ドラマ「半沢直樹」で歌舞伎役者をはじめて知った人でも大丈夫! 九龍ジョーさんの『伝統芸能の革命児たち』は、今観るべき芸能者たちを余すことなく紹介する、最上の手引書。そんな九龍ジョーさんに、近年の様々な伝統芸能のコラボ企画、そして神田伯山の「新しさ」について、本書の刊行を記念してお話しいただきました。
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伝統芸能×〇〇は難しい?
――『伝統芸能の革命児たち』では、向井秀徳さんと立川志らくさんのコラボ企画を始めとして、伝統芸能と意外なものとのコラボレーションがいくつも紹介されていました。本書に収録できなかった、面白いコラボ企画はありますか?
九龍 まず、根本的なところで、伝統芸能と現代的なエンターテインメントとのコラボってとてもよくあるんです。例えば、いまだったらラップを取り入れてみたり。でも、お互いなにか譲れないものがあったり、そこから新しいものが生まれたりするようなコラボとなるとなかなか難しい。
本の中に書いた、向井秀徳さんと立川志らく師匠のコラボは、お互い譲らない、何かバチバチぶつかりがあるような――どちらかが失敗して、ことによるとすごく恥をかくかもしれないくらいの緊張感でした。実際、すごい光景が生まれていたと思います。
――なるほど。
九龍 本書で紹介した他に、あえて面白いものをあげるなら、TVアニメ「鬼滅の刃」×「京都南座 歌舞伎ノ舘」でしょうか。歌舞伎役者が「鬼滅の刃」の炭治郎に扮するのではなく、キャラクターたちが歌舞伎の世界に入り込む形なんです。歌舞伎は、一番世の中に流行ってるものとコラボしても遜色ない、歌舞伎としてそのまま飲み込めるのだという懐の深さを感じますね。
それはワンピース歌舞伎やナウシカ歌舞伎も一緒です。歌舞伎のいい意味で柔軟な――言葉を選ばず言えば、いいとこどりな面が出ていますよね。でも、流行ってるものはなんでも取り入れちゃおうぜ、っていうのが、まさに「歌舞く」精神なんですね。みなさん、歌舞伎に関しては「すごくちゃんとしてるもの」ってイメージがあるけれど、そうではない。歌舞伎の語源ってそもそも「歌舞いてる」、ちょっと斜に構えている、というような意味ですよね。折口信夫は「ごろつきの芸」だと言っていたんですけれど、本当にそれに近い。他の芸能のいいところは何でも取り入れてしまうし、普通はやってはいけないことをやってしまうこともある、そこがいいところです。
もう一つ、いいコラボレーションの例をあげるなら、「刀剣乱舞」の舞台と講談のコラボレーションです。神田伯山先生のおかげで、講談っていう芸が知られるようになったんですよね。講談はナレーション芸、歴史のト書きを語ることができるものなのだと。それで、みんなが講談をどう使えばいいか分かったみたいなんです。「刀剣乱舞」の舞台の最新公演「科白劇 舞台『刀剣乱舞/灯』綺伝 いくさ世の徒花 改変 いくさ世の徒花の記憶」では、神田山緑さんが狂言回しの役割で、講談師として参加しています。講談師にとってはすごく輝ける役が与えられていて、見ている人たちも「講談面白いよね」「すごいね講談」という感じになっていました。こういうコラボはいいですよね。
伝統芸能は〈今のお客さん〉に対峙している
――本書で何度か話に上がる神田伯山さんですが、「突然変異の人(ミュータント)ではない」という言葉が印象的でした。
九龍 連載を通じて、僕の神田伯山への印象は変わらないんです。メディアは「天才」「百年に一人の講談師」とか煽りがちじゃないですか。でもやっぱり、突然すごい人が出てきたというわけではないですよね。彼も師匠や、色んな伝統の中で、自分ができることを付け加えているんです。ましてや伯山さんは、すごく伝統芸能が好きで、歌舞伎、落語、浪曲、狂言と色々見たうえで、最も自分が生きるんじゃないかと講談を始めた人ですからね。そういう意味でも、自分を芸の水脈の中に組み込んで考えている人です。「ミュータントじゃない」どころか、むしろ伝統芸能の保守本流とすら言える。
でも、やっぱり彼がそれまでの人たちと違ったのは、講談を今の人が見ても「面白い」と思える形にした方がいいと考え、実行していることですね。それは講談のマニアの考える究極的な芸のあり方とは違うのかもしれません。講談は語りの芸なので、内容やわかりやすさとはまた別に、淡々とした語り口や、メロディーがいい、という人もいるわけです。でも若い人にはわからないですよね。やはりストーリーは理解できたほうがいいし、見せ場は見せ場らしく、アクションは美しく、声量やマイクの使い方だっていろいろ工夫している。今の客を摑むためにはそうやった方がいいだろう、と実行している人なんです。一人だって置いてけぼりにしないぞという意気込みで、今のお客さんと対峙している。
そもそも芸っていうのはそういう風に進化してきたんじゃないかと思います。マニアによって彼を邪道という人もいるかもしれませんが、そこで照らされている伝統だって、その時々のお客さんたちと向き合うことによって培われてきたはずで、今のお客さんを摑まなかったらしょうがない。単純にそうしないと、芸能自体が無くなってしまう可能性もあるわけです。これは、他の職業とか他のエンターテイメントだとわりと当然のことなんですけれど、こと伝統芸能となると、「伝統はこうあるべき」という、新しいことに対してのアゲインストが結構ありますよね。でも、その中で戦って、今のお客さんに伝えていかないと。もちろん受け継いでいかないといけない芸や技術や型も大事なんですけれど。
――「文學界」での連載は2015年から2020年まで。この5年間で社会と伝統芸能の関係性は大きく変わったのではないでしょうか?
九龍 先ほどの話とつながりますが、伝統芸能のどのジャンルにも、やっぱり今のお客さんと向き合ってる人たちがちゃんといることに、世の中が気づいたのだと思います。例えば、テレビのお笑いだけでは飽き足らない、と面白いものを求めてる若い人なんかが、落語の面白さに気づき始めている。そのような若いお客さんと同世代の落語家さん、演者さんは当然M-1やキングオブコントを見ていて、その中であえて落語を選んでやってる人たちだから、すごくセンスが良かったりしますしね。歌舞伎や浪曲でも同じことが言えます。
伝統芸能というのがただ古いものなのではなくて「今面白いもの」なのだと、世の中がちゃんと気づき始めている。もちろん、そこを入り口として、その先に、人間国宝の方たちの芸などがあるわけです。彼らのことがわかってくると、伝統芸能のすごさがより分かるのですけれど。よくわからないけどすごい、とかね。
伝統芸能って「こういうものをよくぞ残してくれてたな」みたいなものがいっぱいありますよね。どこかでなくなっていてもおかしくなかった中で、今それらがここにあるっていうのはすごく大事なことだと思います。でも見る人がいなくなってしまえば、多分その芸能は無くなってしまう。だから、気になるなら見た方がいいと思うんです。見たら結構面白いですから。……でも、何見たらいいかわからないのであれば、僕の本を読んでくれればいいなと思います(笑)。
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