建久10(1199)年1月13日、源頼朝は没した。53歳だった。前年の暮れ相模国を流れる相模川の橋が完成して式典が挙行されたが、それに出席した帰り道、頼朝は落馬してそのまま亡くなったようだ。京都の公家の日記には「飲水病」、すなわち糖尿病だったとする記述がある。糖尿病が悪化すると脳梗塞とか脳出血などの原因になるそうだ。厠で倒れて意識を失い、そのまま死亡した上杉謙信(享年49)の事例はそれに該当する、といわれる。頼朝も脳に何らかのトラブルを発症し、馬に乗っていられなくなった。そう考えるのが普通だろう。
だが、謙信とは異なり、頼朝の死については様々な憶測がついてまわる。曰く、源義経の亡霊を見て驚き、受け身を取る間もなく地面に叩きつけられた。それで打ちどころが悪く、死に至ったのではないか。曰く、亡霊は亡霊でも、一族の滅亡に追い込んだ平家の怨霊だろう。曰く、落馬云々はフィクションで、実は三代実朝同様、暗殺されたと見るべきだ。頼朝は政治家のイメージが強いが、それでも歴とした源氏の武士である。弓と馬は子どもの頃から十二分に鍛錬している。その彼が馬でしくじるものか。殺害されたに相違ない……。この説明は、事故にせよ故意にせよ、荒唐無稽に過ぎる感があるが、歌舞伎の演目にまでなっている。頼朝は女装して浮気相手の家に侵入しようとしたが、警備していた御家人に斬り殺されたとする『頼朝の死』(昭和7年、真山青果作)である。
なぜかくも奇妙な説が取り沙汰されるかというと、おそらくは『吾妻鏡』のせいだろう。鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』は、建久6(1195)年12月22日、頼朝が友人の家に遊びに行ったという記事を最後に、建久7(1196)年から建久10年1月までが欠けている。そして唐突に、建久10年2月6日、頼朝の長男である頼家が後を継いで鎌倉殿となった、という記述から再開される。これは何とも不自然だ。幕府は意図的に頼朝の死の真相を隠蔽している。後世に残せぬ「何か」が、そこにはあったのだろう、というわけである。
そもそも『吾妻鏡』はいったん散逸している。それを今のようなかたちに戻したのは、誰あろう、徳川家康である。秀吉の命で東海地方から関東に追いやられた家康は、同じように関東に本拠を築いた鎌倉幕府に興味を持ったらしい。それで日本各地に人を派遣し、バラバラに伝来していた『吾妻鏡』を集め、復元していった(『北条本 吾妻鏡』と称されるものが、これ)。頼朝の死とその前後は、この時点で已に欠落していた。では鎌倉時代に編纂されたはじめから、それは書かれていなかったのか。それとも後世、当該部分だけが失われたのか。残念ながら明らかではない。こうした状況を踏まえ、この空白に果敢に挑戦したのが、伊東潤の本書である。
「天下草創」に向けて、鎌倉の地にある頼朝は、京都の後白河上皇と対峙した。彼のアイデアと駆け引きは抜群の冴えを見せ、都から遠く離れた地に、全く新しい政権が産声を上げた。ところが大姫の入内問題をきっかけに、同一人物が決定したとは思えぬほどの失策がくり返される。頼朝にいったい何があったのか。
清水冠者義高、源九郎義経、安田義定父子、三河殿こと源範頼。次々と粛清されていく源氏一族。それにともない、頼朝が愛してやまぬ家庭の内には、修復不能な亀裂が走る。それはまた有力御家人の派閥抗争の因となり、内輪での争いが続くところに朝廷勢力の攻勢が加えられ、風前の灯となる「武家の都、武家の府」の命運。そのとき、頼朝を支え続けた妻の政子は、ついにあまりにも重い決断を下す……。劇的で説得力に満ちたドラマが、展開される。
私は「武家の府」=幕府成立のキーワードは「主従制」であると思っている。有力者を主人として、奉公に努める。主人は従者(家来)に恩賞を与える。こうした主従の関係は貴族社会にもあった。では武家の主従は先行する貴族の主従とどこが違うかというと、従者の奉公が「命がけ」になる点である。武家の従者は戦場で主人の盾となり、命を差し出す。貴族の主人は、この激しさを要求しない。
治承4(1180)年に伊豆で挙兵した源頼朝は、石橋山の戦いでは惨敗したものの、海路房総半島に逃亡し、瞬く間に勢力を回復した。この時、下総の有力武士、千葉常胤がいち早く馳せ参じて頼朝を喜ばせたが、このとき常胤は源頼隆という若武者を連れていた。頼隆は源氏興隆の基礎を築いた八幡太郎義家の末子、義隆の忘れ形見。義隆は源氏の長老として重んじられていて、平治の乱では頼朝の父の義朝の麾下にあった。戦い敗れた義朝はわずかな供廻りと東国を目ざすが、このとき義隆は義朝の身代わりとなり討ち死を遂げた。頼隆はまだ母の腹にいたが、千葉常胤は彼を庇護した。
常胤は頼隆をなぜ養ったのか。それを理解するには、武士社会の上下関係を知らねばならない。武家で上位に位置するのは、朝廷に仕え、官職を帯びる武士Aである。彼らは京都に屋敷を持ち、本拠地にも生活拠点を有する。平清盛の家は伊勢に勢力を築いて伊勢平氏を名乗り、京都で生活し、地方の国司を歴任して栄えていた。頼朝の家も同様である。彼らは「武家の棟梁」と呼ばれ、後述する武士Bを従者とする。
これに対して、地方に土着し、基本的に朝廷と関係が切れている武士Bがいる。彼らは自らの領地である「一所懸命」の地を苗字として名乗り、その土地に根ざして生活していく。武家の棟梁であるAを主人と仰ぎ、命を賭して戦う。その代償として、土地の所有をAに認めてもらう(本領安堵、という)。鎌倉幕府の有力御家人、千葉、三浦、畠山、比企、梶原などがこれに該当する。
どうやら、当時の武士たちは、自己の行動の「正当化」を強く欲していたらしい。このとき、仲間内の相互承認は無効である。物理的な内実はなくとも、上位者の許認可こそが重視された。だから、BたちはAを必要とした。江戸幕府が倒れるときには「錦の御旗」が最大限の効力を発揮したが、武士たちは平安時代の昔から、それぞれの地域における簡易タイプの「錦の御旗」にこだわったのだ。
千葉常胤にとって源頼隆は、小なりとはいえ、まさに生ける「錦の御旗」であった。利益の拡大を図る千葉家の活動に、正当性を付与してくれる可能性を秘めている。だから大事に守り育てた。ところがいま、同じ源氏でもさらに毛並みの良い頼朝が房総にやって来た。彼を主人と仰ぐことに決めた常胤にとって、頼隆はむしろ危険な存在になる。汝は頼隆を推戴して謀反を企てるか、と疑われかねない。そこで「この若者は頼朝さまの役に立ちます」と、早手回しに身柄を差し出した。真意は、煮るなり焼くなり好きにしていただきたい、というところだったろう。
頼朝は幕府御家人を統轄する際に、儀式などの場を用いて序列を明瞭に示した。まず将軍とその家族。次に源氏一門。これは「門葉」と称された。武士Aである。その下座に一般の御家人たち。すなわち、武士B。その中で格上と目されたのが、将軍の近臣である「家の子」。彼らは合戦の場では親衛隊となる。北条義時はここに位置した。
門葉は位置づけは高いが、頼朝に取って代わり得る存在として、危険視もされた。頼朝の兄弟はみな横死しているし、頼朝が亡くなる時点で一人生き残っていた阿野全成も、二代将軍頼家に誅殺された。本書に登場する平賀義信は信濃源氏で、門葉の第一席を占めた。彼は辛うじて生涯を全うしたが、平賀氏はほどなく幕府の政争の中で滅びた。すると足利氏が繰り上がりで門葉首座となり、周知の如く、鎌倉幕府が滅びた後に将軍に就任して室町幕府を開く。
武士Bの権力争いは熾烈を極めた。室町・江戸幕府とは異なり、鎌倉幕府では失脚はすなわち一族の滅亡を意味した。頼朝の没後、血なまぐさい争いが頻発するが、その中心にいたのが北条義時であった。彼は政子と協力し、北条家よりも規模の大きな御家人を次々と抹殺していった。それはまた、本書とは別の、修羅の物語となる。
承久3(1221)年、後鳥羽上皇の朝廷は西国の武士に命じ、鎌倉幕府を討伐させた。ここまで述べてきたように、関東の武士たちは「錦の御旗」を重んじていたから、本来なら朝廷に抗えるはずがなかった。しかし、政子が檄を飛ばすや、彼らは迷うことなく立ち上がり、朝廷軍を打ち破った。頼朝と政子が全てを犠牲にして樹立した武家の政権は、こののち650年にわたって続いていくことになる。本書「修羅の都」は、まさにその幕開けを告げる物語なのである。
最後に付け加えておきたい。これだけ骨太な政治ドラマを描写しながら、本書は実に読みやすく、痛快なまでに面白かった。著者の力量は抜群の一語に尽きる。