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『シャイロックの子供たち』は、二層構造が仕込まれたミステリー。まるで《だまし絵》のような多面性を秘めた小説だ!!

『シャイロックの子供たち』は、二層構造が仕込まれたミステリー。まるで《だまし絵》のような多面性を秘めた小説だ!!

文:霜月 蒼 (ミステリ研究家)

『シャイロックの子供たち』(池井戸 潤)


ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 実は池井戸潤は、『シャイロックの子供たち』で小説の書き方をドラスティックに変えていた。それまでは事前にプロットやストーリーをきっちり組み立て、登場人物の言動をそこに当てはめてゆくようなやり方で書いていたのを改め、「登場人物へのリスペクトを前面に立てたエンタメ」(「ダ・ヴィンチ」二〇一四年八月号)を意識したのだという。登場人物ひとりひとりの人生や人間性を尊重し、そこをしっかり書きこみ、その結果として登場人物たちが自然に動きだして、そこに生まれてくる物語を書き留める。より自発的で、即興的で、人間的な書き方。「あれ以上のものは書けない」と言わしめるほどの手ごたえをもたらしたのは、そんな新たな執筆法だった。だからこそ、「ここで実践した小説の書き方が、以降のすべての作品に繋がって」いった。だからこそ、『シャイロックの子供たち』は「もうひとつの原点」となった。

 この筆法の変化は第二期の第一作たる『空飛ぶタイヤ』によくあらわれている。それまでの「タイトに構築された銀行ミステリー」という枠を超えた、より大きく、広く、明朗でオーガニックな懐の深さを、読む者は感じるはずだ。それは続く『鉄の骨』『下町ロケット』でも踏襲される。〈タイヤ・骨・ロケット〉の三部作は第二期の開幕を高らかに告げる新境地であり、これが「作家・池井戸潤」をさらに上のステージに引き上げたことは、三作すべてが直木賞候補となり、ついには『下町ロケット』で受賞を勝ち取ったことが証明している。

 これが『シャイロックの子供たち』のもたらしたものである。事前の設計図よりもキャラクター造形と描写に重きを置く執筆法の発見と実践、そしてその結果として得られた「池井戸流の銀行小説」の最高傑作という手ごたえ。それが「第一期」にピリオドを打ち、より広く大きな「第二期」へ転身することを可能にしたのである。

 実際に『シャイロックの子供たち』を読めば、「登場人物へのリスペクトを前面に立てたエンタメ」という言葉に納得がいくだろうと思う。本作の舞台は東京第一銀行長原支店、中小企業や町工場がひしめく地域の店で、取引先もそうした地元の企業ばかり。「東京」という大都会のイメージとは異なる、下町という言葉の似合う生活感あふれる町だ。ここに収められた十の短編は、この長原支店を軸に展開し、ここに勤務するさまざまな年齢や職種の銀行員たちのドラマを描いてゆく。

 第一話「歯車じゃない」でスポットライトが当てられるのは副支店長の古川一夫。軍隊まがいの服従とノルマ達成を叫ぶ古川と、現代的な合理主義でそれに反発する若手行員・小山徹の軋轢が描かれる。続く第二話「傷心家族」では国際派バンカーになる夢を追う融資課次席の友野裕が主人公。第三話「みにくいアヒルの子」では亡き父の代わりに一家を支える行員・北川愛理が、現金紛失事件の疑いをかけられ……。このように一編ごとに焦点となる人物を変えながら、「銀行」という職場のありようと、そこで働く者たちの姿がリアルに描かれてゆく。

 じつは本書、フルネームがちゃんと書かれている登場人物だけで二十人を超える。しかし「登場人物へのリスペクトを前面に立てたエンタメ」の面目躍如というべきか、読んでいてまったく混乱しないどころか、いつしか人間模様が頭に定着して、自分もこの支店で働く一員のような気がしてくる。出てくるキャラがみんな等身大だからだろう。彼らの悩みは僕たちの悩みであり、彼らの怒りも喜びも僕たちと地続きのところにあるように感じられる。これが「登場人物へのリスペクト」のもたらした効果だ。

 登場人物を尊重するとは、彼らの心の揺らぎに由来する行動の揺らぎが設計図に抵触したときに、彼らの心のほうを優先するということである。そうすることで厳密に組み上げたプロットの幾何学的な美しさを損なってしまうかもしれない。でも、彼らが十分な人間性をもって描かれていれば、その揺らぎは有機的な美しさを持つはずである。

 その美しい揺らぎを「情」と呼んでもいい。『シャイロックの子供たち』のドラマに確かに込められているのは、「情」のもたらす弾力と曲線である。その白眉が第九話「ヒーローの食卓」だろう。働く者の矜持と家族、というのが本書の大きなテーマだが、それが清濁併せ呑んだかたちで、この切ない短編に結晶している。

「キャラクターの描写の中に、物語の設計図がある」と、池井戸潤は言う(「ダ・ヴィンチ」二〇一六年八月号)。本書収録の短編たちはまさにそのお手本だ。それが『シャイロックの子供たち』以降の筆法となる。物語から人物を生み出すのでなく、人物から物語が生まれてくる――第二期の作品たちがもつ大らかな輪郭線は、人物を写すオーガニックな描線と相似形を成している。大きく、明朗で、のびやかな線をもつ「情」の物語。本書はそういう池井戸文学の最初の一歩であった。

文春文庫
シャイロックの子供たち
池井戸潤

定価:770円(税込)発売日:2008年11月07日

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