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「父が吐血した日、私は泣いた」18歳の田辺聖子が直面した、早すぎる父の死

「父が吐血した日、私は泣いた」18歳の田辺聖子が直面した、早すぎる父の死

『田辺聖子 十八歳の日の記録』(田辺 聖子)


ジャンル : #小説

『田辺聖子 十八歳の日の記録』(田辺 聖子)

11月23日 金曜日

 また憂鬱。もう何にもあたしの憂鬱を救ってくれない。ヂューデイもケアリも何もかもあたしとは縁切れだ。

 ひどくミザンスロープ(※「人間嫌い」の意)になったけど、私はそうでもなく、楽しいときもあるけど。頭がクタクタなので。私は疲れているのだ。

 父は弱い。少しよくなったかもしれないけど。病床から、やかましく指図し、何事にも口を出し、その合間合間に、さもしんどそうに溜息をつき、横着にごろごろ寝ている病人は、煉獄にもう一万年とまってなきゃならないだろう。

 またそうでもなく、気の毒になり、愛する時もあるけれど。

12月2日 日曜日

 ひどく寒い日々だ。巷(ちまた)には餓死者が氾濫している。貧民は年の瀬が越せまい。風は冷たく吹き抜け、そのために美しいコバルトの武庫川の空でさえ、冷やかに感ぜられる。

12月23日 日曜日

 母が田舎から帰ってからというもの、父の病態は一向捗々(はかばか)しくなくって、とうとうどん詰まりまで来てしまった。

 一昨日の朝、極度に衰弱していた父の容態が一変し、正午には京都の宗雄兄さんと、服部の叔母二人へ電報「カン一キトク」を打つ。近所の人々に医院へ駆けつけてもらう。

 夜、叔母(が)来、昨日朝、正午近く宗雄兄さんが来る。父はひどく、しんどい、しんどいと言う。池田先生が強心剤を注射。こう急にくるとは思わなかった。もう昨日今日は、はっきりものを言う元気ももたない。母は泣き通しである。父は「お母ちゃんよう」と母を呼び、母の首に手をまきつける。もじゃもじゃ生えた無精髯の間からは黄色い乱杭歯が見える。垢くさいマッチ軸のような細い手、色の悪い頬、それらが急になつかしく愛すべきものに見えてくる。

 人の顔さえみると、ゆったり微笑し、なつめの様な目を明けるが、もうものを言う元気もないらしく、おだやかに眠るばかりだ。時折、大きい呻き声をあげる。胸が苦しいという。心臓が弱っているのだ。「おお可哀想に、しんどいなあ、しんどい、しんどい」

 母は涙を泛(うか)べて父の背をさすり抱くと、父はさも気が紛れて安心したように、母の胸に顔を埋(うず)めて眠る。

(※この日、田辺さんの父・貫一さんは亡くなりました。死の間際にあっての家族の様子については、『田辺聖子 十八歳の日の記録』の「解説」に書かれてあります)。

1944年 樟蔭女専入試前の田辺聖子さん(田辺家所蔵)

昭和21年1月11日 金曜日

 あらゆる現実の体験は、人間の頭脳を、その劇(はげ)しさによってうちくだく。

2月6日 水曜日

 相変らず薄曇り。空は低くたれて、もやもやした空気は冷たく頬に当る。それに風がきつい。闇市は繁昌している。至る所、道であろうが敷石であろうが、かまわず商品を蓆(むしろ)の上へひろげる虱(しらみ)みたいな闇商人。サーカスがかかり、淫蕩(いんとう)な目つきの女が丸太で組んだたまり場の上から、通行人に秋波をなげる。埃っぽい蒸し芋を手にした鼻たれ小僧、野卑な音楽、息詰まる濁った空気─鶴橋の光景だ。ここから悪が生れる。闇市こそは悪の温床だ。しかし闇市には何でもある。─それこそ何でも。闇市なくして栄養のことは考えられないだろう。

 漢文で浩然(こうぜん)の気(※天地の間に満ちている精気。俗事から解放された屈託のない心持ち。出典は『孟子』)を習った。まだはっきりしない。しかし面白い。論語の方が孟子より面白いと思うが、孟子の王道政治の理想は、民主主義の今日でも共通する倫理を含んでいる。しかし理想はあくまで理想だ。孟子の夢は、違った形をとって、いつの世にも人類の上に輝いている。充実した生活を─それのみを願う。三月上旬に試験があるだろう。私は一心に勉強せねばならないと思う。いつの時にも父のことは胸をはなれず、可愛がって下さった父のことを思う。

わがそばにつねにいませりかた時も
去ることなくて父はいませり

 父はたしかにいる、そして私たちを見つめていられる。私は清く、たくましく伸びよう。お父さん見てて! きっと偉い人になりましょう。薄命に散ったお父さん、私の不孝だったのをお許し下さい。私は父の無言の許しを感じる。

単行本
田辺聖子 十八歳の日の記録
田辺聖子

定価:1,760円(税込)発売日:2021年12月03日

電子書籍
田辺聖子 十八歳の日の記録
田辺聖子

発売日:2021年12月03日

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