には最後に発表された作品である。一九二五年に成立した治安維持法によって日本共産党は違法の政治団体とされて弾圧を受ける。地下化した同党において、たまたま委員長の座に就くことになった田中清玄という人物が本篇の主人公である。
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