新たな千円札の顔となった北里柴三郎。破傷風菌の純培養に成功し、血清療法を確立させた北里と、文豪であり、陸軍軍医の最高位・軍医総監へ上り詰めた森鷗外のライバル物語を、医師である海堂尊さんが綴った。
海堂さんは、「『衛生学』を基本にして、感染症と闘ってきた明治時代の医師に学ぶことがある」と語る。
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「私たちにとって、明治時代の医師たちの物語はまさに温故知新」
明治時代に日本の衛生行政を樹立した2人の巨人、北里柴三郎と森鷗外の栄光と蹉跌を描いた『奏鳴曲 北里と鷗外』(文春文庫)を上梓した海堂尊さんは、執筆の過程で多くを知ったという。
「感染症は、いつの時代も人類に襲いかかってきます。コロナ禍に苦しむ現代の私たちにとって、明治時代の医師たちの物語は、まさに温故知新です。当時、コレラが流行した際に新政府は、屈辱的な経験をします」
明治10年7月、清で発生したコレラが、長崎に伝播した。内務省衛生局は、英国船の乗員への検査を実施しようとするが、英国公使に猛反対され、検疫を実施できなかった。不平等条約を締結していた明治政府は、外国船を取り締まれず、結果、コレラの大流行を招いてしまう。
明治12年のコレラ大流行は患者16万人、死者は10万6000人に達した。
「このことが不平等条約を改正しようという大きな気運になりました。その後、後に北里の師となるローベルト・コッホがインドのカルカッタでコレラ菌を発見し、そのコレラ波が日本に到達したのが明治18年。長崎に上陸したコレラを迎え撃ったのが北里です。この時にコレラ菌を日本で初めて確認した北里は、衛生局の英雄になり、ドイツ留学を勝ち取ります」
ドイツに留学した北里は、コッホ研究所で、破傷風菌の純培養に成功し、血清療法を確立させるという、世界的な業績を上げる。
「ベルリンで、東京大学医学部の先輩の鷗外と再会します。鷗外はコッホ研究所に所属し、1年間一緒に過ごしました。この時、鷗外は北里に実験の初歩の手ほどきを受けています。つまり、鷗外は医学的には北里の弟子でもあるのです。
衛生学を習得した2人は、北里が内務省、鷗外が陸軍軍医の道に進みますが、国民と陸軍兵士を感染症から守る、という同じ職責を背負うことになったのです」
北里は帰国後、福沢諭吉らに支援されて、私立伝染病研究所を設立する。その後、香港で蔓延したペストの現地調査へ赴きペスト菌を発見。日清戦争後には、コレラの制圧に貢献するなど、日本の近代医学の父と評される実績を上げていく。
同じ志を持ち、強く惹かれあったがゆえの確執
一方、『舞姫』や『高瀬舟』を著した文豪として知られる鷗外は、陸軍軍医の最高位・軍医総監へ上り詰め、医事評論でも高い評価を受けていた。
著者は小説内で北里を医学界に君臨する不動明王に、鷗外を作家、評論家、軍医という3つの顔を持つ才人として阿修羅に、たとえている。
終生のライバルだった2人。衛生学の分野で後れをとった鷗外は、新聞や評論誌などで、長きにわたって、北里へ執拗な攻撃を続けた。「ドンネル」、ドイツ語で「雷おやじ」と呼ばれた北里はメンタルが強く、びくともしなかったという。
『奏鳴曲 北里と鷗外』では、同じ志を持ち、強く惹かれあったがゆえに、2人の間に確執が生まれていった様子が丁寧に描かれている。
北里と鷗外の「痛恨の過ち」
北里と鷗外、それぞれの評伝は数あれど、今作が注目に値するのは、2人の「巨人」の「栄光」だけではなく、「蹉跌」にも踏み込んでいる部分だ。
明治時代、コレラ、結核、脚気が三大疾病だった。ドイツ留学で学んだ知識を生かし、北里と鷗外は、これらの疾病の治療に取り組むがーー
「これは過去の評伝で明確な指摘をされていませんが、北里は結核の治療薬として、ツベルクリンを選択し続けるという過ちを犯しています。敬愛する師・コッホが、『ツベルクリンによる結核治療』にこだわったためでしょう」
一方、鷗外にも、医学的に大きな瑕疵がある。
「脚気予防として麦食が優れていることを、大規模疫学実験で示した海軍軍医総監・高木兼寛の説に反対し、米食に拘り続けたため、日清・日露戦争で陸軍に脚気が蔓延し、多くの兵の命が損なわれてしまいました。
ただ、私は、彼らを糾弾するつもりはありません。医学における過ちを、現代の知識で非難するのはアンフェアです。北里に関しては、当時は結核の特効薬であるストレプトマイシンも発見されておらず、他に療法がなかったがゆえに、ツベルクリンを選択せざるを得なかったという側面もあります。
一方、鷗外は、海軍での麦食効果を知っていたはずですが、高木説の学理が間違っていたこともあり受け入れなかった。この過ちが分かった時に、訂正すべきだったとは思いますが……」
2024年に新しい千円札の顔となった北里と、2022年に没後100年を迎えた鷗外。
本作では2人の業績にスポットライトを当てると同時に、「医学上の失敗」という「負の部分」を描くことで、人物像を立体的に浮かびあがらせている。
「2人がぶつかり合うシーンは執筆していて楽しかった。天敵(好敵手?)がいたからこそ、北里と鷗外の輪郭を明瞭にできたのだと思います」
この時代に北里がいたなら
執筆にあたり、明治時代の衛生行政を徹底的に調べた著者は、政府のコロナ対応にがっかりしているという。
日清戦争が終わった直後、大陸にいた森鷗外は、コレラ患者が発生したことを軍に報告した。日本では北里の盟友の後藤新平が、凱旋兵24万人の検疫を実施した。帰還兵の検査、発症者の隔離は、国民の命を守るために必要な措置だった。その予算は、現在の1兆円にも及んだという。
「苦しい戦争に勝った直後に、兵士を船上に留めるという処置に、陸軍の一部幹部が猛烈に反対しますが、児玉源太郎・陸軍次官は検疫完遂を主張する後藤新平を強力に支持します。後藤新平は北里の協力を得て、コレラ蔓延を阻止しました。こうした判断こそ、リーダーの正しい決断です。感染疑いの人を検査、診断し、感染者を隔離する。このシンプルな対策を徹底したことで、感染症を食い止めることができたのです。
政府のコロナ対策は迷走し、『検査をせずにコロナと診断する』という『みなし診断』など、医学的に言語道断なことが行なわれた。『検査体制を整えられなかったことは政府、厚生労働省の失策である』と認めた上で、対応を検討していくべきでした。
北里博士がコロナ禍の日本の様子を見たら、政治家、官僚の体たらくに、雷を落とすでしょう。そんな北里博士に成り代わり、今の日本政府にひと言言うとしたら『過ちては改むるに憚ること勿れ』といったところでしょうか」
(取材・構成:文藝春秋第二編集部、撮影:今井知佑/文藝春秋)
海堂 尊(かいどう・たける)
1961年千葉県生まれ。医師、作家。『チーム・バチスタの栄光』で第4回「このミステリーがすごい」大賞を受賞、作家デビュー。近著に『プラチナハーケン1980』。評伝として『よみがえる天才 北里柴三郎』『よみがえる天才 森鷗外』(ともに、ちくまプリマー新書)を連続刊行した。