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成瀬正憲 山伏として生きる――実践のアナキズム<特集 アナキズム・ナウ>

成瀬正憲 山伏として生きる――実践のアナキズム<特集 アナキズム・ナウ>

聞き手:栗原 康

文學界4月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

現代日本においてアナキズムの実践は可能なのか。山形で山伏として活動する成瀬氏に、「時間をコントロールしようとする権力」から逃れて暮らす智慧を聞く。


「文學界 4月号」(文藝春秋 編)

■明治政府に目の敵にされた山伏

 ――今回、成瀬さんにご登場いただいたのは、僕からみて「ザ・アナーキー」な方だからです。実は「文學界」で連載(「執念深い貧乏性」)していたときにもいちどご紹介しています。だからこの「アナキズム特集」にご本人に出ていただけるのが、うれしくてたまらない。

 アナキズムとは、誰にも何にも縛られず支配されないで生きるということです。しかし都会で暮らしていると、どうしても行政をたよって生活するのがあたりまえになったり、会社勤めをしてカネを稼がないと生きていけないと思わされてしまう。生き死にが初めから国家と資本にがっちり握られてしまっているんですね。

 そういうものに縛られず生きるのは可能か、どうやったらできるか、そんなことを考えていたとき、成瀬さんに出会いました。もちろんまったく何にも縛られないのはあり得ないにしても、国家や企業がなくても生きていける、そんな生き方を実践しているのが成瀬さんじゃないかと。

 そこで改めて紹介しますと、成瀬さんを「職業」でいうと山伏だということになりますね。

 成瀬 職業と言っていいのかどうか分からないですけどね(笑)。

 ――山伏と聞くと、行者の格好をして法螺貝を持っているくらいは思い浮かぶけれど、それ以上の知識はない人がほとんどではないでしょうか。何をしているのかはあまり知られていないと思うので、まず「山伏って何?」というところから教えていただけますか。

 成瀬 一般的には、霊山で修行をする人たちのことを指します。修行を経て体得されたものを験力というんですが、それを修めるから修験者ともいわれます。もともとこの列島では、山は祖霊のすまいとか、神聖な場所という感じが広く見られたようで、そこに海の向こうのシャマニズムや道教や密教を取り入れて互いに結びつけるような動きが起こってきたんですね。そしてその実践は修行というかたちをとりました。この山林修行者たちがのちの山伏になります。さて修行だから何かを身につけるわけですが、それは何だったのか。奈良時代に僧尼令という法令が出されています。日本は中国大陸の国家のしくみを真似て律令国家をつくり、仏教を国家鎮護に役立てようとしました。僧尼令は、国の認定制だった僧や尼さんを統制しようとしたもので、こういうことをしたら罰するぞといっています。曰く、天を観察して災祥を説き百姓を惑わすこと、呪術で占いや治病をすること、百姓と接すること、僧尼同士で仲間をつくること、等々。僧組織のトップに山林修行を禁じるダメだしも伝えていました。逆にいえば、そうする人たちがそれだけ多かったということです。

 ――禁じたというのは……、そうか、山に入ってしまうと労働力にならないから。

 成瀬 体制を揺るがすなと。山という自然に潜り込み、その力に身を浸し、その知を宿す。それが山林修行者たちのやっていたことです。それを色んなやり方で人びとに伝えました。体制にとって脅威に映らざるをえないのは、古代の王たる天皇もやはり同じようなことをしてたからです。天皇抜きで同じことをされたら中央集権制が成り立たない。だから後に役行者として修験道の祖とされることになる役小角は島流しにあいました。でも役小角のような修験者は列島に幾人もいたようで、平安時代の中ごろには各地の霊山がそれぞれ開かれ、次第にまとまりが作られていきます。西の方で葛城、大峰、熊野修験が起こり、東北には出羽三山の羽黒修験が出る。近世中期以降は庶民が山伏に導かれて霊山に登拝するようになります。存在がすっかり浸透していたんですね。

 ところが明治政府は、近代国民国家を統治するために神道を国教とし、明治元年に神仏分離令、明治五年に修験道禁止令を出します。修験道というのは神も仏も一緒にする神仏習合を最も体現していたものでしたから。明治の初期に最も目の敵にされた集団のひとつが修験道であり山伏だったわけです。彼らは山の中にある種の「自由」を築こうとしていたので、目の敵にされた。

 ――自由。社会の枠からはみだしていくような生を営んでいるということですか?

 成瀬 そうですね。これは山でおこなう修行に大きく関わってくると思います。僕が入っている羽黒修験では、擬死再生と言われる考えが色濃く残った修行をします。山は他界であるとともに胎内であり、そこに入る行者は死者であるとともに胎児。修行は胎児が成長を遂げていく過程であり、最後に山を駈け下りるのは新生児として産声を上げ再生することだと。

 そして人が胎内に宿っている時と、誕生から死までと、他界した後とをそれぞれ海に喩え、修行の過程としてこれら三つの海を渡るとする。これを三関三渡といいます。

 また十界行といって、人が仏となる過程のそれぞれに修行を位置づけています。地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界で十界。地獄界では地獄にいるかのような状況の中でお経を唱え続けるし、餓鬼界では断食をその修行とします。


なるせ・まさのり●山伏・採集者。1980年生まれ。岐阜県出身。2009年に山形県に移住。2013年に「日知舎(ひじりしゃ)」を設立。土地の採食文化や手仕事を体得し、再構成して生産・流通させることで、そこに培われた知と営みをあらたに展開している。


写真●志鎌康平 構成●山内宏泰


 

この続きは、「文學界」4月号に全文掲載されています。

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