宇喜多秀家の生涯は、すこぶる数奇であった。時勢に翻弄されたといってもいい。織田信長が本能寺に斃れた天正十年(一五八二)に、わずか十一歳で家督を継いだ秀家は、羽柴=豊臣秀吉の引き立てによって、豊臣政権の最有力大名の一人に立身し、秀吉の死の直前、慶長三年(一五九八)には豊臣「五大老」の一角を占めるに至った。秀吉が後事を託した「五大老」が、秀家のほか、徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元から構成される点をみても、この人物が尋常一様ではない地位にあったことが推し量られるであろう。
官位の面でもその厚遇に申し分はない。正四位下(しょうしいのげ)・参議叙任(さんぎじょにん)が天正十五年(一五八七)の十一月。翌年四月には従三位(じゅさんみ)に昇進、文禄三年(一五九四)十月に至って権中納言(ごんちゅうなごん)に任官している(事典類には天正十五年の従三位・参議叙任を説く場合があるが、正確には右の通り)。
正室は前田利家の四女にして秀吉の養女であった樹正院(じゅしょういん)。通俗的にいうところの「豪姫」である。秀吉の寵愛をほしいままにした彼女を娶ったがゆえに、秀家は栄華を極めたともいえる。
だが、その生涯は、秀吉の死を画期に暗転する。秀家の施政に対して、その有力家臣が徒党をなして反抗し(いわゆる「宇喜多騒動」)、宇喜多氏内部の混乱がおさまらぬうちに、関ヶ原の合戦に巻き込まれてゆく。秀吉が逝(ゆ)いたのが慶長三年(一五九八)の八月、「宇喜多騒動」の勃発が慶長四年(一五九九)の冬、そして関ヶ原の合戦が慶長五年(一六〇〇)の九月である。
石田三成に与(くみ)して関ヶ原に敗北した秀家は、大名の地位を失った。翌年の夏まで畿内に潜伏、次いで薩摩の島津氏(当時の当主は忠恒(ただつね)〔のち家久〕)を頼って九州南部に身を隠したが、慶長八年(一六〇三)の秋、伏見に出頭(しゅっとう)して駿河へ移送、さらに三年後に八丈島に流された。
敗軍の将となった秀家は、旧知の禅僧にみずから支援を求めるなど積極的に運動して、徳川家康から助命の沙汰を勝ち取った。島津忠恒の助命嘆願もあずかって多大な効果を挙げたものと推察できる。亡命先の選択といった、このプロセスから並々ならぬ秀家の器量を見出すこともむつかしくない。
流罪人の秀家は、絶海の孤島にその余生を送ること、およそ五十年に及んだ。明暦元年(一六五五)十一月二十日、八十四年の天寿を全うして秀家の没したとき、徳川将軍家は四代目、家綱の治世に入っていた。
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