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N/A【第127回文學界新人賞受賞作】

N/A【第127回文學界新人賞受賞作】

年森 瑛

文學界5月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

「文學界 5月号」(文藝春秋 編)

 藁半紙が光って見えたのは十三年の人生で初めてだった。

 エアコンが壊れたので教室の窓が開け放されていて、制汗剤と、シャンプーと、洗っていない上履きと、手の甲についた唾液の乾いた臭いが攪拌されていた。

 中央で端と端を結ばれた二枚のカーテンが空気で膨らんでブラジャーになった。窓際の席で横面に胸を押し付けられながら、前から配られたプリントを受け取った。いつも通り読まれることなく家で揚げ物用の紙になるはずだった保健室だよりの見出しが目に入った。

『低体重は月経が止まる危険性があります』

『将来のために過度なダイエットはやめましょう』

 その日の夜から、炭水化物を抜くのが始まった。母に何か言われたら、食べ過ぎると眠くなって勉強や部活に身が入らなくなるから、と答えた。元々平均体重より痩せているほうだったので、生理が来なくなるのはあっという間だった。どうしてこれが禁止されているのか分からなかった。つらそうな友だちもみんな痩せればいいのに、と思ったが、体型の自慢にとられかねないので言わずにおいた。自分を羨ましがって痩せたいと言いながら毎日お菓子を食べる友だちは、痩せるよりも食べるほうが重要なのだから、水を差してはいけないのだ。

 それでも、どうしてもこの気持ちを誰かと共有したくて、ほとんど使っていないツイッターで『生理 こない』で検索した。『生理こないの不安だ~』ちがう。『生理もう一か月来てない。彼氏に言うか悩む』ちがう。『生理こないときはタカトシのタカをホーム画面にするといいってやつマジだった』ち、が、う。『生理 こない 嬉しい』で検索。『生理こないと思ったら妊娠してた! 嬉しい~』『生理こないと妊娠してるって感じして嬉しい』『生理こない。もしかして……(赤ん坊の絵文字)(ハートの絵文字)嬉しい!』無言でアプリを閉じた。叫び出してしまったら、どこかに連れていかれる気がした。

 しばらくしてから、家族の共用パソコンの検索履歴に「子ども 食べない」「子ども ダイエット やめさせる」「拒食症 親 対応」「拒食症 原因 母親」と出ていて、母を気の毒に思った。無駄な心配をかけないよう、四十キロ弱で維持することにした。学校の硬い椅子に座り続けていると四限のあたりで尾てい骨が痛くなって、防災頭巾の上にさらにクッションを置いて座るようになった。何度か保健室に呼ばれてカウンセリングを受けたが、身長以外何も変わらぬまま中等部を卒業した。エスカレーターで上がった高等部でも、自分の血の色はたまの怪我か破けたニキビでしか確認せずに終わりそうだった。

 

***

 

 金切り声を上げて扉が開いた。数年後に建て替えが決まっている高等部の校舎は、どこもかしこも乾ききっていて油が足りない。

「松井様、ナプキン持ってない?」

 チャイムが鳴ると同時にトイレに行ってすぐ帰ってきた子が半開きのドアから顔を覗かせていた。ドア側の席の一番後ろだから、こういう時にまどかは話しかけられやすい。首を横に振ると、ロッカーを整理していたオジロがまどかの背中で隠すようにしてポーチごと渡した。いつものように中身を投げることは、安住先生がいる教室では憚られたようだった。

「スカート生きてる?」

 向けられた後ろ姿には糸くずしか付いていなかった。

「大丈夫だよ」

 サンキュ~と言いながら小股で駆けて行ったので開いたままにされたドアを後ろ手で閉めると、十二月の廊下の空気が断ち切られた。取っ手に引っ掛けた指先に痛みが走って、見るといつの間にか紙で切っていたようだった。皮膚が弱いのでポーチの中には絆創膏と軟膏だけが詰まっている。

 チャイムはとうに鳴ったというのに、森ちゃんは安住先生に話しかけていなかった。

 遠くで落ちた雷に似た音を立てて黒板の一段目と二段目が入れ替わる。安住先生が一段目に書いていた文字を消し終わる頃には八重歯を光らせて隣に立つのが常だった森ちゃんは、まだ席で色とりどりのペンをひとつひとつケースに仕舞っていた。二段目を消し始めた安住先生の背中から、森ちゃんの様子をうかがうような視線を感じる。筆圧の弱い『公民権運動』が姿を消した。消しかすを机の端に集め始めた森ちゃんの足元には、三限終了後に払い落とした黒いかすが散らばっていた。

 安住先生の右手が通り過ぎたそばからアメリカの地図が消えていく。

 世界史選択組は二十人くらいいて、同じ時間に別教室で授業を受ける日本史選択組の子たちが戻ってくるまでの間、安住先生はいつも森ちゃんから引き止められ話し相手にされていた。森ちゃん以外、このクラスのバスケ部はみんな日本史選択組なのだ。森ちゃんはバスケ部の中では人当たりが良く話しやすい子だけど、本人はクラスメイトより気心知れている顧問の安住先生の方が談笑相手に最適なようだった。森、安住のこと狙ってんだよ、面食いだから、と一部では揶揄されていたので、それが事実なら今日の態度は森ちゃんなりの駆け引きのつもりなのかもしれなかった。安住先生の年齢は知らないが、他の教師よりははるかに若いように見える。

単行本
N/A
年森瑛

定価:1,485円(税込)発売日:2022年06月22日

電子書籍
N/A
年森瑛

発売日:2022年06月22日

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