高野和明、渾身の長篇連載! 一年前に踏切で起きた殺人事件、その謎を手繰るうちに記者が行き着いた先は……
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翌くる日、松田は仕事に出る前に、古巣の新聞社に立ち寄った。持ち株を処分するためだった。
日本の新聞社は、経営の独立を守るためとして株式の公開が法律で禁じられており、代わりに社員が出資金を出し合って資本としていた。株価は変動しないし、配当金も雀の涙なので、一定の金額を利息なしで預けているのと同じである。松田は退職時に株券を戻そうとしたが、安定株主を維持したい社員持ち株会から待つように頼まれてしまい、今の今まで保有し続けていたのであった。
返還手続きによって戻ることになった現金は三十万円だった。今後、取材費が不足した場合は、そこから捻出する覚悟を決めていた。
その後は五反田へ出向き、前日のうちに約束を取り付けていた取材相手に会った。八十年代までキャバレーの雇われ店長をしていた元木という男で、現在は駅前のビルの中に、小さいながらも自分のバーを構えていた。元木はかつての仕事柄、中小零細企業の経営者に顔が利くので、遊軍記者の松田にとっては街ネタの情報源として随分と役に立ってくれていた。
予約したレストランで久し振りの再会となり、互いの近況を報告し合った後、松田は三軒のキャバクラの店名を言って、関係者を知っているかどうかを尋ねた。
「あいにく、どこも知りませんね」と元木は答えた。
経営者を捕まえられれば話は早かったのだが、やはりキャバクラ取材は手間暇をかけて地道にやるしかなさそうだった。
松田は続けて、キャバクラという業態について元木から知識を仕入れた。殺人事件の被害者が生前にどんな仕事をしていたのか、大まかにでも摑んでおきたかった。
「キャバクラの肝は、疑似恋愛ですよ」と元木は説明した。
従来のキャバレーや銀座の高級クラブではプロのホステスたちが接客するが、キャバクラはいかにも素人っぽい女の子を揃えているのが味噌なのだという。
「客は、そんな娘たちと恋人気分になって酒を飲むんです。いつかはベッドへ誘えるんじゃないかと期待しながらね。客は気に入ったホステスに会うために店に通い、ホステスは客から指名されるたびに収入が上乗せされる。男の欲望を去なしながら、いかに客として繫ぎ止めておくかがホステスの腕の見せ所です」
「男って馬鹿だな」
「本当に」と元木は笑った。「恋人を求める男たちはキャバクラに、母親を求める男たちはスナックに行きますよ」
そう言えば、スナックや高級クラブの女主人は、どこでも『ママ』と呼ばれていると松田は気づいた。
「キャバクラでは、恋人気分を盛り上げるために、『同伴出勤』っていう特別なサービスもあります。開店時間の前に、客とホステスが外でデートをしてから、一緒に店に行くんです。店のほうからすると、同伴のサービス料を取れる上に、開店直後の空席を埋めることができるんで随分と助かるんです。客を同伴させたホステスには、サービス料の中から、かなりのバックが行きます」
「ホステスの年収は、どれくらい?」
「実力次第で、かなり幅があります。下は三百万くらいから、上は二千万近くまで行くんじゃないですか」
全国紙の記者よりも稼ぐのかと松田は驚いた。あの髪の長い女は、どうだったのだろう。「陰気な感じの女性には、勤まらない仕事かな?」
「もちろん」
「稼ぎの悪いホステスが、枕営業とやらに走ったりすることも多い?」
「ありますね。ただし、ここは説明が難しいんですが、キャバクラっていうのは、性風俗業界とはぎりぎりのところで違うんです。水商売の最後の一線とでも言えばいいんですかね。性を売り物にはしますが、性行為にまでは及ばないというのが連中のプライドでもあります。しかし、男と女が顔を突き合わせて酒を飲む商売ですから、例外はいくらでもあるということです。実際、枕営業なんかに走った挙げ句、もっと金になる仕事を求めて、風俗に堕ちていく女たちも多いですよ」
それが、あの髪の長い女が辿った道なのだろうと考えて、松田は少々の失望を味わった。取材対象者は、どこか少しでもいいから清純な面影を残した女性であって欲しかった。
最後に松田は、キャバクラ独特の複雑な料金システムについても教えを受けた。取材が難航すれば、結構な額が飛んで行きそうだった。
この続きは、「別冊文藝春秋」7月号に掲載されています。