紀元二世紀初め、ローマ帝国は繁栄の絶頂にあった。その領土は最大に達し、東は一時的にユーフラテス川を越え、西は大西洋に臨み、南はサハラ砂漠に接し、北はブリテン島北部にまで及んだのである。ここには、現在の国名でいえば、イギリス、フランス、イタリア、ルーマニア、ギリシア、トルコ、イスラエル、イラク、エジプト、リビア、モロッコなど三〇か国ほどが含まれる。
このアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる広大な領土には、都市文明の世界が広がっていた。文明の核となった都市には、闘技場や公共浴場、図書館、神殿などの施設があり、上下水道も整備されていた。ローマ時代の都市は、二〇世紀を代表する古代史家ミハイル・ロストフツェフによれば、「快適さ、美しさ、衛生に関しては、……多くの近代のヨーロッパやアメリカの町におとるものではなかった(坂口明訳)」のである。また、これらの都市は整備された街道で結ばれ、貨幣経済も浸透し、人々はいながらにして帝国内外の諸種の物産を享受しえた。
一八世紀のイギリスの歴史家エドワード・ギボンは、二世紀の五賢帝時代(九六~一八〇年)のローマ帝国を「人類が史上、最も幸福であった時代」とまで評したが、この評価はギボンの時代の社会状態を考えるならば、あながち誇張でもないだろう。
しかし、この最盛期からおよそ二〇〇年後の三九五年には、ローマ帝国は東西に分裂。さらに一〇〇年後には、分裂した西半分の帝国は既に地上から消え去っており、旧西ローマ帝国の領土は「野蛮な」ゲルマン系諸民族の支配下に置かれていた。多くの地域で都市文明や貨幣経済は崩壊し、ローマ帝国の時代以前に逆戻りしたような地域すらあった。ブリテン島では飼育されていた牛のサイズまで小さくなったとされている。
ただし、帝国の東半分は生き延びており、一四五三年に至るまで、さらに一〇〇〇年の命脈を保つことになる。しかしローマ帝国の衰退、あるいは滅亡と言った場合は、一般的には西ローマ帝国のそれを指しており、本書でもこの慣例に従う。
では、いったいローマ帝国は、なぜ繁栄し、そして滅んだのであろうか。本書は、この問題をユーラシア規模の視野で考える試みである。
ローマ帝国が最盛期を迎えていた二世紀前半のユーラシア大陸の歴史地図を眺めてみよう。西から順にローマ帝国、パルティア、クシャーナ朝、そして後漢という、いずれも巨大な国家が連なり、ユーラシア大陸全体で政治的安定が見られた(地図1参照)。
これに対して、ローマ帝国が滅んだ五世紀後半、四七六年頃の状況はどうであったか(地図2参照)。
西ヨーロッパではゲルマン系諸民族の王国が乱立し、地中海の東部には東ローマ帝国が残存している。パルティアはササン朝ペルシアにとって代わられており、中央アジアからインド北部までを支配していたクシャーナ朝の姿もすでにない。北インドにはグプタ朝が新たに興っており、中央アジアは遊牧民エフタルの影響下にある。中国でも、後漢はとうの昔に滅んでおり、のみならずローマ帝国のように分裂し、北に北魏、南に宋が並立している。北魏は、当時孝文帝の治世(四七一~四九九年)であるが、ほんの三〇年ほど前までは、この点もあたかもローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパのように華北では五胡十六国と呼ばれる異民族の国家が興亡していた。
このようなユーラシア大陸の歴史地図を確認すれば明らかなように、ローマ帝国の繁栄期は、同時にユーラシア大陸全体の政治的安定期であったのであり、衰退期にはやはりユーラシア大陸全体で、とりわけ、その東西の両端である西ヨーロッパと中国では、政治的安定が大きく損なわれていたのである。このことは、ローマ帝国の繁栄と衰退がユーラシア規模での出来事と関係していたことを示唆していると言ってよいだろう。
それならば、ユーラシア規模での出来事とは、果たして何であったのか。本書では、それがユーラシア大陸の東西を結んだシルクロード交易の盛衰であったと想定しているのである。以下では、この想定のもと、シルクロード交易の盛衰とローマ帝国の興亡の関係性を解き明かしていきたい。そして、最終的には、世界史上のローマ帝国の位置付けを再考する。
(「はしがき」より)