岩井俊二が描く、生と死の輪郭線。 モデルが例外なく死に至るという“死神”の異名を持つ謎の絵師ナユタ。その作品の裏側にある禁断の世界とは。渾身の美術ミステリー。
7 ナユタ
なんとなく晴れやかな気持ちでよく晴れた日曜日を過ごし、週明けの月曜日は少し薄曇りだったが、社に行くと朗報が待ち受けていた。打ち合わせがあるとかで、何時(いつ)になく早く出社した編集長が、パソコンを開き、メールを確認していた時だった。
「おお!」
と大きな声を周囲に轟(とどろ)かせた。
「根津さんからだ。ナユタの特集記事、許可が降りた!」
編集長はすこぶる嬉しそうだったが、私にはなんのことか判らなかった。
「何だよ、ナユタ、知らないのか? “ナユタの死神伝説”」
私の近くにいた田村さんが説明してくれる。
「顔も履歴も公表してない謎の画家なんだけど」
「バンクシーみたいなね」
と谷地さんが横槍を入れる。
「バンクシーとはちょっと違って」と、田村さんは言う。「その人が描いたモデルは必ず死ぬっていう。そんな話が、ネット界隈で噂されてる」
谷地さんまでもが知っていたというのが、ちょっと悔しかった。そんな私に編集長も容赦がない。
「まあ一般的には知る人ぞ知るってヤツかもしれんが、この業界で知らないのちょっと恥ずかしいぞ」
「言われてみれば、なんかあった気がします」
と、私は言い返した。何やら白々しい言い方になってしまったが、嘘ではなかった。私は一時話題になったネット上の騒動を思い出しかけていた。
「はいはいはい、だいぶ記憶が戻ってきました」
「本当ですか?」
谷地さんが意地悪く言う。私も思い出しては来たものの、果たしてどんな絵だったか。そこまでは浮かばない。当時もちゃんとは見ていなかったのだろう。パソコンに向き合い、ナユタを検索する。出てきた絵に私は思わず顔を顰(しか)めずにはいられなかった。それは解剖された人間の身体であった。しかも、その描写力は絵の範囲を遥かに超えていた。
「なんですかこれ! 写真じゃないんですか?」
「油絵」と、田村さん。
「うわあ、写真にしか見えない……うわあ」
「相当アクの強い作家ではあるがね。でも、こいつは本物だと思ってる。いずれ評価される時が来る。そこを先取りたい」
編集長にそこまで言わせる作家なら。少し好奇心が湧いてきた。
「ただ、本人の取材はNGだそうだ。顔出しNGなんだよ。作品歴の紹介とか論評したりはオーケーだってさ」
「本人のインタビューがないのはちょっと厳しくないですか? 顔出さなくてもダメなんですか?」
「まあ、そこはガードが固いなあ」
「でも……」と私。「ありえないですよね……その“死神伝説”とか」
「“死神伝説”か? まあ、あり得ないよ。いくつかの作品は確かに臨終間際の人を描いたり、解剖中の人体をモチーフにしたりとか。そもそも死をテーマにした作風は彼の一つの特徴ではあるわけだけど。でも、普通に街角に立ってる若い女性とか、裸婦のモデルまで、既にこの世にいないっていうんだよな。あくまでネットの噂ではあるが。根津さんに訊いてもその辺は教えてくれない。まあ、逆に言えばだ。教えてくれないって事は何かしら戦略があってやってるんじゃないかとは思うよ。身に覚えがなければさ、自分たちの方から、あれは嘘ですよって主張するでしょう、普通。ネットの噂に迷惑してるんですよって言うでしょう、普通」
なるほど、確かに編集長の言う通りだと思った。そんな悍(おぞ)ましい噂、本人にとって有り難いわけがない。
「作者自身はどう思っているんでしょう」咄嗟にそんな質問が口を突いて出た。
「そこを知りたい。何しろずっと沈黙を守っている。取材がNGというのは、そういうことだ」
と、編集長。
「絵を描き終わったらもう用無しだってモデルたちを殺してたらホラーですね」
と谷地さん。
「そりゃ狂ってるな。でも判らんよ。案外、そうだったりするかも知れない」
編集長はその顔に不敵な笑みを浮かべる。
「やめてくださいよ!」
私は寒気がして来た。
「ははっ、冗談冗談。でもさ、本人インタビューこそできないが、いろいろ叩けばいろんなネタは出てきそうだろ? 面白い記事が書けるんじゃないか? 八千草君、どうこれ、やってみない?」
「え? 私がですか?」
「実はあちらからの指名なんだよ。君にやって欲しいんだとさ」
「根津さんですか? ……どうして私なんですか?」
「どうしてだろうね? なんか気に入られたんじゃない?」
「なんか怖いですけど。……私、死なないですよね」
「いやあ、どうだろうなあ」
編集長は苦笑するばかりである。
根津さんが私を認めてくれるのは頗(すこぶ)る有り難いし、嬉しい話なのだが、巻き添えを喰らって死にたくもないんだが。そんな微妙な気持ちを懐(いだ)きつつ、私は根津さんにメールを送った。一度打ち合わせをしたい旨を伝えたいだけが、気がつけば長々としたメールになり、長文失礼いたしましたと最後に書き添えた。すぐに短い返事が来た。
[では、ウチの画廊で 根津]
君のメールは長すぎだよと、何かそんな風に言われた気がして、少しへこんだ。
しかしながら、私の仕事はあくまでナユタという作家と作品の世界を紹介することである。編集長から預かったページ数は八ページ。僅か八ページというページ数だったが、新米の私にとっては途方もなかった。緊張と興奮。それはまるで百号キャンバスの大作に挑むかのような心地であった。
*
ダンソンはインターネット情報サイトで、かつては発行部数二万部程度のタブロイド誌であった。雑誌が廃刊になり、居場所をネットに切り替えてから読者数を伸ばし、どうにか消滅を免れた。おめでとうと言ってあげたいところだが、正直私は雑誌の時代から大嫌いで、生き残ってしまったことは憂慮に堪えない。
ダンソンと名前だけは片仮名で気取っているが、漢字に置き換えれば、“男尊”である。つまり暗に“女卑”である。往年の男性向け週刊誌への回帰が著しいという批判も目にする。少しサイトを閲覧するだけでも、アダルトサイトが政治も語るし文化も語っているようで、トイレでご飯を食べるような悍ましいサイトだった。しかし、残念ながら、ナユタの“死神伝説”の中で一番よく纏まっている記事がそこにあった。“死神伝説”を横に置いたとしても、ナユタについて考察した唯一の記事と言ってもいいかも知れない。そんなわけで、私はこの記事を見つけてからというもの、ブックマークをつけ、幾度となく目を通した。
『死神伝説 謎の絵師、ナユタは本当の死神かも知れん件』
このタイトル、最後は広島弁の駄洒落だろうか。執筆者には、“フリーライター・折茂羽膳” という名前があった。読み方が判らない。“おりも・うぜん”だろうか。
以下はその記事の全文である。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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