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田舎のサイケ野郎

田舎のサイケ野郎

戌井 昭人

文學界3月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

「文學界 3月号」(文藝春秋 編)

 今日も起きたときから脳みそのおさまりが悪かった。布団を這い出て、朝が来たのを確認するため、縁側に向かってゴロゴロ転がる。

 カーテンを開けると外は明るくなっていた。窓を開けると、鼻の穴に冷たい空気が入ってくる。庭のさるすべりの木から葉が落ち、川のせせらぎが聞こえてきた。

 家の前には小さな川が流れている。光を反射した川面が銀色にはじけ、虫のような、なんだかわからないモノがわきあがって舞いだした。それは精霊のようだが、埃の方が近い気もする。だが埃でもないし虫でもない。まして精霊でもない。なんだかわからないモノは川面をキラキラと楽しそうに舞っていた。

 わたしは、朝の太陽を見るとくしゃみがでる性質で、東の空を見上げると大きなくしゃみが出た。なんだかわからないモノは臆病で神経質のようだ。くしゃみの音に驚いて、四方八方に飛び散り消えてしまった。

 くしゃみをしたら金属音のようなものが「ツキーン」と鼻の穴から耳の穴に抜けて行き、あたりが静かになった。せせらぎの音が聞こえなくなる。さるすべりの木が固まり、川の上を飛ぶカラスが黒い点になった。蟻が列をなして縁側のヘリを歩き、昨日わたしが食べたクッキーのカスを運んでいた。

 世界はこのまま静寂になっていくような気がした。だが、唾を飲みこむと、せせらぎの音が聞こえてきて、カラスが鳴きながら飛んでいった。世界は簡単に、いつもの景色に戻ってしまった。

 山の中にあるこの村は、新宿から電車とバスを乗り継ぎ一時間半かかる。車だと意外と便利で、都心から高速道路に乗って一時間弱で来ることができる。だが観光地や見どころがあまり無いので、中途半端に取り残された感じだ。そのぶん手つかずというか、放ったらかしの自然が残っている。

 家の前を流れる川は、集落の中心部を流れる川の支流だった。川幅は七メートルくらいで、地面から一メートルくらい窪んだところをゆるやかに流れている。川辺には短い草が馬の背中のようにひろがり、あっちこっちで花が咲いている。

 百年以上も氾濫したことがないというのんびりした川で、パン屋の佐々木さんは、向こうの川辺の斜面を指し、「土が剥き出しになっているだろ、水の量が増えたとしても、あそこまでだ」と話していた。

 それでも雨が降るたび、川の氾濫が怖くなる。だから、いつでも逃げられるように、避難具の入ったザックと膨らませたゴムボートを寝床に置いている。

 ザックには、ロープ、乾パン、水、懐中電灯が入っている。

 山羊と暮らしている八十歳のきな子婆さんが、手作り味噌をうちに持ってきたとき、縁側に座り、美味しい味噌汁の作り方を教えてもらっていると、わたしの寝床をしげしげと眺め、「アレはなんだ?」とリュックサックを指した。

「避難具です」

「アレに、ぜんぶ詰め込んでるのかい」

 きな子婆さんは驚いて目を見開いた。

「そうです」

「ずいぶん色っぽいことしてくれるじゃねえの、寝床のわきに置いて、しかもパンパンに詰め込んじまうなんて、おめえさん、どんだけ盛んなんだ?」

「は?」

「つうか、かんじんの相手はいるのかい?」

「へ?」

「いねえなら、ワシを相手に試してみるか? はっはっは」

 腹を抱えて大笑いをした。意味がわからない。

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