名優との別れほど、寂しく悲しいものはない。まさか、いつも名演を見せてくれていた二代目吉右衛門が、こんなに早く逝ってしまうことなど考えもしなかった。
私が、吉右衛門を意識したのは、「萬之助(まんのすけ)」と名乗って初舞台を踏んでから五年ほどたった昭和二十九年四月である。歌舞伎座で初代吉右衛門が『佐倉義民傳(さくらぎみんでん)』の木内宗吾(きうちそうご)を演じ、宗吾の伜(せがれ)彦七をつとめたのが萬之助だ。とても小学生とは思えぬ義太夫にのった演技が、初代の宗吾と調和し、その感動に涙したほどの、みごとな子役だった。
初代の「波野家」の養子となり、二代目吉右衛門を襲名したのだが、“大播磨(おおはりま)”と讃えられた初代吉右衛門のあとを継ぐのは、かなりの重圧だったと思う。若い頃は「東宝現代劇」でも注目された吉右衛門が、やがて歌舞伎立役の第一人者となり、深いセリフ術を身につけた。
吉右衛門のセリフは、メリハリが実にうまかった。普通の会話は少し押えぎみ(メリ)にしておいて、重要な個所にかかると大きく張って(ハリ)、そこに緩急をからませ、内容をしっかりと伝える芸を会得(えとく)した。だから、観客によくわかり、情感が自然に伝わってきた。吉右衛門の演じる人物が泣く時は、観客も一緒に泣けたのだ。時代狂言の多くは義太夫と不即不離の関係にあり、義太夫の三味線にのったセリフや動きが必要だが、昨今は、それが軽ろんじられていることを、いつも吉右衛門は憂慮していた。
吉右衛門の人気は、歌舞伎になじみのない人にも及んだ。『鬼平犯科帳』の鬼平には、多くの女性が惚れた。鬼平の着物の着こなしやさりげない仕草に男の色気がただよった。
吉右衛門の娘瓔子さんと、菊五郎の息子菊之助が結婚したのには、まったく驚いた。まさに、大正時代の「菊・吉」の人気が再現したように感じられた。戦後の歌舞伎は、「吉右衛門劇団」と「菊五郎劇団」に分れ、今も菊五郎劇団は継続しているが、吉右衛門劇団はなくなった。しかし、縁談によって、両家は近付き、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の吉右衛門の大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)に菊五郎の塩冶判官(えんやはんがん)とか、『石切梶原(いしきりかじわら)』での共演など、ファンの待ち望んだ好配役も実現できた。
コロナ禍中でも、吉右衛門は「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」の題材をヒントにひとり芝居の『須磨浦』を創作した。敦盛(あつもり)に対する熊谷(くまがい)の父親としての慈愛がひしひしと伝わる名作だった。おそらく、孫の丑之助(うしのすけ)君を、ことのほか可愛がっていた“好々爺吉右衛門”の思いも、いくらか影響していたのだろう。
私は、六十八年間、大向うから声を掛け続け、「播磨屋!」と何度も叫んだが、最後は、初代と同じ「大播磨!」と掛けてお別れしよう。しかし、二代目吉右衛門の名演は、私にとって永遠である。
写真◎文藝春秋写真部