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教育、言論、テロの順で社会はおかしくなる――昭和史の教訓を今こそ

教育、言論、テロの順で社会はおかしくなる――昭和史の教訓を今こそ

半藤 一利 ,保阪 正康

『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤 一利 保阪 正康


ジャンル : #ノンフィクション

昭和史の戦前20年間において、言論と出版の自由がいかにして強引に奪われてきたかを知る半藤さんと、ジャーナリストにはどのような気構えが必要とされるかを見つめてきた保阪さん。『そして、メディアは日本を戦争に導いた』は“昭和史最強タッグ”による「戦争とメディア」の検証・決定版対談です。今回はその中から「昭和一桁に似てきている現代日本」「現代のナショナリズムの扇動」を特別公開!

『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤 一利 保阪 正康

昭和一桁に似てきている現代日本

半藤 私が昭和一桁(けた)の歴史から学んでほしいなと思うのは、まず教育の国家統制が始まるとまずいということです。それから、情報の統制が始まるとこれがいちばんよくない。そうすると、あらゆる面で言論が不自由になってくるわけで、ますますよくない。さらに、テロ、こうした順で社会がおかしくなってくることなんです。幸いにして、テロはいまの日本社会にはあまりありませんがね。とにかく、こうした教訓は昭和一桁の歴史から学ぶことができるんですよ。

 それでは、いまの日本はどうかと言うと、教育基本法をつくって教育を改変しようという動きがあります。修身(しゅうしん)の授業を復活させようという動きもある。権力者というのは常に、教育、言論というものを統制したがるという傾向があり、いまの日本には怪しい兆候が出ているなと思うんですよ。

 それから、情報の統制ということに関して言うと、通信傍受法とか個人情報保護法とか、言論の自由を縛るような法律が出てきています。

 個人情報保護法などは、一見、言論を縛るものではないように思われるかもしれませんが、現場のジャーナリストはこの法律によってどれだけ困っているかわからない。「個人情報保護法があるから教えられません」と、取材対象者の所属している会社や役所に言われてしまう。取材対象が公的な立場の人間であっても、法律を盾にして取材拒否されるんですよ。明らかに、言論の自由を狭めるのに使われているんですね。こういう形で、国家統制が始まる、言論が不自由になってくるというのは、非常に良くないですね。

 それに一億総背番号制なんていうのもどうですか。これを拡大すれば、思想言論の監視なんかに役立つんじゃありませんか。

 幸いなことに、言論弾圧というのはまだ起こってはいません。けれど、非常に気になる兆候はあるんです。法的には共謀罪の成立が図られていることです。この共謀罪というのは、使いようによってはかなりの言論弾圧を可能にするんですね。

 こう見てくると、いまの日本は、何とはなしに昭和一桁の時代と同じ流れをくみつつあるなと思わないでもないんですよ。

半藤一利さん ©文藝春秋

 それと忘れちゃいけないことがありました。いまや安倍政権が秋につくろうとしている「特定秘密保護法」(二〇一三年一二月に成立、公布。一四年一二月に施行)なるものがあります。これが成立すると、国家機密を暴露したり、報道したりすると厳罰に処せられる。そもそも国や政権が何のために情報を隠そうとするのかといえば、その大半は、私たちの知る権利や生命財産を危うくするものばかりなんですよ。昭和史の事実がそれを証明しています。報道はそんなことをさせないために頑張らなければいけないですよ。この法律ができると頑張れなくなってしまう。大問題なんですがね。

 それに自民党の憲法草案には、やたらと「公益及び公の秩序」なんて強調されている文案がある。「個人の尊重」の個人が「人」と変えられたり拡大解釈できそうなところが山ほどある。戦前の日本に逆戻りしたいのかな、と思ったりしますよ。

 テロはいまのところないと言いたいところですが、全くないとも言い切れない。例えば、加藤紘一の家が狙われたり、朝日新聞や日経新聞が攻撃されたりという事実もある。いや、ネット上のテロ(?)ははじまっている。

 こうした状況を見ると、これからのジャーナリズムに携わる人は本気になって言論の自由を守ることを考えなくてはいけないと思うんです。まず、政治権力に屈してはいけない。歴史を振り返ればわかるように、権力側はきっと懐柔しようとします。それを承知しておいて、決して屈従しないことが大切です。それでなくとも、言論が不自由になりつつあるんですから、こちらから屈従するのは大間違いなんです。

 ジャーナリズムは本気になって、言論の自由を考えなければいけない。これが昭和一桁の歴史から学ぶべき、最大の教訓だと思うんですよね。

昭和5年、浜口雄幸首相が東京駅で右翼青年に銃撃された ©共同通信社

現代のナショナリズムの扇動

半藤 それとまた、いまの日本は民衆レベルでもナショナリズムつまり国粋主義の高揚といいますか、そうした動きがあって、非常に危険なことだと思うんですよ。上も下も、みんなナショナリズムでわっしょいわっしょいとやり始めると、国家というものの動きを非常に窮屈にする、ますます内に閉じこもらせるばかりなんですね。これはジャーナリズムだけでなく、国民がみんなで相当注意していかなければならない。もし、言論がこれに対して、また昭和初期のように黙ってしまうと、言論の自縄自縛になる。

──私は四〇代の後半なんですが、私たちの世代にはナショナリズムに対する免疫がないんです。若い頃ならともかく、結構いい年になってからナショナリズムにかぶれると、どっぷりとはまりやすいようなんですね。

保阪正康さん ©文藝春秋

保阪 思想にはまり込んで疑いをもたないのは、いちばん楽なんですよ。全てが一元的に割り切れるから。

半藤 そう、そっちのほうがあまり考えないで済むから楽なんだね。でも思考停止がいちばんいけない。昭和八年の国連脱退がいい例ですよ。少々の外圧があって被害者意識が強まって、みんなナショナリズムにはまり込んだ。でも、栄光ある孤立なんて、そういうものはありません。外圧が強まって被害者意識が強まると、みんなナショナリズムに走るけれど、これは日本が陥りつつある危険だと自覚しなきゃいけない。

 これに対してジャーナリズムは、言論の自由を発揮して、できるだけ危険な思い込みを抑制するという形にしないといかんですよ。

──最近の出版物の傾向では、“自虐史観”から“居直り史観”へと大きく方向転換している感じがします。売れ行きを見ると、居直り史観のほうがいいようですし。

半藤 また始まったな。売れるからって、ろくに考えもしないで無責任に出版して、昭和一桁の時代を再現するつもりかね。というようなことを、日本の昭和史をジャーナリズムの観点から考えてくると、しみじみと思うわけなんです。

 ただね、ナショナリズムを言論で抑制するのはものすごく困難なことで、いまはまだテロが始まっていないから頑張ることもできます。でも、テロが始まってしまうと、言論は途端にしぼんでしまう危うさがある。

 だから、いまが肝心なんです。

昭和8年、国際連盟脱退宣言をする松岡洋右外相 ©共同通信社
文春文庫
そして、メディアは日本を戦争に導いた
半藤一利 保阪正康

定価:605円(税込)発売日:2016年03月10日

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