
かつて私がフィレンツェのアカデミアで絵画を学んでいたころ、課題として幾つかのルネサンス時代の作品の模写を手がけたことがあったが、ボッティチェリの人物像が細い輪郭で縁取られているのに対し、レオナルドの絵には輪郭線をぼやけさせるスフマート技法が用いられていることを知ったのもその時だった。レオナルドのこの新しい試みによってそれまでの輪郭線式絵画は旧式という見方をされるようになるが、アイザックソンはこのテクニックこそレオナルドの芸術と科学、現実と空想、経験と神秘という境界線が分割できない、彼ならではの画法だと捉えている。『美しき姫君』の作者がレオナルドであることの真偽についての論争を要に、読者はレオナルドならではの自然科学的な審美眼をアイザックソンの指摘によって確認するのである。そして、アイザックソンはそうした作品に潜んでいるビジネス的有用性からも、更にレオナルドという人物を象っていく。
「自然の物体には輪郭がない」「物体の境界線の厚みは、目には見えない。だから画家たちよ、物体を線で囲うな」とレオナルドは自らのノートにも記すほど、絵画における線と背景に拘っていた。だとすると、くっきりと輪郭線の引かれた『美しき姫君』の画面から見つかった指紋がレオナルド自身のものと立証されたところで、売りものに対する策略的な工作の疑念を払拭することはできない。実際この世にはレオナルドが描いたのではないかとされる作品は何点もあるし、数年前、やはりレオナルド作とされる『サルバドール・ムンディ』というキリストの顔が描かれた作品が、どこかの金持ちによって510億円で落札されたことが話題になった。レオナルド自身にしてみれば、なぜ500年後の世界でも自分の絵が高額で取引されたり、自分についての書籍が出版されたりするのか理解に苦しむかもしれないが、成功という希望的観測を糧に生きていきたい人々にとって、彼のような存在は必要不可欠なのである。中には、天才と呼ばれたレオナルドと同じ人間であるという自覚だけで、明日を生きる勇気を持つ人だっているだろう。宗教の教祖とは言わないが、人に縋られる立場という意味ではこうした天才たちの立場も同質だと思う。
アイザックソンはこの本の巻末で、レオナルドは凡人には想像できないような傑出した才能に恵まれていたわけではなく、彼に学び、少しでも彼に近づく努力ができるとして、彼の人となりから得られるヒントをハウツー本さながら項目ごとに分けて並べているが、このページに行き着いた時は少しばかり驚いた。
「飽くなき好奇心を持つ」「子供のように不思議に思う気持ちを保つ」「脱線をする」「熱に浮かされる」「先延ばしにする」「紙にメモを取る」「謎のまま受け入れる」など、レオナルドが無意識に身につけてしまったこうした要素を、意図的に自分のものにすることができるのかどうか、私にはわからない。大人になってからいきなり脱線したり先延ばしすることを心がけよう、と言われて実践できる人が果たしてどれだけいるのだろうか。努力次第ということだろうか。それでもレオナルドのような天才になりたいと思う人がいるのであれば、レオナルドと同じ表現者という立場として、私はここにもうひとこと付け加えたい。
メモに「私には一人の友もいない」と書き記したレオナルドの感性と知的欲求を突き動かしていたのは、何よりもこの孤独感である。溢れる想像力と創造性を駆使して縦横無尽に生きる人間は、時には自分自身の味方にさえなってくれない孤独と常に向き合っている。そんな孤独を心底から体感できた人であれば、この本の締めくくりにあるように、誰にとってもなんの役にも立たないことだとしても、無心にキツツキの舌を描写してみたくなるレオナルドの気持ちが少しは理解できるようになるのかもしれない。そんなことを考えさせられる読後感だった。
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