それまでのイメージが鮮やかに覆(くつがえ)された。
かつて北条政子は日本三大悪女のひとりと言われ(あとの二人は日野富子と淀君)、嫉妬深く、権勢欲が旺盛で、夫である源頼朝をけしかけて鎌倉幕府のファーストレディにまでのし上がり、夫・息子亡きあとは尼将軍として簾中から政治を動かした――という具合に語られることが多かった。
いや、「かつて」と書いたが、もしかしたら「今も」かもしれない。
ところが永井路子『北条政子』を読むと、その印象はことごとく打ち破られる。ここにいるのは悪女でも烈女でもなく、「なぜこんなことになってしまったのか」と己の運命に戸惑うひとりの女性であり、夫を慕い子を心配してやまないひとりの母の姿だ。
しかも決して奇を衒(てら)ったのではなく、『吾妻鏡』などの史料を深く読み込んだ上での、極めて説得力のある政子像なのである。
永井路子は鎌倉幕府創成期を舞台にした短編集『炎環』(一九六四年・光風社→文春文庫)で翌年の第五十二回直木賞を受賞。「有名人は登場させない」という縛りを自ら設け、阿野全成、梶原景時、北条保子、北条義時の四人をそれぞれ主人公にした作品集である。
その後、北条政子を書かないかというオファーを受ける。著者にとって初めての新聞連載だった。それが本書『北条政子』である。一九六九年に講談社より刊行。『炎環』と本書の二冊を原作に作られたのが、一九七九年のNHK大河ドラマ『草燃える』だ。
余談ながら、当時中学生だった私は源頼家役の郷ひろみ目当てにドラマを見て、一気に鎌倉三代に魅せられたのを覚えている。岩下志麻演じる北条政子の印象が強烈で、原作『北条政子』を手にとったのが永井作品との出会いだった。「それまでのイメージが鮮やかに覆された」のはこの時だ。のめり込んで読み、これほどまでに激しくも悲しい運命に翻弄された女性がいたという事実に、ただただ圧倒されたものだ。
その後も、『北条政子』は複数の版元から文庫や全集の形で刊行され続け、読まれ続けてきた。著者の初期を飾る代表作のひとつと言っていい。今回、文春文庫で装いも新たに読者にお届けできることをとても嬉しく思う。
書かれた当時から既に半世紀以上経つが、まったく古びない。それだけ普遍的なテーマを扱っているからでもあるし、五十年経っても覆される部分がほとんどないほど歴史解釈がしっかりしていた証左でもある。従来のファンはもちろん、若い読者にも新鮮な気持ちでお読みいただけるはずだ。
物語は政子と源頼朝の出会いから始まる。
政子は伊豆の小豪族、北条氏の娘だ。頼朝は父が平治の乱に敗れ、逃げているところを捕らえられたが命だけは助けられて伊豆に流された。ふたりが出会ったのは政子が二十一歳、頼朝が三十歳と、当時にしてはかなりの晩婚である。
政子の父、北条時政が大番(三年の任期で都の警護にあたる)で京に行っている間に、ふたりは結ばれる。だが、帰ってきた時政はふたりを認めない。平家全盛の世に、土地も財産も持たない流人と一緒になってもメリットがないわけだ。そこで時政は政子に平氏の山木兼隆との縁談を用意する。けれど政子はそれを蹴って、雨の中を一山越えて頼朝のもとに走るのである。
ここでちょっと補足しておこう。本書では婚礼の席から逃げ出したことになっているが、これは『源平盛衰記』の記述を下敷きにしていると思われる。実際には山木が伊豆に来たのはもっとあとで、政子はそのときすでに長女の大姫を出産していたので、『源平盛衰記』のこのくだりは創作であろう。それについては永井路子自身も『美女たちの日本史』で訂正している。だが、婚礼の席から身ひとつで逃げ出す方がはるかにドラマティックだし、政子の情熱を表すには最適のエピソードだ。ここはむしろ『源平盛衰記』の著者に拍手を送りたい。
さて、この段階では伊豆の小豪族の娘と流人の結婚である。特にどうということもない。ところが運命とは面白いもので、ただ好きになって結婚しただけの相手が、源氏の正嫡として世の覇権を握るまでに出世してしまうのである。
イメージが覆された、と書いた中のひとつがこれだ。それまでは、政子や時政が権勢欲を剥(む)き出しに、「あなたは源氏の頭領なのだから」とたきつけるような場面をドラマや小説でも時々目にしていた。けれど前述したように、当時は平家の全盛時代なのだ。源氏が旗揚げするなど誰も(本人すら)予想していない。将軍になったのは結果論であり、権力を求めるならはじめから頼朝と結婚しようなんて思うはずがない。
そもそも北条家も、さほど立派な素姓ではなかった。政子はありていに言えば単なる田舎の土豪の娘であり、親の言うなりに政略結婚が求められるような家柄ではない。好きな人と結婚しても、まあいいか、と許される程度の格だったのである。皇族に嫁いで家の力を増すことが強いられた同世代の平家の娘たちとは、そもそも出発点が違うのだ。
それが、あれよあれよという間に夫が何やら神輿(みこし)に乗せられ、気づけばトップレディである。御台様である。これは政子が本当に望んでいたことなのだろうか?
この物語のベースはそこだ。政子は権勢欲などではなく「好き」という気持ちだけで頼朝と結婚した。そこが『北条政子』の出発点であり、根幹だ。
十四歳まで京で育った夫は正妻の他に多くの恋人をもって当たり前という京の風習に馴染んでおり、それが田舎娘の政子には納得できない。だから焼きもちを焼く。庶民なら派手な夫婦喧嘩というだけで済むものが(愛人の家を叩き壊すのが「派手」の一言でおさまるかはさておき)、御所様と御台様の争いになってしまい、家臣にまで迷惑をかける結果になる。
子供たちに対してもそうだ。長男は乳母の一族に育てられ会うこともままならない。乳母の一族はその子が成長したとき重臣として抱えられることが多く、頼家の乳母を務めた比企家はどんどん力を増していく。結果、戦乱が起きる。これも小豪族の娘の政子が乳母というもののシステムを知らなかったがゆえだ。なお、頼朝亡き後の将軍の座をめぐるあれこれから三代将軍・実朝暗殺の背景まで、すべて乳母一族の権力争いが背景にあったという視点には膝を打った。実に道理に合う。
政子は愛すること・愛されることの幸せを何より大事にする女性だったから、長女・大姫の幼い恋が無残な結果に終わったときの痛みが誰よりもわかる。だから逃そうとした。捕らえられた静御前が、頼朝の前で義経への思いを込めて舞った気持ちが誰よりもわかる。だから助けようとした。自分に反発する長男・頼家に対する苛立ちも、その遺児・公暁にかけた過剰な情けも、すべて我が子、我が孫を愛おしく思う気持ちからなのである。そう見ることで、北条政子という女性に一本の筋が通るのだ。
これははからずも将軍の妻に、そして将軍の母になってしまった女性が、子を愛したい、子に愛されたいと願いつつも立場がそれを許さず、夫と四人の子と、さらには孫にまで先立たれてしまう悲しみを描いた物語なのである。
政子は実朝の死後、京から迎えた幼い四代将軍の代行として尼御台から尼将軍と呼ばれるようになる。実際には北条義時による差配が大きかったと思われるが、この簾中政治が政子の名を不動のものにした。そして最大の見せ場は承久の乱に際し、集まった御家人たちに檄を飛ばした有名な演説だ。
どの小説やドラマでもクライマックスとして描かれてきたこの演説を、だが、永井路子は描かなかった。実朝と、孫である公暁を同時に失い、ただ呆然とする場面がラストシーンだ。尼将軍になる前の「母である政子」の終焉で、物語は幕を閉じるのである。永井路子が北条政子の何を書きたかったか、この構成にすべてが表れている。
源氏が立たなければ――流人の夫と土豪の娘の妻が四人の子に囲まれて健やかに過ごす生涯が、もしかしたらあったかもしれない。夫の浮気に腹を立てて愛人宅に乗り込み、その度に子供たちや兄妹に宥められるような、そしてあとで家族の笑い話になるような、大河ドラマではなくホームドラマのような暮らしがあったかもしれない。
はたして政子にとって、どちらが幸せだったのだろう。
歴史小説は長らく男性作家の世界だった。島崎藤村や森鴎外に始まり、子母澤寛、吉川英治、海音寺潮五郎、山岡荘八――そして司馬遼太郎という大きな頂(いただき)が登場する。そんな中、女性の歴史小説家のパイオニアとなったのが永井路子と杉本苑子だ。
永井路子の作品には、著者のジェンダーを感じさせない『氷輪』『雲と風と』『この世をば』のような小説がある一方で、やはり女性をテーマにした作品群が目立つ。舞台となった時代順に並べると、持統天皇の『茜さす』、元正天皇を描いた『美貌の女帝』、『波のかたみ 清盛の妻』、日野富子を描いた『銀の館』。戦国時代では、今川の尼御台・寿桂尼の『姫の戦国』、『山霧 毛利元就の妻』、浅井三姉妹の『乱紋』、『流星 お市の方』、『王者の妻 秀吉の妻おねね』、『一豊の妻』、細川ガラシャの『朱なる十字架』……。枚挙に遑(いとま)がないとはこのことだ。
世に歴史小説は多けれど、永井路子登場当時、女性を描いたものは実に少なかった。そもそも女性は史料にも残っていないことが多い。たとえば本書の政子にしろ、政子という名は三代将軍実朝の時代に朝廷から官位を授かった際、父の名から一字もらってつけられたものだ。つまり頼朝が知る妻の名は「政子」ではなかったはずで、では何という名前だったかはわかっていないのである。
そんな中にあって、永井路子は女性の目から見た歴史を、または、歴史の中に見た女性の姿を、書き続けてきた。歴史の中で人が、その女性が、どのように生きたか。戦に行くわけでもなく、一国一城の主を目指すわけでもない女性たちが、どう歴史に翻弄され、その中で何を思い、何と戦い、何を守り、何を掴んできたのか。その時代ごとに、立場ごとに、女性に課せられた試練を、彼女たちひとりひとりがどう受け止め、何を為したのか。彼女たちの生き方が現代の私たちに何を告げるのか。何を伝えるのか。それが永井路子の歴史小説なのである。先に挙げたどの作品も、歴史の中の女性を描くことで初めて可能になった新たな視点、新たな解釈に満ちている。傑作揃いだ。どこからでもかまわない、手にとってみていただきたい。
二〇二二年のNHK大河ドラマは、三谷幸喜脚本による『鎌倉殿の13人』に決まった。北条義時を主人公に、まさに本書と同じ時代を描いたものになるようだ。私が『草燃える』の郷ひろみや岩下志麻をきっかけに永井路子を知ったように、多くの人が本書に出会うことを願っている。従来のイメージを覆す、母であり女であるこの北条政子の物語は、まさに時代を超えて読まれるにふさわしい一冊なのだから。