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「属性」との付き合い方――『N/A』論

「属性」との付き合い方――『N/A』論

中村 香住

文學界10月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

「文學界 10月号」(文藝春秋 編)

 年森瑛『N/A』を最初に知ったのは、Twitter上だった。そこでは、『N/A』に「クワロマンティック」の要素が含まれているという話がなされていた。私は以前、「クワロマンティック宣言――「恋愛的魅力」は意味をなさない!」(中村 2021)という論考を発表しており、自分自身もクワロマンティック自認を持つ人間だ。よって、まずは実存的関心からこの作品を読み始めたことを覚えている。

 本作において主人公のまどかが望んでいる「かけがえのない他人」同士という人間関係の概念は、確かにクワロマンティックと通底するところを多く持っている。まどかによれば、「かけがえのない他人同士」とは、「ホットケーキを食べたりおてがみを送ったりするような普遍的なことをしていても世界がきらめいて見えるような、他の人では代替不可能な関係のこと」であると言う。それは「ぐりとぐら、がまくんとかえるくんのような二人組」でもあり、「子どもじみた言い方をすると『最強の友だち』だったが、それは友だちの延長線上にあるようで、ないような気も」するものでもある。さらに、小学校の頃のまどかは、「恋人というものはかけがえのない他人とは違う、どちらかというと遠ざかる気がする」という直感も持っていた。つまり、「かけがえのない他人」とは、明確に友だちであるわけでも恋人であるわけでもない、どちらにもカテゴライズすることができない/したくない相手のことであると読み取れる。

 翻って、クワロマンティックとは、一般的には「自分が他者にいだく好意が恋愛感情か否か判断できない/しない」(JobRainbow編集部 2020)人のことであると言われる。しかし、この語の成立経緯を追ってみると、実際にはこの語にはもう少しラディカルな態度が含まれていると言える。具体的には、まずクワロマンティックの「クワ」はフランス語の“quoi”(=what、「何」)に由来している。その意味で、クワロマンティックとは「恋愛的魅力(romantic attraction)」や「恋愛の指向(romantic orientation)」といった概念モデル自体が自分にとっては意味をなさない・適さないと感じるアイデンティティのことであると言える。そして、クワロマンティック実践の中で、恋愛か友情かなどの関係性のラベルを付けずにただ人として大切にしている相手のことを、中村は前述の論考で便宜上「重要な他者」と呼んでいる。このように整理してみると、まどかの「かけがえのない他人」概念は、クワロマンティック的な「重要な他者」概念とかなり近しいものに思える。

 このような「かけがえのない他人」とは、つまり、何かしらの「属性の枠組み」から自由な人間関係のことである。「まどかのことを、ただのまどかとして見てくれて、まどかへの言葉をくれる他人がほしかった」と言うように、まどかは自分のことを何かしらのカテゴリーや枠組みに当てはめて見られることを嫌い、「属性」から自由な関係性を求めていた。まどかは、同性であるうみちゃんとたまたま「試験交際」しているからと言って「LGBTの人」であると固定されるのも嫌だし、ただ単につらい生理が来てほしくないから低体重を保っていただけなのに「拒食症の女の子」として扱われるのも嫌だった。まどかは、そうした属性、特にマイノリティ属性を付与されてしまうことにより、一方的に自分の実像とは異なるナラティブを押し付けられてしまうことに、特に居心地の悪さを感じていたように思われる。

 まどかは、そうしたナラティブの中でも特に、自分に付与された属性に関する支配的な言説に対して抵抗を見せる。社会学の一分野であるライフストーリー研究では、個人のライフストーリーには、その個人に独特な語りと、特定のコミュニティの中で流通する用語法である「モデル・ストーリー」、そしてより広い社会において支配的な言説である「マスター・ナラティブ」が重層化されて含まれていると言われている(桜井厚・小林多寿子 2005: 179)。まどかは常にそうしたマスター・ナラティブやモデル・ストーリーに対して抵抗しようとしている。たとえば、自分の意志で生理を止めるために痩せようとしていたまどかだが、「大人の中では、まどかの意志で行っていることは、世間の風潮に抑圧された結果生じていることになっていた」。この、「世間の風潮」、具体的には「女性を取り巻く悪しき風潮」に抑圧された結果拒食症が起きるという言説は、摂食障害に関する「マスター・ナラティブ」であると言える。また、うみちゃんと別れる時も、まどかはうみちゃんによって、同性愛者に対する「社会の抑圧に負けてうみちゃんと別れようとしている人」になっていた。これは、同性愛当事者であるうみちゃんが当事者コミュニティの中で仕入れた、コミュニティの中で機能するストーリーなので、「モデル・ストーリー」であると言える。このように、まどかの周りには、常にまどかのさまざまな「属性」に関してマスター・ナラティブやモデル・ストーリーを語り出す人たちがいた。まどかの周辺ではそうしたテンプレート的な言説が氾濫しすぎていて、まどか自身の「個人の」語りが見えづらくなっていたとまどかは感じていたと整理することができるだろう。

 そのことが、「まどかは当事者性なんて一つも持っていなかった」「その属性の枠組みの中にいる人とまどかが共有できることはほとんどなく、世の中が想像する属性のイメージとも適合しないのに、まどかへ向けられる態度は、その属性への対応として推奨されるものばかりだった」という言明に現れている。ここで言う「その属性の枠組みの中にいる人とまどかが共有できること」は「モデル・ストーリー」、「世の中が想像する属性のイメージ」は「マスター・ナラティブ」に当たると言えるだろう。しかし、「当事者性」は、必ずしもモデル・ストーリーとマスター・ナラティブだけによって構成されるものではない。そこからはみ出た、またそれらと重層的に織り交ざった、複雑な個人の独自のライフストーリーもまた、「当事者性」の一部として重視されるべきものであろう。

 こう考えると、むしろまどかのほうこそが、「属性の枠組み」に強くとらわれすぎなのではないかとも思えてくる。たとえば、「本当はどんな属性にもふさわしくないのに」というまどかの言葉は、属性にはその属性に相応しいイメージや振る舞いや在り方があるということを前提としている発言であると読める。実際には、まどかが想像するように「踏み出したら輪っかの形が崩れてしまうから、この属性から出てはいけない」「やさしく手をつないでくれた人をがっかりさせないように、黙って笑顔で収まっている」必要がある、なんてわけがない。むしろ「属性」はその内部での多様性を寿ぐことでこそ、社会における支配的な言説への抵抗の道具になりうるとも言える。

 まどかは、自分の「属性」に関して、その属性の人に対する「正しい接し方」が先んじてあり、それを勉強してその通りに振る舞われてしまう、いわば「定型文」を言われてしまうと感じていたようだ。翼沙がうみちゃんのセクシュアルマイノリティアカウントを見つけた時に、「LGBTの人の勉強」をして、「用意された言葉」だけを手渡したように。また、まどかの母が拒食症に関して「様々な資料を読んで、勉強した通りに接しようと努めていた」ように。

 しかし、まどかは、オジロの祖父が新型コロナウイルスに罹患した際に、自分もまた「定型文」しか言えない時があるということに気づく。まどかは「オジロのためだけの、まどかからの言葉を探す必要があ」ると考えていたが、実際に思い浮かんだのは「どこかで聞いたことのある定型文のような言葉ばかりだった」。まどかは、「定型文ができるのは保守だけで、何の革命も起こせない。状況を変えられない」ということを知っていた。知っていてなお、「定型文」しか思いつくことができない場面があるということを、まどか自身が突きつけられた。

 ここで改めてまどかのコミュニケーションにおける自分なりの戦略・戦術を振り返ってみると、それは実は結局「定型(文)」の枠を出ないものなのではないかという疑問が湧いてくる。オジロが「彼氏の話、していい?」と切り出してきた時のまどかの「飛んできた言葉を受け止めない。ただ打ち返す。キャッチボールではなく、ラリーする。そうすると、理解できない話でもスムーズに続く」という態度や、まどかのうみちゃんとの会話における「脊髄反射に近かった。身体の中に浸透しない。ぶつかったものを打ち返すわけでもない。ひたいの十五センチ手前くらいで、上澄みの言葉だけで跳ね返っていく会話だ」といった会話の仕方は、どちらも「相手はこのような会話の方式を望んでいるであろう」ないしは「相手に合わせるのであれば、このような会話の方式が最善の選択であるに違いない」という想定に基づいており、それは相手のことをあらかじめ何かしらの型や枠組みに当てはめている態度に他ならないであろう。

 そうしたまどかの態度が決定的になる場面が、最後のうみちゃんとの偶然の再会シーンである。久しぶりに生理がきた(きてしまった)まどかのお尻に血がにじんでいたのを見つけたうみちゃんは、まどかの面倒を見ようとするが、途中までまどかはうみちゃんが下心で自分の面倒を見ていると思っていた。その予想は、「……や、もう新しい彼女いるし。なんで元カノに永遠に好かれてると思ってるの?」といううみちゃんの一言によって見事に打ち砕かれる。「恋愛じゃないと他人に優しくできないとか、そんなわけないじゃん」と言ううみちゃんに対して、「……すいません」と返した時、初めて、まどかは「うみちゃんのことを好きかもしれないと思った」。これは、何かしらの枠組みからはみ出して人と人として対峙した時に初めて「好きかもしれない」と思うということであり、ここでまどかは実は自分が一番人を属性によってラベリングしていたことに気づいたと言えよう。しかし、これはまどかに救いをもたらす終わり方でもある。自分自身が「属性」や「定型」の思い込みから一歩外に出れば、目の前の世界の色が変わって見えるという可能性にも同時に気づいたのだから。

【参考文献】

JobRainbow編集部、2020、「クワ(クォイ)セクシュアルとは?【恋愛と友情の違いがわからない!】」、LGBT就活・転職活動サイト「JobRainbow」、(2022年8月22日取得、https://jobrainbow.jp/magazine/whatisquoisexual)。

中村香住、2021、「クワロマンティック宣言――「恋愛的魅力」は意味をなさない!」『現代思想』2021年9月号 特集=〈恋愛〉の現在、60―69。

桜井厚・小林多寿子、2005、『ライフストーリー・インタビュー――質的研究入門』せりか書房。

(初出「文學界」10月号)

文學界(2022年10月号)

文藝春秋

2022年9月7日 発売

単行本
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年森瑛

定価:1,485円(税込)発売日:2022年06月22日

電子書籍
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発売日:2022年06月22日

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