時を超え今に問う、若き英雄の姿
「かつて、尊敬する作家の先生が『経験のない出来事は書けても、自分の中にない感情は書けない』という趣旨のことを書かれているのを読みハッとしました。今作では、私が心から勇気づけられたり、逆に恐怖を感じたりしたこと、つまり自分にとって嘘のないものを書くということを心がけました」
松本清張賞作家・千葉ともこさんの第二作『戴天(たいてん)』は、唐・玄宗(げんそう)皇帝の時代が舞台。名家の嫡男である崔子龍(さいしりゅう)は、幼馴染の裏切りで身体を欠損し、辺境の地で従軍する。そこでは宦官・辺令誠(へんれいせい)が賄賂で地位を築き、軍内で絶大な権力を振るっていた。人命を軽んじるような暴力的な姿勢に、子龍は命がけで激しく反発する。
一方、僧の真智(しんち)は、宰相・楊国忠(ようこくちゅう)の不正を皇帝に直訴しようと試みる。国をも揺るがすこの事実は、権力に殺された義父が遺したもの。諫言(かんげん)の計画が何者かによって阻まれ頓挫しかけたその時、安禄山(あんろくざん)挙兵の知らせが届く。
権威による支配を追い求める者と、その中に組み込まれていく人々。世の中を覆う権力の仕組みに必死で抗う二人は、自らを信じ、内乱の世を強く生き抜いていく。
「本作構想のきっかけは、デビュー作『震雷(しんらい)の人』出版後に、読者から受け取った葉書でした。『小説を読んで勇気をもらいました』というメッセージに、逆に私自身が励まされたんです。今回は作品を通して、勇気を倍にしてお返ししたいと思いました」

そこで千葉さんが描こうと決めたのは〈英雄〉対〈巨悪〉。それまで公務員として働いてきた経験が、この構図に反映されているという。
「『戴天』における英雄とは、自分を大切にできる存在です。自分の意思を尊重する姿勢から、おのずと他者を思いやれるようになるはず。胸を張る英雄に自己犠牲はいらないと思うんです」
就職氷河期世代の千葉さんは、仕事を通し、期待に応えようと無理をして心身を壊す人も多く見てきた。
「滅私奉公は美学として日本人に好まれやすい反面、危険な考え方でもあります。群れの中で権威に従順であろうとする姿勢は、大事なものを見えにくくしてしまいますから――個々の意思がかき消されることは、人間としての尊厳を奪われることと同じです。知らぬ間に、自分がその状況にある場合もあって、恐ろしいですよね」
唐の時代を生きた二人の若者は、悩み苦しみながらも、権威に臆せず志を通そうと奮闘する。その姿は時代を超え、今を生きる読者に守るべきものとは何か、問いかけている。
ちばともこ 1979年茨城県生まれ。筑波大学日本語・日本文化学類卒業。2020年『震雷の人』(文春文庫から六月に刊行予定)で第27回松本清張賞を受賞し、デビュー。