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宮本武蔵に下った「呪詛者捜し」の密命。呪いをかけられたのは他ならぬ徳川家康だった

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

別冊文藝春秋 電子版37号 (2021年5月号)

文藝春秋・編

別冊文藝春秋 電子版37号 (2021年5月号)

文藝春秋・編

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「別冊文藝春秋 電子版37号」(文藝春秋 編)

序章 久遠の剣

 この男になら負けてもいいかもしれない。

 そう思っている己を見つけ、宮本武蔵はかすかに驚いた。武蔵が立ち上げた円明流の道場で、ひとりの若者と対峙している。相手は、大小二本の木刀を持っている。足を前後に広げて、柔らかく構えていた。額に締めた茜の鉢巻が目に鮮やかだ。

 歳の頃は、武蔵より六つ下の数えで二十五。名を、佐野久遠という。

 一方の武蔵は、両手で太い木刀を握っていた。六十有余の決闘の全てを制し、五年前に巌流小次郎と舟島で戦って以降、命懸けの勝負からは遠ざかっている。かといって鈍っているわけではない。舟島で戦った己と立ち合えば、十のうち九は勝つ。

 稽古は、真剣勝負以上に命懸けだ。その証左に、弟子は目の前で向かいあう佐野久遠のみ。今までに百人近くの男が入門を乞うたが、みな、武蔵の激しい稽古に音を上げ、去っていった。

 武蔵は脇構えをとる。左肩を前に両手を右後方へ。これで、木刀の長さを相手は測れない。

「久遠、寸止め無用でいいのか」

「武蔵先生、くどいですぞ」

 涼しげな声で、久遠が返す。

 武蔵が持つ木刀は、常よりも半寸(約一・五センチメートル)長い。脇構えをとる武蔵の間合いを、久遠は見極められない。

 先に動いたのは、久遠だった。木刀は繰り出してこなかった。武蔵の肩めがけて体当たりをする。衝撃で足裏が床をすった。わずかに空いた間を、久遠のふたつの木刀の剣戟が埋める。右の一閃は頭を低くしてよけ、左の突きは横に素早くよけた。

 その間、脇構えは解かない。

 武蔵の木刀がうなり、後ろへ飛んだ久遠の着衣をかすった。

 久遠の顔が歪んだのは一瞬だけだ。すぐに破顔する。

「常より長い木刀とは、武蔵先生の剣の工夫は本当に面白い。ひとりしかいない弟子を殺す気ですか」

 長い木刀を上段に、短いそれを中段に構え、久遠が語りかける。

「稽古は殺すつもりでやれ、と常にいっている」

「参ったな、先ほどの一撃、武蔵先生の頭蓋を砕くつもりだったのに」

 言葉を交わしつつ、ふたりは円を描く。木刀は繰り出さないが、頭の中では幾度も打ち込んでいた。久遠は額に脂汗を一杯にかいていた。一方の武蔵も、こめかみから汗が一条流れる。

 裂帛の気合は両者同時だった。武蔵の木刀が大上段から襲う。久遠は片膝をついて、二本の木刀を交差して受け止めた。武蔵が上から全身の重みをかけ、久遠が腕の力だけで抗う。弾けるようにして間合いをとった。久遠は短い木刀を捨てていた。両手持ちに変えた撃剣が、武蔵の左肩を狙う。右へさけようとしたら、太刀筋が変化した。縦から横へ。久遠得意の型だが、この間合いから放つとは思っていなかった。

 着衣から焦げた匂いがする。久遠の木刀がかすったのだ。

 体勢を崩した武蔵の眉間に、久遠の追撃が迫る。武蔵もまた、同様の一閃を繰り出さんとしていた。

 掌に爆ぜた衝撃は、骨を砕いた時とよく似ていた。

別冊文藝春秋からうまれた本

電子書籍
別冊文藝春秋 電子版37号 (2021年5月号)
文藝春秋・編

発売日:2021年04月20日

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