主人公のまどかは高校2年生。生理が来るのが嫌で低体重でいる。周りの人間はそんなまどかを放っておかず「配慮」の言葉を投げかけてくる。それは「やさしさ」や「正しさ」から来ているのだが、言葉というものは使われ過ぎると中身が空洞になっていくようで、『N/A』の舞台はそうした、「尊重」や「配慮」というメッセージがひとり歩きする社会。
登場人物たちの語彙にこの小説の良さがある。私たちの発する言葉はそもそも借り物だ。他者との関係や見聞きして来たものに影響されている。言葉でコミュニケーションする以上、言葉遣いにオリジナリティというものはない。そんな当たり前のことを私たちは特に意識せず生活しているのだが、言葉のそうした性質は当たり前だからこそ「キャラクターの台詞」としては処理しにくい。そのあたり『N/A』においては上手くフィクションに落とし込まれている。
その顕著な例は、まどかの友人である翼沙の言葉に表れる。物語の中盤、翼沙は相当にためらいながらまどかに伝えるのだ。「パートナーさん」のことを呟くとあるアカウントを見つけた、と。それはまどかと付き合っているうみちゃんのもので、「パートナーさん」とはまどかのことだった。アップされている写真では、ぼかされてはいるが、見る人が見ればまどかがうつっているとわかる。翼沙はそれを丁寧に言葉を選んで伝えようとする。
まどかを傷つけまいとする翼沙の言葉は、二人の関係を越え、やさしくあろうとする者の最大公約数的な、ステレオタイプとして表れる。母や学校の先生だってそうだ。痩せて生理の止まっているまどかに、傷つけないとされている言葉ばかり投げかける。その振る舞いは、自分が傷つきたくないという心理と接近する。そうした「配慮」や、うみちゃんが掲げる「自由」や「権利」は、まどかがただのまどかであることを許さず、まどかを何者かにしてしまう。まどか自身も空気を読んで自分や相手を枠に嵌め、誰ともぶつかり合えない。
これだからポリコレは、などということを言いたいわけでは全くないし、『N/A』はそんな卑近な小説でもない。ただ私たち皆が、言葉を扱うにはまだ未熟な存在なのだ。
その場の「正しさ」を読むのはしんどい。その緊張関係は言葉の全てを態度の表明とし、私たちを「キャラクター」として縛っていく。けれども、目の前の誰かを助けるということについては『N/A』の誰もがためらいなく行っている。例えば生理の出血に対しては皆フットワーク軽くナプキンの貸し借りをし合う。文字通り生理現象を通して皆が無名の存在になっているかのようだ。何者でなくても繋がれるというのは、まどかたちにとってせめてもの気楽さかもしれない。
としもりあきら/1994年生まれ。法政大学卒。2022年、本作で第127回文學界新人賞を受賞してデビュー。選考会では6人の選考委員が満場一致で本作を推した。第167回芥川賞候補作。
おおまえあお/1992年、兵庫県生まれ。小説家。著書に『おもろい以外いらんねん』『きみだからさびしい』など。
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