が、数日後、先輩の漢学の先生に得々としてそのことを語ったら、大いに顰蹙を買ってしまった。
「バカもん! 人生の半ばを過ぎてしまったのに、こんなザマでいると、一生もいい加減な読書のために棒にふらないでもないぞ、怖るべし、怖るべし、とこの詩は解するんだ。自戒の詩なんじゃ。わかったか」
これにはギャフン、でありました。
そういえば、わたくしはどちらかといえば、悪ガキの少年時代から本好きであった。といっても、読んでいたのは講談社刊の『少年講談』全百巻ばかり。それで、戦時下の中学生のころ、犬山道節だの犬塚信乃だの『里見八犬伝』の剣士の名や、猿飛佐助・海野六郎・三好清海入道らの『真田十勇士』の名を暗んじていて、敵米軍の航空機や軍艦の性能なんかを憶えるのに汲々としている同級生の軍国少年たちに、
「ゲンマイ(わたくしの渾名)は非国民だな。憲兵に“国賊だ”といって引っ張っていかれるぞ」
と、しょっちゅうおどかされていたものであった。
長じて、とかく読みたいと思った本は片っ端から読んだ。乱読である。乱読の弊害はなかったと思っている。自分の頭で考える代りに、その道の専門家に代りに考えてもらえる。それをこっちは遠慮なく汲みとればいい。それは「達人、遠方より来たる。亦楽しからずや」といったらいいか、読書は悪ガキ育ちのボンクラをじつによく鍛えてくれた。
さらに、歴史探偵を職業とするようになり、本はもっぱら史料として読むようになった。読書の楽しみはかなり失われたが、それでも机上に、山のように積んだ史料としての本のそばに、漱石や永井荷風や坂口安吾の好きな小説集はきちんと並べて置いておいた。項羽、蘇東坡ら先人たちが何といおうと、読書すなわち好きな学問をすることは、ただ、その楽しみがあるだけであると考えている。
ところで、歴史探偵を自称するようになって史料の本をパラパラとしながら、「眼光、紙背に徹す」という古語がしきりと気になった。一知半解はあかんぞ、しっかり自分の眼光で読み、理解を確かなものとせよ、という読書についての教えである。人びとがネットとやらの電子器具を信奉し、そろって本を読まなくなったいまは、もはや死語になってしまっているかもしれないが。
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