安住先生が黒板消しをクリーナーにかけ始めたころ、ようやく森ちゃんが立ち上がった。
黒板のすぐ脇に備え付けられた古いクリーナーの作動音は、近くの工事現場の音をかき消す程のやかましさだ。森ちゃんの顔は少しだけこわばっているようにも見えるが、それはクリーナーにかき消されないように声を張り上げているせいかもしれない。まどかの座る一番後ろの席までは二人の声は届かない。
森ちゃんはいつものように八重歯を光らせて安住先生を見上げる。交差した腕の中で抱えられた分厚い教科書が森ちゃんの胸のふくらみを押さえつけていた。
扉が勢いよく開かれて、クリーナーの轟音を飛び越えてきーっと叫んだ。
「また安住先生いるんだけど」「いつもじゃん」「先生も次の数学いっしょに受けようよ」帰ってきた日本史選択組の子たち、その先頭にいたバスケ部の数人が親しみのこもった声をかける。「敬語を使えよお前ら」と返す安住先生の声にも怒りは含まれていない。安住先生の周りは明るい声で埋め尽くされていた。
学校の最寄り駅のホーム、列の一番前に見知った二人組が並んでいるのにまどかが気付くと、そのうちの片方、オジロも気付いたようで手を振ってきた。挙げていないほうの手には形が崩れた単語帳があった。その隣でホームドアを眺めていた翼沙もオジロの反応で気付いたようで、軽く手を振る。ちょうど来た電車の風で翼沙の分厚い髪があおられて、塞がりかけのピアスの穴が見えた。二人の後ろに並んでいた人に小さく会釈をして、自然な横入りを成功させた。
「松井様もこの時間にいるの珍しいね」
まどかのことを初めに「松井様」と呼びだしたのはオジロだった。だって王子だし、まどかって顔じゃないでしょ。良いことを言ったようなオジロの顔に気圧されたすきに周りから賛同の声が押し寄せ、今やクラスでのまどかの呼称は「松井様」で統一されつつあった。そう呼ばないのはあまり話したことのない子か、翼沙くらいだった。
「部活、引退したから」
「あーそっか。おつかれ」
電車から吐き出された人々と入れ替わるように乗り込む。席はまばらにしか空いていないので、向かいのドアの前で立つことにした。外と車内の寒暖差でオジロの眼鏡はくもっていた。
大体の生徒は世田谷線か田園都市線の下りの路線を使っている。まどかとオジロは一度渋谷まで上って東横線に乗り換えてからまた横浜方面に下る面倒くさい登下校ルートで、特に示し合わせたわけでもないが登校中は乗り合わせることが多かった。翼沙の家は田園都市線の下りの路線だったはずだ。まどかの視線を受けて、翼沙は答えた。
「新大久保で食べてくるんよ」
「ツイッターの人?」
「まみさんと信玄餅さんね」
インターネットで知り合った人と会ってはいけません、という大人の言いつけを翼沙は平然と破っている。知らない人ではないのだ、翼沙にとっては。
翼沙は自作のスマホカバーの裏面を見せつけるように掲げた。グリッターの入ったクリアカバー越しに、金髪をなびかせたアイドルと目が合う。先週は違う女の子のチェキが挟まっていた気がした。気付いたのはオジロも同様だったらしい。
「翼沙、また推し変した?」
「変わってないんよ。増えただけ」
「不純だ」
「は? 死んでほしいんだが」
相手を乱雑に扱う言動は、二人の中等部から育んだ親しさを証明していた。けたけた笑っているオジロを無視して、翼沙が聞いてくる。
「まどかはどこ行くん」
「人と会う」
人って、と鼻で笑われた。
「彼氏って言えし」
「んー」
うみちゃんのことを彼氏と呼ぶのは何となく嫌だった。恋人というほど甘ったるくもなく、相方というほどくだけた関係ではなく、最近流行りのパートナー呼びも、中身が伴わないハリボテの名称に感じられた。付き合っている人、というのがまどかの中で今のところしっくりくる名称だった。
「あたしも彼氏つくるかあ」
翼沙の言葉のおおよそは空気で膨らんでいた。誰にも受け取られなかった言葉はヒーターの風に押し上げられて、広告のくぼみにひっかかって帰ってこなかった。
オジロはくもりが取れた眼鏡の奥の瞳を手元の単語帳に落として、翼沙はこれから会う友達とやり取りするのかスマホの液晶の上でせわしなく親指を滑らせ始めたので、まどかもそれに倣ってスマホを取り出した。
『どうしよ 斜め前のドアのとこにいる』
ロック画面に表示されたポップアップで顔を上げた。
まばらに立っている人々の隙間から、向かい側の一つ先のドア付近にうみちゃんの姿を見つけたと同時にポップアップが増えた。
『現地集合にしていい?』
『り』
この続きは、「文學界」5月号に全文掲載されています。
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