昭和五十年初夏、滋賀県で開催された全国植樹祭に出席した昭和天皇は、五月二十四日、同県大津市御陵町にある弘文天皇陵(長等山前陵)を参拝した。弘文天皇とは、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)と戦って敗れ、自殺した、天智天皇の皇子、大友皇子のことである。大友皇子は父天智天皇の崩じた後、その後継者として近江朝廷を主宰したが、『日本書紀』は彼が即位したとは記していない。しかし明治三年、大友皇子は初めて歴代天皇の列に加えられ、弘文天皇と諡号された。これに伴い、それまで亀丘とよばれていたこの古墳が弘文天皇陵として選ばれ、墳丘や遥拝所に至る参道等も御陵にふさわしく大幅に整備された。ここへはかつて明治四十四年、明治天皇が訪れている。昭和五十年の天皇参拝は、以来二度目、昭和天皇にとって初めての参拝であった。
西暦六七二年七月二十三日に亡くなった大友皇子の首は、その三日後の二十六日、美濃国不破郡の本営にいた叔父大海人皇子のもとに届けられ、本人のそれと確認された。皇子の墓については、古代の史料には一切記載がない。これは謀反人として正式な埋葬もされていなかったからであろう。したがって明治に決められたこの天皇陵は事実は彼の墓ではない。それにしても、乱から千二百年以上経って、初めて明治天皇、次いで昭和天皇が頭を垂れてこの皇子の冥福を祈ったのであった。
このとき滋賀県庁では戦後二度目となる天皇の行幸をうけて、県内各所を訪問されるその姿を記録するため、職員による写真撮影を手分けして行なった。当時、県立図書館の次長だった私の亡父は、たまたまこの弘文天皇陵参拝の撮影係を命ぜられ、中学一年生の私は下見をする父に付き合わされた思い出がある。自転車で二十分ほどかけて初めて訪れた御陵は、大津市役所の背後にある静謐な森のなかにあった。カメラを覗く父に言われて、モデルを務めさせられ、L字形になった参道を何度かゆっくり歩かされた。本番で撮った写真は見たことがなかったが、特に何も言っていなかったので、失敗はしなかったのだろう。翌日の新聞には「感無量でした」という参拝を終えてのコメントが載っていた。この一言に日本史上に類を見ない骨肉の戦いをふまえた、万感の思いがこめられているに違いない、と両親と共に感心したのを覚えている(のちに他の天皇陵を参拝された折にも同じコメントだったのを発見したが)。
これまでも壬申の乱をとりあげた本は何冊もある。なかでも直木孝次郎、亀田隆之、北山茂夫といった先学の著書は今も大いに裨益されるところが多い。本書は、古代最大の内乱ともいわれるこの戦争を、今までとはいささか異なる視点から捉え直してみたいと考えている。それは女性に焦点を当てた壬申の乱である。天智天皇や大海人皇子、大友皇子らと彼らに関わった女性たちの、これまで表に現れていなかった史実を録そうとしたものである。古代最大の内乱といわれるこの戦争における女たちの歴史である。特にここで現れるのは、天智天皇(中大兄)の娘にして伯父大海人皇子(天武天皇)の妃となり、のちに即位する持統天皇、古人大兄皇子の娘で天智天皇の皇后である倭姫皇后、蘇我倉山田石川麻呂の娘で、中大兄に嫁いだ遠智娘と姪娘、大海人の后妃の媛娘、万葉歌人として名高い額田王、天智の娘元明天皇、大海人と額田王との間の娘で大友皇子に嫁いだ十市皇女などである。彼女たちにとって壬申の乱は、それぞれの意味を持ち、人生の大きな転換点となった。
(「はじめに」より)