「大衆の要求するものは」「『歌舞伎』の要素を持っているものでなければ駄目だと信じている」
という小林翁の発言が残っていますし、女役があってこその歌舞伎であるように、宝塚も男性美を一番よく知っている女性が工夫して演じるからこそ、男役に皆がほれぼれする……という考えも彼にはあった。
いわば宝塚と歌舞伎というのは、ネガとポジのような関係なのでした。してみると千花と萌にしても、東京と京都にしても、同じような関係にあるような気がするではありませんか。それはまるで幸福と不幸が、全く別物ではあるけれど、どちらもたっぷりと甘さを湛(たた)えて人を酔わせるという意味では、共通しているように。
千花と萌の身に不幸がふりかかってくる直前、二人はお金持ちの友達の家のパーティーに招かれます。見事な桜の木の下で千花は、
「私たちって、ずうっと不幸にならないような気がしない? ずうっと幸せなままで生きていけそうな気がしない?」
と、つぶやくのです。さすがにクールな萌は、
「そうかなあ……」
と言うけれど、千花は、
「でも私たちなら出来るわ。きっと出来る。世の中には、そういう女の人が確かにいるんだもの」
と、舞い散る花びらを眺めながら、言うのでした。
このシーンがとても美しいのは、この後にやってくるであろう不幸の予兆を、私達が既にかすかに感じているからなのです。不幸という背景が存在するからこそ、桜と若い女の子と、
「私たちって、ずうっと不幸にならないような気がしない?」
という台詞は、不吉なほどに、白い輝きを増す。
このシーンと最後のシーンとのコントラストもまた、印象的なものです。宝塚を退団し、二時間ドラマの端役として京都に来ている千花。中年男性との恋に傷つき、母親の不倫騒動に巻き込まれた、萌。そんな二人が、紅葉にはまだ早いけれど秋の気配が忍び寄る季節に南禅寺を訪れ、自分達の身の上について語り合うというこのシーンにおいて、二人が歩いていると、
「落ち葉の季節でもないのに、葉がひらひらと頭の上に散った」
のです。
幸福の永遠性を語る時に眺める対象として、桜はあまりにも適さないものでした。そんな不吉な行為の結果として二人には不幸が訪れ、そこから立ち上がった時には、落葉が舞う季節になっていた。
この時二人は、二十五歳。人生において、落葉の季節にいるわけではないけれど、ほんの少し前までは青々としていた自分の中の葉が、一枚、二枚と落ちていくことに気付く季節と言うことができます。
しかし『野ばら』は、幸福と不幸はすぐ隣同士にあるということを、私達に教えてくれる物語なのでした。二人は不幸を味わったけれど、不幸の向こうには幸福の予感がある。葉が落ちる季節になったとしても幸福になることもあれば、花が咲いていても不幸になることがあるということを、二人は知り始めたばかりです。
自分の中の意地悪な感情をさんざ刺激されても、『野ばら』を読了した後に罪悪感は残りません。それは読者である私達が、物語が進むうちに、千花と萌が「永遠などということは無い」ということを知って成長したことを、理解したから。砂糖菓子の中には、いくばくかの芯が、できたのです。
最後の一行を読み終えた瞬間、私は「自分にも、『私達は絶対に不幸にならないのではないか』と信じた一瞬があった」ということを思い出しました。そんなことは決してあり得ないことを今はもう知っているけれど、その一瞬の記憶によって、私達は読み始めた時と同じような甘い気持ちに戻っていくことができるのです。
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