「萌は近頃の千花を見ていると、いつもピンク色の砂糖菓子を思うのである。宝塚に入ってからその食紅(しょくべに)の加減はますます濃くなったような気がする」
……本を開いてすぐにこんな比喩が出てくると、読者である私は、「ああ、これから林真理子ワールドが始まるのだ」と、胸がわくわくしてくるのでした。
林真理子さんの小説には、日本のどこかにあるのであろうキラキラした世界が、出てきます。そして『野ばら』における舞台は、宝塚と、歌舞伎。日本のキラキラ界における両極が出てくるその絢爛(けんらん)さと濃厚さが味わいたくて、私は週刊誌の連載当時から、毎週楽しみに読んでいたのでした。
主人公の一人である千花は、最初の比喩にもあったように、食紅で色付けされた砂糖菓子のような女の子です。そしてその砂糖菓子は、誰かの口の中で溶かされていくことになるのか、それとも乾燥して、ひび割れてしまうのか。いずれにせよ砂糖菓子はそのままの存在感を保っているわけにはいかないわけで、私達は「砂糖菓子」という言葉のなかに、何らかの予感を摑み取るのです。
その予感は、しかし決してピンク色のものではありません。
「一九三〇年代を再現したワンピースの腋のあたりから、かすかな異臭が漂ってくる。夢を売る宝塚の衣裳が臭うなどと、いったい誰が想像するだろう」
という記述がありますが、華やかな衣裳にかすかな汗の臭いや体臭がしみついているように、どんな華やかな生活にも、どんな華やかな人物にも、醜い部分、そして“負”の部分がある。読者は、花とシャンパンとチョコレートに包まれた千花や萌の生活が、やがてその“負”の臭いに包まれる時が来るのではないかとどこかで感じるのであり、その予感が正しいかどうかを確かめるために、ページをめくらずにはいられなくなってしまうのです。
その時に刺激されるのは、ずいぶんと意地悪な感情であることは事実です。裕福な家に愛らしい容姿をもって生まれ、お金にも愛にも不自由することなく育ち、「ピンク色の霞がかかってるみたいな」雰囲気をまとっている、千花。そんな愛らしい千花が、幸福の絶頂に近付いていきそうなまさにその時、ストンと奈落に落とされるからこそ、私達の胸は高鳴る。路之介が花蝶(かちょう)屋の娘と婚約したという報せを千花が初めて聞いた時、読んでいる私達の胸もドキンとしてしまうのは、千花に感情移入しているからというのが半分、そして「待っていたものがついに来た」という残酷な気持ちによるところが、半分。
路之介から裏切られたことによって、千花は読者の本当の友となります。彼女が感じる屈辱感、そして彼女が露呈してしまう弱さは、どれほど私達と親しみ深いことか。
幸福と、不幸。美と、醜。同じようなコントラストは、この小説の中の随所にちりばめられています。たとえば歌舞伎と、宝塚。甘やかな千花と、クールな萌。東京と、京都。役者の路之介と、銀行マンの謙一郎。舞台の上と、私生活。キラキラと、ドロドロ。
しかし、それらはたいそう違うように見えるけれど、実は似ているものでもあるのでした。たとえば宝塚歌劇は、阪急グループの創設者である小林一三が、阪急沿線に客を呼び寄せるために始めたものであるわけですが、その時に参考にしたのは、歌舞伎。