本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
(第5回)5 絵師たち

(第5回)5 絵師たち

文:岩井 俊二

岩井俊二『零の晩夏』


ジャンル : #小説

 私は徹夜で企画書を作り、インタビュー内容を書き起こし、その中に盛り込んだ。編集長はこの企画を気に入り、初めてのゴーサインを出してくれた。私は早速これを記事に起こした。田村由子さんに指南役に付いて頂き、さんざん手ほどきを受けたが、改稿するほどおかしな文章になって行くのが自分でもわかった。最後は、ほぼ原形を止留(とど)めないほどに改稿されてしまい、その原稿で私は雑誌デビューを飾ることになってしまった。そこには自分の名前はなく、阿藍須美子(あらんすみこ)という署名がついた。田村さんによると、書き手の名前が使えない時に使うこの雑誌固有のペンネームだという。

「例えばね、原形を止留めないほど改稿してしまった時なんかに使うのよ」

 田村さんは、まさに今回のことを例に取る。しかも笑顔で。子供に諭すように。

 報酬は二万円。しかし辞退した。何の役にも立たなかったのだから。貰っていい筈がない。

 六月、三十二歳の新人が入ってきた。谷地卓郎(やじたくろう)という元音大の学生である。通称“ヤジタク”。自己紹介の折、そう呼んでほしいと自ら語っていた。都内の有名音大のピアノ科を卒業している。今でも時々バーでジャズを演奏しているという見かけによらずの洒落者(しゃれもの)だ。音楽担当でいい企画を持ってくるし、いい記事を書く。契約社員待遇だ。正直、私はこの人を勝手に妬んでいた。ジャンルが違うんだから、別に妬んでも仕方がないのだが、時々、思いがけない時に負けず嫌いが顔を出す。私の悪い癖だ。けど、本当に負けてはいられない。

 きっとこんな私に同情してくれたのだろう。田村さんや、宮本さん、結城さんら、他の編集の方々から、リサーチなどの細かい仕事が落ちてくるようになった。それでどうにか生活は保てたけれど、身分はテスト生のままだった。

 七月の初め、根津杜夫氏からメールを頂いた。江辺罪子(えべつみこ)の個展のオープニングレセプションの案内だった。七月十二日金曜日、会場は横浜みなと美術館。江辺罪子案件は宮本さんの担当だったので、話をしてみた。

「根津さんから誘われたの? どういう知り合い?」

「いや、展覧会で一度お会いして、名刺交換しただけですけど」

「それだけでレセプションに誘うかな?」

「行かない方がいいですかね?」

「いやいや、根津さんに気に入られたなら行かないと損よ。行った方がいいわよ」

「どういう方なんですか?」

「根津さんは天才。新進気鋭の作家を見出しては世に送り出す天才」

 それが宮本さんの根津さんに対する評価であった。そのレセプションには編集長も行くことになっていた。

 江辺罪子は気難しい事で有名な作家である。なのに宮本さんはそのインタビューも私にやれという。編集長までお前やってみろと、いきなり振られてしまった。

「私なんかに務まるでしょうか?」

「まあ、なんとかなるだろう。失敗なくして成長なし」

 私は江辺罪子について下調べを開始した。

 一九九二年石川県金沢市生まれ。二〇一四年、金沢美術大学油彩科卒。まだ若い作家である。もとは本名の江辺美子(よしこ)という名前で活動していたが、最近は江辺罪子を名乗っているという。

 オープニングレセプションの当日、私は美術館の外で編集長と宮本さんと待ち合わせをした。余裕を見て家を出たが、早く着き過ぎて、屋外で暑い思いをした。気がつけばもう夏であった。三人で会場に入ると、受付に根津杜夫氏の姿があった。彼もすぐに私たちの姿を見つけた。

「冴崎さん、お久しぶりです」

「よ、久しぶり!」

 編集長は根津さんと握手を交わした。

「江辺さんも随分と偉くなったなあ。態度だけは昔から偉そうだったけどさ」

 編集長の悪態に根津さんは苦笑のみで返した。

 会場の入り口には大きな看板に展覧会のタイトルが大きな明朝体で書かれていた。

『江辺罪子 笑止千万絵画展』

 中に入ると、そこは異様な世界と言わざるを得ない。満面の笑みを浮かべた顔が会場を埋め尽くしているのである。もうこれ以上不可能と思われるほどの笑みである。時には醜いぐらいの笑顔である。どれだけの美女が彼女の絵に登場しても、もはやその美しさは判らない。笑いの渦に飲み込まれて目眩すら覚える。しかしそれらの絵を見て釣られて笑う観客はいない。皆固唾を呑んでその一枚一枚に見入る。極めつけの笑顔とは、恐ろしくもあり、神々しくもある。そこに新機軸を見出したのは江辺罪子の発明である。

 そんな会場の中央に江辺罪子が立っていた。

 その日の彼女は和服姿だった。黒の着物。つまり喪服である。おまけに腰のあたりまで伸ばした黒い髪を結いもせず下ろしっ放しにしながら怪しいオーラを漂わせていた。私などは半径十メートル以内に近寄ることすら躊躇(ためら)われた。しかし根津さんと編集長はお構い無しで彼女に向かってゆく。宮本さんが遠慮がちにその後を追い、私はその背中を追いかける。

「冴崎さん、白髪増えたんじゃない?」

 それが江辺さんの第一声だった。

「え? そうかい?」

「今日は来てくれてありがとう。ゆっくり観てってよ」

 そう言うと彼女は別な知人に視線を送り、私たちを置き去りにした。根津さんもまた別な知人に声をかけられ、私は編集長と宮本さんと最初から順に観て回ることにした。ところがそれぞれ鑑賞スピードが違いすぎて、私たち三人はあっという間に離れ離れになってしまった。編集長は観るのがやけに速く、私はどうも遅れ気味で、宮本さんは更に遅い。インタビューの時間を気にしなくてはならず、最後は少し駆け足になってしまった。絵の中の人々の満面の笑みが残像のように頭に焼き付いた。

 出口付近で編集長が根津さんと談笑していた。誰かの特集をしたいのだというような話を編集長が熱心に語っている。主語を聞き漏らしたので、それが誰のことなのか判らない。根津さんは黙って頷いている。

「あの……そろそろ」

 いつの間にかそこにいた宮本さんが二人に声をかけた。助かった。根津さんは私たちを控室に案内した。待つこと数分。江辺さんが現れた。応接用ソファに対座する。私は改めて自己紹介をして、早速インタビューを開始した。

 私は彼女の半生を幼少期から順を追って質問していったのだが、その返答は抽象的で何を話しているのか判らない内容だった。たとえばこんな具合であった。

「死について考えることは快楽でしょ? 私が幼少期に最初に得た快楽は死の存在だったし、それは私をものすごく救ってくれたし、死と隣り合わせに生きる実感をずっと持ちながら今まで生きてきたし、才能があったとしたらそれが私の才能」

 私は「あなたにとって死とは?」なんて質問したわけではない。子供時代の絵に関する想い出を訊いたまでである。たとえば最初に絵を描いた時は、クレヨンだったのか、色鉛筆だったのか? という質問だった。その返事がこれである。質問に答えて貰えてる気が全然しない。

「たとえば小学校、中学、高校と、絵画の授業があると思いますが、どのあたりで画家を目指したいと思われましたか?」

「小学校時代から五感は常に最大限に研ぎ澄まされていたし、その感度が高すぎて困ったこともあった。自分の中の調和が崩れ、常にノイズが聴こえる状態。音のノイズじゃない。たとえばそれは目を閉じれば幾何学模様の図柄が激しく変化するような、そういう状態を制御するのに絵画は役に立ったし、今私が壊れずに済んでいるのも絵を描いているから」

 自分が凡庸な質問をしてるから怒っているのだろうかとも思い、質問の水準を上げてみた。

「近年、表現の自由度は多様化されているように思えます。油絵も、日本画も、手懐(てなず)けられるようなロールモデルではなくて、もっと破天荒なアイディアとか、意匠が求められているように思いますが、その辺はいかがですか?」

「私に訊いているの?」

「はい……はい?」

「江辺罪子にインタビューしてるんだから、江辺罪子について訊きなさいよ」

 この日のインタビューは編集者として忘れ難いものとなった。自分の取材の程度の低さを思い知った。もっとちゃんと作家を研究して、向き合わないと、いい取材なんかできるわけがない。なにか都合よく自分に寄せて作家の世界を解釈しようとしていた自分が恥ずかしかった。

「江辺さんにとって笑顔ってなんですか?」

 最もシンプルな質問に彼女は、何も語らなかった。その顔には微かな笑顔もなかった。見かねた宮本さんが途中から割って入って質問をしてくれた。一見凡庸な質問が、見事に江辺さんの言いたいことと調和する。

 ああ、やはりプロは違う。自己嫌悪。

 取材の後は皆で横浜中華街に繰り出し、四川料理の店に入った。

「すいません。途中で変わってもらって」

 私はただもう頭を下げ、二人に紹興酒をお酌するしかなかった。

「いきなり江辺さんとか無理でしたかね」

 と宮本さん。

「新作の話を聞き出せなかったなあ」

 と編集長。

「『煉獄(れんごく)』ですよね。何も話さなかったですよね。カノジョ」

「すいません。私が怒らせてしまったせいです」

「他のインタビュー記事を読んでも、新作の話は具体的には全然してないんですよね」

「なんかあるんだろうな」

「根津さんっていうのがネックですよね。あのひと、秘密主義者だから、なんにも教えてくんない」

「まあ、そうやって作家を売ってきた人だ」

 どうも二人は私を責めているわけではないらしく、江辺罪子というヴェールに包まれた作家に純粋な関心を寄せているかのような、そんな文脈の会話が暫く続くのであった。

 皆と横浜駅で別れると、私はなぜかすぐに帰る気になれず、駅前のバーで一人飲みして、予想外に痛飲し、ぐでんぐでんで東横線に乗って、綱島の自宅に帰った。ベッドに寝転がり、見上げると、酔いで天井がぐるんぐるんと回っていたが、それでもなぜか頭は冴えて、悔しさと恥ずかしさがなかなか脳裏から立ち退いてもくれず、更には江辺罪子の絵の中の笑顔たちの残影がぐるんぐるんと駆け巡りながら追い撃ちをかけてくる。窓の外が明るくなって来ても睡魔は訪れず、遂に眠ることを断念し、顔を洗って、机に向かった。待ち受けているのは昨日のインタビューの文字起こしである。ICレコーダーに録音したやり取りを文字に起こす。二度と向き合いたくない場面に耳を傾け、書き取ってゆく。江辺罪子の冷ややかな声を、耳を澄ませてタイプしてゆく。何という苦行。しかも書き取ったテキストは、宮本さんに送り、そこから先は彼女が原稿を仕上げる手筈だ。あの阿藍須美子という署名が登場する機会もない。

 宮本さんの仕上げたページは素晴らしかった。メインタイトルは、『私は芸術至上主義。』江辺さんが宮本さんの質問に答えた時に出たフレーズだ。自信に満ち溢れた江辺罪子の写真を眺めながら、私より四つも若いくせにと思いながら、目に涙が滲んだものである。

 



岩井俊二

1963年生まれ、宮城県出身。『Love Letter』(95年)で劇場用長編映画監督デビュー。映画監督・小説家・音楽家など活動は多彩。代表作は映画『スワロウテイル』『リリイ・シュシュのすべて』、小説『ウォーレスの人魚』『番犬は庭を守る』『リップヴァンウィンクルの花嫁』『ラストレター』等。映画『New York, I Love You』『ヴァンパイア』『チィファの手紙』で活動を海外にも広げる。東日本大震災の復興支援ソング『花は咲く』では作詞を手がける。映画『花とアリス殺人事件』では初の長編アニメ作品に挑戦、国内外で高い評価を得る。2020年1月に映画『ラストレター』が公開、同7月には映画『8日で死んだ怪獣の12日の物語』が公開された。

単行本
零の晩夏
岩井俊二

定価:1,980円(税込)発売日:2021年06月25日

プレゼント
  • 『さらば故里よ 助太刀稼業(一)』佐伯泰英・著

    ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。

    応募期間 2024/7/9~2024/7/16
    賞品 『さらば故里よ 助太刀稼業(一)』佐伯泰英・著 5名様

    ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。

ページの先頭へ戻る