〈宮廷神官物語〉や〈妖琦庵夜話〉などヒットシリーズを連発する榎田ユウリさん。
待望の新作書き下ろし『猫とメガネ 蔦屋敷の不可解な遺言』が10月5日に発売となります。
猫? メガネ? 何の話? と思った皆さんのために冒頭約40ページを大公開!
榎田ユウリさんの魅力炸裂! 不器用なイケメン眼鏡男子ふたりの共同生活ストーリーのはじまりです。
約束してくれるかい?
あの子を守ってほしいんだよ。
1
人は人を、理解できるのだろうか。
無理だろう。
無理だと思う。
いやもう、絶望的に無理なのではないか。
目の前で微笑んでいる妻を見ながら、俺はそう思っていた。
たった今、妻は言った。にこにこしながら言った。
離婚しようと。
……混乱が生じた時は、過去の検証が有効だ。
俺は幼い頃から、すこぶる賢かった。勉強が好きで、本が好きで、だが他人の気分を察するのは不得意だったせいか、友達はあまりいなかった。
小学校低学年の時、同級生とちょっとした諍いになったことがある。
女子ふたりがふざけてじゃれあい、俺の席にぶつかって筆箱を落としたあげく、踏みつけて壊したのだ。
バキリという音は、今でも耳に残ってる。
お気に入りの筆箱だった。古い物だが大事に使っていた。当然ながら俺はとても怒った。なにしろ賢い子供だったので語彙力がある。怒濤の勢いで責任を追及し、謝罪を強く求めた。筆箱を壊した女子は顔を歪め、やがて泣きだしてしまった。それでも俺は許さなかった。泣いても筆箱は戻らないぞと責め立てた。
駆けつけた担任教師は、泣きじゃくる女子の背中を優しく撫でながら言った。
──わざとやったわけじゃないのよ。ほら、謝ってるじゃない。そんなに強く責めなくても……幾ツ谷くんは、もう少し人の気持ちをわかってあげようね。
なんだそれ、と思った。
人の気持ち? 俺は『大事な筆箱、壊された!』という自分の気持ちで手一杯であり、他人の気持ちどころじゃない。しかも、どうして俺の筆箱を壊した相手の気持ちをわからなきゃならない? じゃあ先生はわかるんですか、と聞きたかった。人の気持ちがわかるんですか? お母さんが最後に買ってくれた筆箱を壊された、俺の気持ちわかるんですか? そんなの、超能力とかないと無理なんじゃないんですか?
と、八歳児が言い返せたわけではない。さすがに大人を論破するにはもうしばらく必要で、その一件はうやむやに終わったと記憶している。のちに辞書で『理不尽』という言葉を見つけた時、この筆箱事件をありありと思い出したものだ。
その後も俺はずっと賢く、成績表には5がずらりと並んだが、一方で備考欄には『お友だちの気持ちを考えましょう』だの『相手の立場に立ってみましょう』だの『相互理解の努力を』だのと書かれ続けた。
そのたび、「は?」という気分になった。
無茶な要求だと思った。他人は自分ではない。別の人間だ。
他人が楽しくても俺は楽しくないし、他人が悲しくても俺は悲しくない。他人が転んでも、俺がまったく痛くないのと同じだ。だからって、転んだ人を放置しろという話ではない。転倒者を観察し、怪我の程度を見極め、救急車を呼ぶかバンソコを渡すか判断することが必要だ。ただそばに寄り添い「ああ、痛いんですね、わかります、ボクも転んだ時は痛かった……」と同情していても始まらないではないか。
つまり、優先すべきは『気持ち』より『状況判断』だ。
……などと考えるタイプは、まず好かれない。集団では浮くし、なんなら爪弾きにされる。そこは俺も心得ているが、性格はそうそう変わらないのだ。この個性のまま快適な人生を送ろうと思うなら、あとは高スペックを身につけるしかない。
かくして、俺はますます勉学に励んだ。
上位の成績を死守し、難関大学に入学。大学と併行して公認会計士の受験予備校に通い、三千時間ほどを勉強に費やし、無事に資格取得。新卒で大手監査法人に就職、同期では最速でマネージャーに昇格。激務を熟しているうちにふと気づけば三十七、俺自身は独り身を満喫していたが、祖父母に請われて婚活を開始。そして翌年には結婚というタスクすら、見事に達成。
パーフェクトである。
しかも、妻となったのはひとまわり、つまり十二歳年下の女性だ。
妻の名前は杏樹という。繰り返すが、ひとまわり年下である。
最初に会った時から俺を気に入っていたらしい。彼女いわく、
──眼鏡の似合うツンとした、賢い感じの人に弱くて……。
だそうだ。では俺が眼鏡をかけていなかったら交際はなかったのか……そう質問すると「うふふ」と笑っただけで答えてくれなかった。もっとも、子供の頃から近眼なので、眼鏡はもはや俺の一部といえよう。そして俺自身も、このクール&スマートな、メタルフレーム眼鏡が似合うと自負している。
その妻から、LINEが届いた。
今日の午後のことだ。
『仕事帰りに会えないかな。私は定時で上がれまーす』という文面、そのあとに小首を傾げているリスのスタンプ。家に帰れば会えるだろうにと思いつつ、たまには外食もよかろうと、時々利用しているカフェで待ち合わせることにした。ターミナル駅の近くで便利なのだ。
「りっちゃん」
東京のネオンと雑踏が眺められる窓際席から、杏樹の声がする。
俺はスマホで業務メールをチェックしていた。夏場はさほど忙しくないものの、クライアントから急ぎの連絡が入ることもある。
「ねー、りっちゃん」
「ああ。ちょっと待って」
りっちゃん。俺をそう呼ぶのは杏樹だけだ。幾ツ谷理。理性の理でさとる。それを音読みし、ちゃんをつけて、りっちゃん。俺を溺愛した祖父母だってそんな呼び方はしなかったが、まあ、杏樹になら許容できる。
「りっちゃーん。スマホ置いてくださーい」
再三呼ばれ、「わかったわかった」と俺は顔を上げた。
杏樹がニコッと笑う。目の端にちょっとしわが入り、それが可愛いと、俺の祖父母がよく言っていた。
結婚して一年半、俺は今年で四十だが、杏樹はまだ二十八歳だ。
丸顔で垂れ目という童顔なので、人に警戒心を抱かせない。性格も屈託なく、明るく、友達が多い。思考はシンプルで深く考えるタイプではない。要するに俺とは正反対であり、だからこそ結婚生活はうまくいっていると考えられる。
その妻が言った。
いつもと同じ明るい口調で、目尻の下がった顔で言った。
「あのね、りっちゃん。離婚しよう」
「…………?」
唐突すぎて、反応できなかった。
眼鏡のブリッジがズッと僅かに下がったのがわかったが、それを直すことすら忘れ、俺はリコンという音を解析していた。離婚……いやいや、まさか。あり得ない。ならば遺恨? 未婚? 非婚? どれも文脈としておかしい。混乱を収拾しようと過去に遡ったりもしたわけだが、なんの解決にもならなかった。
妻がなにを考えてこんなことを言いだしたのか、理解に苦しむ。
一方で杏樹は、近くを通った店員を呼び止め「アイスコーヒーのおかわりお願いします~」と、にこやかに追加オーダーしている。それから改めてこっちを見ると、
「りっちゃん、眼鏡ズレてる~」
と軽く身を乗り出して、俺の眼鏡のブリッジを上げてくれた。
「うん、やっぱり、りっちゃんはガンメタよりマットシルバーが似合うよね。自然に顔に馴染んでて、生まれた時からかけてるみたい」
「杏樹」
「うん、やっぱりフレームはセルよりメタルだよ」
「杏樹。さっき、なんて言った? り……?」
「うん、離婚。書類はもう用意してあるから、私が書き込んだら渡すね。マンションの名義はうちのパパだし、そのまま私が住めばいいかなって」
「…………」
「預貯金の分配がちょっと面倒なんだよね。生活費はりっちゃん名義の口座を使ってたけど、私もお給料から一部入金してたじゃない? 残高をどうわけるべきなんだろ~。半分こでいいのかな? あ、ここのチーズケーキ美味しそう。でもちょっと大きいな~。半分こする?」
「…………」
口座の残高は半分こ。チーズケーキも半分こ。
追いつかない。情報処理が追いつかない。意味がわからない。
「りっちゃん?」
「…………」
深呼吸。
深呼吸するのだ、こういう時は。
離婚だって? なにをバカな。突然別れを切り出される覚えなどまったくない。俺は女も酒も賭け事もやらない。ぜんぶ時間の無駄だからだ。
「……意味がわからないんだが」
「離婚の意味は、婚姻関係を解消しようということだよ?」
「それはわかってる。そういうことではなく、俺たちが離婚すべき理由がわからない。……まさか、ほかに好きな相手でも……」
「あ、そういうんじゃないの~」
杏樹は軽やかな声で否定する。今日いい天気だね~、くらいのノリである。
「浮気とか不倫とか、そういうのとは違うの。嫌いになった、っていうのも違うし。ただ、これ以上一緒にいるのはキビシイかなー、って。ワタシ的に、ムリかなって」
リズミカルに語りながら、杏樹はまた笑う。なぜ笑うのか。いっそ怒っているならこの事態にも辻褄が合うし、怒りの理由を聞けば解決策も見えるはずだ。いつもと変わらない笑顔で離婚を提案されても、戸惑うばかりである。
「……冗談、なのか? 杏樹、俺はそういう冗談は苦手なんだが」
「冗談じゃないよ。いたってマジメなんです」
と言いながら、まだ笑って……いや、これは作り笑い……?
俺は空咳をして、自分のジンジャーエールを飲む。氷が入りすぎていて薄い。喉を冷やしたら、頭も少しは冷えるだろうか。とにかく落ち着け。落ち着くのだ。落ち着いて、理性で考えなければ。
「あのさ。りっちゃんって、とっても頭いいじゃない?」
唐突に杏樹が言い出した。唐突ではあったが、正しい見解だったので「そうだな」と頷く。俺はまちがいなく、頭がいい。
「今年で四十だけどシュッとしてるし、公認会計士だし、眼鏡だし、メタル眼鏡だし」
「そうだな。メタル眼鏡だな」
「努力家で、その結果をきっちり出せて、おじいちゃんおばあちゃんに大事に育てられて……そうなると、多少自信家なのはしょうがないし、変に自己評価低いよりいいよね、って思ってたんだけど……。あっ、眼鏡のはしっこ汚れてる! 貸して」
俺は眼鏡を外して、妻に渡した。杏樹は眼鏡の汚れや曇りを決して許さないのだ。バッグから専用のクロスを取り出し、慎重に、丁寧に拭きながら、「でも一緒に暮らしてわかったの」と言葉を続けた。
「やっぱり、私たちは合わないんだろうなって」
「合わない?」
「うん」
そんなふんわりした言葉で、離婚という大事の説明がつくと思っているのだろうか。
「なにがどう合わないって言うんだ。そもそも、まだ結婚して一年半なのに」
「やめるなら早いほうがいいでしょ?」
ふう、と俺は溜息をついた。
困ったものだ。どうやらなにか拗ねているらしい。杏樹はまだ若いのだから、そんなこともある。ここは俺が、きちんと諭すところだろう。
「いいか、杏樹。離婚だなんて、簡単に口にするものじゃない。結婚までの長かった道のりを思い出してほしい。俺は恋愛や結婚にさほど興味はなかったが、四十も近くなって、祖父母を安心させたくなり、高額な会費を払ってマッチング会社に登録した。数人の女性に会ったものの、これは金と時間の無駄だったかと後悔しかけたところで、幸い、きみと出会うことができた。自分にはない明るさと屈託のなさが好印象で、きみも俺の眼鏡を褒めてくれた。数か月の交際、そして求婚。両家の顔合わせ、結婚式の準備、クリスチャンでもあるまいに教会式で神に誓うあの違和感、さらに非合理の極みと思われた披露宴……まあ、祝い金回収システムとして妥協したが……とにかく、諸々の準備にはずいぶんと時間がかかった。やっと一連の儀式を終えたら、さらに荷造り、引越し、挨拶回り……きみは公的書類の名義変更もあっただろ。それほどの時間と労力を割いたんだぞ? なのにたった一年半で離婚? あり得ないだろう?」
「あり得るよ」
あっさり。
俺の長台詞に対して、あまりにもあっさりとした返答だ。新しく届いたアイスコーヒーを手元に引き寄せ、杏樹は「さっきも言ったけど、早いほうがいいんだよ、こういうのは」とつけ足す。
「いいや、熟慮すべきだろ。もっと話しあって、お互いに歩み寄ろう」
「私、ずいぶん歩いたんだよー。テクテクと歩み寄ったつもりなの。でもりっちゃんにはその気配がないんだもの。ずっと同じ場所にドヤッ、て立ってる。なんていうか……思いやりが感じられないんだよね」
「思いやりだとか、そういう曖昧な言葉は困る。要望や条件を出してくれれば、こちらも適宜対応する。離婚なんてしなくても……」
「こうして欲しい、っていうリクエストは何度も出したよ、私」
杏樹が言い切った。
「でもりっちゃん、その適宜対応っていうの、してくれなかった。だから離婚なんです。回避ルートはもうないの」
俺は姿勢を戻し、眼鏡の位置をクイと直した。そしてしばし考え、
「……いや。要望など聞いてないが」
そう返す。嘘ではなかった。まったく記憶にないのだ。杏樹は小首を傾げ、いくらか迷うような顔をしたあとにちょっと口をすぼめ、
「……私の作ったごはん、おいしいって言ってくれなかった」
などと言い出し、俺は耳を疑った。
「え? そんなこと?」
その瞬間、杏樹の顔からスウッと笑みが消えた。完全消失である。
「大事なことでしょ。ごはん食べないと、死ぬんだよ?」
おっと、と俺は居住まいを正した。危険信号だ。女は感情的になると、すぐ極論に走る。だが今それを指摘して、杏樹の機嫌を損ねるのは得策ではない。ずれてもいない眼鏡の位置を直しつつ、「いや、おいしいって言ってる……だろ?」と記憶を辿った。
「……待って、思い出すから……うん、言ってる。毎回ではないにしろ」
「りっちゃんはね、『おいしい?』って聞いた時だけ『うん』って答えるんだよ」
「それじゃだめなのか?」
「聞かれてから答えるのと、先に言ってくれるのとでは、ぜんぜん違うよ。だから私、お願いしたよね。『聞かれる前に、おいしいって言ってほしいなあ』って」
「いやいやいや、杏樹、よく考えてくれ。一緒に食事をするのが朝晩として年間730日、うち繁忙期は家で食事なんかできないから、そこから100を引いて630としよう。それを毎回毎回、聞かれなくとも『おいしい』と言えと?」
「…………」
「そもそも『おいしい』って言葉は、本当に美味いものを食べた時には、自然に出るものだ。義務感で言われたって、杏樹も嬉しくないだろう?」
「……嬉しいけど」
「ただのお世辞なのに?」
苦笑いが零れかけたが、慌ててそれを消した。杏樹の顔には、まだ笑みが戻っていない。それどころか、眉間に皺が刻まれてきた。「あのね」と語りかけてくる声も、次第に低音域に移りつつある。
「私、家事はどれも苦手だけど、とくに料理がしんどいんだよね。なのに仕事終わりにスーパー駆け込んで、そこから夕飯作ってるんだよね」
「うん、そうだな。その点は、大変だと思う」
こんな時は、一度相手の意見を肯定することも必要だ。否定されることが続くと、人は耳を傾けなくなり、頑なになるものだ。
「だから、もっと手を抜いていいんだ。俺はぜんぜん構わない」
「…………」
「手を抜く、は言葉がよくないな。つまるところ効率だ。冷凍食品とか、スーパーの惣菜とか、週末に作り置きだとか……手段はいろいろあるだろう? 作りたてじゃなきゃいやだなんて、時代錯誤なことを言うつもりはさらさらない。あ、ただ、白飯だけは炊きたてがいいけど……それだって炊飯器の予約機能を使えばいいんだよ。時間は有限なんだから、効率的に使うべきだ」
「……時間は有限……そうだね……」
杏樹が小さく言った。
新しいアイスコーヒーは口をつけられないままで、グラスは汗をかいている。そのグラスを見つめたまま、今度は「家事スキル強化月間……」と呟く。
「え?」
「覚えてる? 去年の十月、『家事スキル強化月間』したよね」
「ああ……俺の家事スキルを上げようっていう……」
「そう。目的はりっちゃんの家事スキルアップ。私はエクセルで分担表と手順表を作って、クラウドにアップしてりっちゃんと共有して、プリントしたのを部屋にも貼った。毎日のお風呂の掃除と、土曜日の買い出しと、日曜日にはタオルをまとめて洗う。その三つがりっちゃんの担当だった」
「手順表をリクエストしたのは俺だったな。工程の見える化は重要だ。担当分はちゃんとやっていただろう?」
「……ちゃんと?」
「できる時にはしていたはずだ」
「りっちゃんはさ、会社で上司に『できる時にはしています』って言うの?」
まさか、と俺は笑い「対価をもらう場では、そんなことは言えない」と返す。杏樹の眉間の皺がなかなか消えない。
「お金もらわないとできないっていうこと?」
「曲解しないでくれ。優先度の違いだよ」
「そっか。家事は優先度が低いから、できる時がかなり少なかったわけだね。お風呂掃除は数えるほどしかやってないもんね」
「まあ……仕事で深夜帰りになったら、風呂の掃除より睡眠時間を確保しないと」
「土曜日の買い出しも、仕事が入ったらパス。帰りにスーパー寄れるのに」
「仕事帰りだと冷蔵庫チェックができないから、なにを買うべきかわからないだろう。食材をダブらせたりすれば、無駄な出費になる」
「朝、冷蔵庫の写真撮っていけばいいよって、私言ったよね」
「いい考えだと思った。ただ、手順表に入ってなかったから撮るのを忘れてしまう」
「……日曜のタオルも、四回のうち三回は私が洗った」
「それな。やろうと思ったら杏樹がしてしまってたんだ」
カチャリ。俺はまた眼鏡をあげる。眼鏡がずれがちなのは、顔にじんわり汗をかいているからなのか。店内はよくエアコンが効いているはずなのに。
「午前中は杏樹が別の洗濯をしているからできないし、午後もなんだかんだと雑事があった。夕食のあとひと息ついてから、洗濯機をセットすればいいはずだ。乾燥機能も使うから、日中やる必要はない。そう考えて、後回しにしていたら……」
「夜遅くに乾燥機まわってると、下の階の人に迷惑なんだよ。だからしょうがなく、私がやってたわけだけど」
「ははは、やってたのは洗濯機だろ。全自動コースなんだから」
どうしたというのか、今日の杏樹はかなりしつこい。
風呂掃除だの買い出しだの洗濯だの……そもそも、あの家事スキル強化月間じたいが謎だったのだ。突如、「りっちゃんの家事スキルを上げます!」と宣言し、仕方なくつきあったわけだが、どうせならもっと仕事に余裕のある時期にしてほしかった。九月決算のクライアントも担当しているので、十月はそこそこ忙しいのだ。そんな中でも、俺はやれることはやってた。ちゃんと努力したという自負がある。家事は女の仕事だなどと言うつもりは決してないのだ。
「風呂なんか掃除しなくても死なないし、うちにはタオルの予備もたくさんあるじゃないか。きみだって、忙しいなら無理に家事をしなくていいんだ。俺は家事を強要したことはないだろう?」
「うん。強要はしないね。ありがとうも言わないけど」
俺は一度俯き、また眼鏡を押し上げる。苛つきを顔に出さないようにと思ったが、だんだん難しくなってきた。
「杏樹。いいか、頼むから……よく聞いて。無理にきみに家事をさせているとしたら、そりゃ礼は尽くさないといけない。だが俺は『しなくてもいい』と言ってるんだ。なのに、『ありがとうがない』って……それは理屈に合わないだろう。家事なんて、できるほうがすればいいんだ。効率を考えて、フレキシブルに対応しないと」
「フレキシブル……」
「そう。柔軟に考えるべきだ。そもそも、家事のような複数同時進行タスクは、女性のほうが能力が高いとされている。掃除や洗濯、整理整頓を、あいた時間にパパッとできるのには感心するよ。なにごとも、得意な人がやったほうが合理的だろう?」
「……りっちゃん……ちょっと考えてみてくれないかな」
「なにをだ?」
杏樹は二杯目のアイスコーヒーについてきたストローを、袋から出していた。
その袋をリボンに結ぶのが杏樹の癖で、それを常々可愛いなと思っていたが、口に出したことはない。けれど今日、杏樹はストロー袋をちまちまと屏風折に畳んでいる。
「私の立場だったら、っていう想像」
ああ、あれか。私の身になって考えてよ、というやつか。理解してよというアピールか。俺は内心うんざりだったが、黙って頷いておく。
「りっちゃんは仕事が忙しくて、家にいないことも多い。だから決まった時間じゃなくてもできる家事から覚えてもらおうと、お風呂掃除やタオルの洗濯を頼んだの。でもほとんどしてくれなくて、それを指摘すると『やれる時にはやってる』って言われる。その『やれる時』がいつ来るのかわからないから、結局は私がやることになる。すると今度は『やろうと思うと、先にやってある』と言われる。それを不服に思えば、『もっと手を抜いていいのに』って矛先をかわされる。あげくのはてに、『家事は強要していないんだから、ありがとうを言う必要もない』……。正直、心の中では『なんじゃそりゃあ!』って叫んでるんだけど、ひと回りも上で、頭よくて弁の立つりっちゃんに、口で敵うわけもなくて……」
杏樹は俯いたままでこちらを見ない。ちまちまちまちま、ストロー袋は杏樹の指先で次第に小さく、ギュウと圧縮されていく。もはやほとんど見えない大きさだ。
「そういうの、想像してみてくれないかな……」
「いや、想像は無理だろ」
即答した。考えるまでもなかった。
杏樹は無言のまま、ゆっくりと顔を上げる。
「無理だよ。だって俺は杏樹じゃないから、杏樹の気持ちは想像できない」
「…………」
「俺には、俺のことしかわからない」
壊れた筆箱が頭に浮かぶ。フタのマグネットがいかれていた。だから輪ゴムで留めていた。それくらい大切にしていた、あの筆箱。
「……そっか」
ニコリと妻が笑った。
ようやく杏樹に笑顔が戻ったことに胸を撫で下ろす。やれやれである。真摯に言葉を尽くした甲斐があり、やっとわかってくれたようだ。
「りっちゃんには、無理なんだねえ」
「誰にであれ、不可能なんだよ。夫婦だろうと、別の人間なんだ。『私の気持ちを理解して』なんて、ドラマのセリフならともかく、現実には理不尽な要求というものだ。とはいえ、杏樹が家事に関してストレスを感じていることはよくない。もっと現実に即した、合理的な解決方法を探そう。家事代行サービスなども、コスト面を検討……」
ガッ。
顔に衝撃が来て、目の前が一瞬真っ黒になる。
冷たい、という感覚がやや遅れてやってきた。顔や首に液体が流れていき、それがワイシャツの襟に染み、胸に染み─そのあたりでようやく、自分になにが起きたのかを理解した。
アイスコーヒーをかけられ……もとい、ぶちまけられたのだ。
あの衝撃は、氷が眼鏡にぶつかったものだった。眼鏡に守られていなかった頬や額にはもろに当たり、結構な痛さだった。なにしろクラッシュタイプではなく、そこそこ大きなブロックアイスだ。レンズに傷がついたんじゃないのか─ドイツ製の高級なレンズ……っていうか、嘘だろ? 顔に? アイスコーヒー? 生まれてこの方、こんな目に遭ったことはな…………。
落ち着け。怒鳴ったりしてはいけない。
静かに妻を諭し、反省を促すのだ。杏樹は本来温厚なのだ。カッとした自分を後悔し、恥じ入っているはず……。
「杏……」
ななめにひん曲がった眼鏡をクイッと戻して顔を上げると、誰もいなかった。座席にバッグもなく、慌てて出入り口に目をやると、扉が閉まりかけている。
杏樹の着ていたクリーム色のスカートの裾が、一瞬だけひらりと見えた。
え、帰った?
嘘だろ、帰ったのか?
追いかけなければと思ったけれど、足が動かない。店じゅうが俺を見ているとわかった。見てないふりで見ているのだ。ポタリ、と顎からアイスコーヒーが滴った。
そして思考停止が訪れる。
なんで、こんな、ことに?
「ひゃあ、彼女さん、いんでしもた……」
聞こえてきたのは、抑えた驚きの声だ。
隣のテーブルだろう。だがまだそちらを見る余裕がない。
アイスコーヒーがワイシャツにどんどん染みこんでいくのがわかる。クリーニングに出さないと……染み取りオプションはいくらだったか……衝撃に固まっていた脳はようやく動き出したものの、まったく別のことを考えようとする。
「東京は、よいよおとろしいとこや……」
訛りの強い言葉で小さく呟いているのは若い声だ。それに対して、
「興味深いやりとりだったねぇ」
そう返すのは、どこか楽しげな男の声。
「水だの酒だのをぶっかけるのって、ドラマや映画ではよく観るけど現実ではなかなかお目にかかれない。やっぱり迫力があるな。頭の上からダラダラ~、じゃなくて、正面からガッといったのがよかった。振り返りもしないで店を出て行く姿も鮮やかで……おっと、洋?」
「あの……これ」
俺の目の前に、真っ白なハンドタオルが差し出される。
「わぇはまだ使うとらんけん、よかったら」
同情に溢れた、そして訛りに溢れた言葉。
どこの田舎者か知らないが、使え、と言っているらしい。
「……いえ、結構」
俺は相手を見ないまま淡々と答える。まだギシギシしている脳が下した命令は『ヘッチャラモード稼働。ダメージゼロを装え』だった。
「あー、だめだめ洋。こんな時は、見て見ぬ振りが東京親切スタイルなんだよ」
「ほやけど……」
「その人はいま恥ずかしくて死にそうなんだから、そっとしておいてあげないと」
その言いように、カチンときた。
「べつに、恥ずかしくはない」
いくぶん早口に言いつつ顔を上げた俺だが、直後、軽く目を見開いてしまった。
でかい。
おずおずとこちらを覗き込んでいる田舎者が、予想より大柄だったのだ。
声の雰囲気から、勝手に小柄だと想像していたが、実際は一八五……いや、もっとあるかもしれない。身体つきもがっちりと厚みがあり、柔道などの格闘技、あるいは重量挙げでもしていそうな雰囲気だ。
一方、その体格に反し、顔には幼さが残っている。十代後半……大学生くらいか。
「その……本当に、大丈夫なので」
もう一度言うと、若者は「なんちゃあないなら、ええですけど」と小首を傾げる。
店のスタッフが静かにやってきて、新しいおしぼりを三つ置き、ダスターでササッとテーブルを拭くと再び静かに去って行く。今はこの素っ気なさがありがたい。若者は俺をチラチラと気にしながらも、自分の席に戻った。
とにかく顔を拭こう。俺は眼鏡を外し、温かいおしぼりを顔に当てる。
「……恥ずべきは彼女のほうだ」
心の中で言ったつもりなのに、つい呟いてしまった。
アイスコーヒーをぶっかけられた衝撃が落ち着いてくるにつれ、怒りがじわじわ湧いてきたのである。
まったく、あんな真似は杏樹らしくない。妻には寛容な俺だが、今回ばかりはきちんと謝罪してもらわなければ……そう考えつつ、おしぼりの温もりに顔を埋めていると、
「え? なんで?」
短い疑問形が聞こえてくる。またしても隣のテーブルからだ。
俺はおしぼりから顔を外し、そっちを見た。
都会のカフェはしばしば、テーブル同士が近すぎる。発言者はお節介な若者ではなく、涼しい顔で座っているもうひとりのほうだった。軽佻浮薄な口調で「彼女さん、なにも悪くないでしょ」などと言い放つ。
聞かれた以上、答えなければ。そんな気持ちで男を見た。
俺から斜め前の位置に座る男……まだ眼鏡をかけていないのでぼんやりとしか見えないが、三十代半ばというところか。少なくとも俺よりは若造だ。
「悪いだろ。冷静な話し合いをしていたのに、急にあの態度はない」
「いやいや。あれは怒るよ」
面白がり、からかうようなニュアンス……なんとも人を苛つかせる口調だった。このやろう、他人事だと思いやがって。そうは思ったが俺は大人なので、コーヒーフレーバーになった前髪を掻き上げつつ、クールに返すことにする。
「こちらとしては、間違ったことは言っていないが」
「その発言がすでに大間違いなんじゃ?」
「女性は感情的になりやすいから仕方ないとはいえ」
「おっと、問題発言が続くなあ」
「とはいえ、彼女も今頃は反省しているはずだ」
「そこは正しいね。もっと早く別れるべきだったと反省してる」
ぴきっ、とこめかみに血管が浮いた気がする。
なんなんだ、こいつ。いったいなにが言いたいんだ。失敬千万、不愉快極まりない。心の中で毒づきながら、拭き終わった眼鏡をかけ、改めて男を見る。
そいつも眼鏡である。
ただしセルフレームの黒縁で、形はウェリントン。杏樹のおかげで眼鏡に詳しくなってしまった。杏樹いわく、ウェリントンは誰にでも似合いそうでいて、その実イケメンか否かがはっきり出てしまう形、らしい。
悔しいことに、この男は前者と言えよう。
くせ毛なのかパーマなのか、緩いウェーブのある髪に、眼鏡の存在感に負けないくっきりした顔だち。サマージャケットの下は真っ白なTシャツ、インディゴブルーのデニムで素足にモカシン。清潔感カジュアルコーデ、みたいな見出しがつきそうなチャラい格好だ。少なくとも、オフィス帰りの勤め人には見えなかった。
その連れの純朴そうな若者のほうは、心配げに男と俺を交互に見ていた。歳の離れた友人にしてはタイプが違う。かといって、きょうだいにも見えない。容姿はまったく似ていない。
「怖いなー。そんな睨まないでよ」
にやりと笑って言いやがった。ちっとも怖がってない。
「ま、さっさと彼女に謝ったほうがいい。もう遅いかもしれないとは思うけど、あるいはもしかしたら万が一、奇跡的に間に合うかもよ?」
なぜ俺が謝るのか。なにがもう遅いというのか。そもそもなんで上から目線なのか。
ぶつけてやりたい言葉はいくつも浮かんだが、俺はぐっと飲み込む。見ず知らずの相手と無駄な議論をするなど、愚の骨頂だ。それよりこのワイシャツを早くクリーニングに……杏樹に頼んで、クリーニングに…………。
妻の眉間のしわを思い出す。
離婚だなんて、本気のはずがない。そんなわけない。
だって俺には、なんの非もないじゃないか。
「洋、そろそろ行こう」
男は伝票を手にして立ち上がり、大柄な若者も「あ」と自分のメッセンジャーバッグを持つ。そして立ったが、出口に向かって歩き出そうとはせず、
「あのぅ」
と、再び俺のすぐ横に立った。
「……ええと……さいきょやきかもしらんけど……」
大きな身体をもじもじさせ、そんなふうに言う。
サイキョヤキ? どこの言葉だ?
「は?」
「もうちっと彼女さんの言いぶん聞いてあげよらんと……でえじな人うさしよったらおおごとやけん……」
「……はい?」
「いっぺんかやったら、もとにもどらんもんもあるがてや……」
「洋、ほら、行くよ」
連れの男が今一度、若者を促した。その声と重なるように俺は、
「悪いが、なに言ってるんだかわからない」
そう口にした。べつに嘲ったわけではない。わからないからわからないと言っただけだ。本当だ。もっとも、多少のニュアンスは伝わってきた。彼女の言いぶんをもっと聞け、というような……それに反発する気持ちがいくらか生じたのか、俺の口調はややきつくなったかもしれない。だが、方言を馬鹿にしたつもりはなかったのだ。
なのに、若者の顔が明らかに曇る。
眉を寄せ、唇をキュッと一文字にし、やがてはほとんど泣きそうな顔になってしまう。おいおい、やめてくれ。まるで俺がいじめたみたいじゃないか。そもそも、そっちが余計なお節介を焼くから……と心の中で言い訳をし始めた時、
「洋、席に戻りな」
ウェリントン眼鏡男が、踵を返してやってきた。
立ちすくむ若者を軽く押して、もとの席につかせる。そして自分は俺の正面に……つまりさっきまで杏樹がいた席にストンと座った。
表情はさっきまでと変わらない。つまり、にやにやしている。
にやにやしてはいるが、目は笑っておらず、きつくこっちを睨んでいる。明らかに好戦的な態度だ。なるほど、いいだろう。文句があるなら聞こうじゃないか。アイスコーヒーまみれなせいか、俺も珍しく投げ遣りな気分になっていた。
「なにか?」
つっけんどんに言い、男を見る。
「あのね。あの子はこう言ったんだ。お節介かもしれないけれど、もっと彼女の話を聞いてあげたほうがいい、大事な人をなくさないように、と」
「確かにお節介だ」
「そこがあの子の美徳なんだよ」
男がまた笑う。見事に、口の端しか動いていない。人の顔色に疎い俺ですらわかるほど、表面的な笑みだった。
「洋は共感力が高いから、さっきの彼女を気の毒に思ったらしい」
「はいはい、共感力ね」
昨今流行の、俺に足りないやつね──と肩を竦めつつ言葉を続けた。
「でも今の場合、気の毒なのは俺のほうだと思うが? アイスコーヒーをかけられたのはこっちだ。あんなふうに感情を制御できず、暴力的行為に及ぶなんて」
努めて淡々と言えば、男は肩を竦め、「まあ、しょせん、我々は感情の奴隷だもの」などと返す。
「同意できない。少なくとも俺は違う。感情に振り回されるのは合理的ではない」
「なるほど。おたく、自分を合理的な人間だと思ってる?」
若造め、と思いながら「もちろん、俺は合理を尊ぶ」と答えた。
「ふうん。合理、つまり理に合致すること、ね。じゃ、『理』って、なに?」
そう質問され、鼻で笑いそうになった。
こいつときたら、俺に議論をふっかけているらしい。小四で担任を泣かせ、高校ではディベート部の都大会で優勝、舌戦では負け知らずの俺に、だ。
改めて、男と目を合わせた。
全体的に柔和な印象だが、こういう顔は油断がならない。
いつでも不機嫌と誤解されがちな俺と違い、他者を油断させることに長けているからだ。正直に言えば苦手なタイプというか、まあ、嫌いだ。黒縁眼鏡がしっくり似合って、服の着こなしが洒落ているところも嫌いだ。なんなら憎い。妻にアイスコーヒーをかけられた俺を見下している様子も、甚だ許せない。だから八つ当たりしてやるのだ。論破してやる。ペシャンコのキュウキュウにしてやる。
「理とはすなわち、ことわり。道理、条理、物事の筋道」
俺はそう口にした。
「論理的な考え、ということもできる。論理的な思考に沿って検討、解釈すれば、物事はすっきり快く整理される。だが残念なことに、世の中には非合理、不合理、理不尽が満ちあふれ、ほとんどの人がその場の気分や感情にまかせて愚かしい振る舞いをする。さっきの私の妻のように」
「ふむふむ」
男は頷きながら、相槌を打つ。まだ反論する気はなさそうだ。
「思うに教育の問題だろう。日本では論理的思考を鍛える場がほとんどない。中学数学では多くの子供が、証明問題で躓くと聞いたことがある。論理的思考が必要だからだ。ちなみに俺は証明問題が大好きだった。あのみっつの点、『∴』と『∵』が気に入ってて、将来子供ができたらユエニとナゼナにしたいと思ったほどだ」
「ユエニはともかく、ナゼナはどうかなあ」
「妻もそんなことを言っていた。……まあ、まだ子供はいないが」
「だからさ、一刻も早く謝ったほうがいい」
「機嫌を損ねたのは理解してるが、謝罪にはいささか抵抗がある。俺は間違ったことは言っていない」
「あーねー、なるほど。間違ってる自覚が皆無なのか」
「……間違っていない」
「間違ってるんだって。たとえばさ。さっきおたくは、『家事全般については女性のほうが能力が高い』、そう言ってたよね?」
おたくって呼ぶなよ、と心の中で思いつつ「言った」と返した。
「それは客観的な見解じゃないよね。先入観でしょ」
「社会に浸透している、一般的な考えだ」
「そう、残念ながら社会に浸透してる、ありふれた偏見ってやつだよ。『女性はマルチタスクが得意だから、働きながら家事もこなせるはず』というステレオタイプ」
「……きみはフェミニズム活動でもしてるのか?」
「いや、してないけど? 僕はただ、おたくの脳がエラーを起こしているよ、という話をしてるだけ」
「脳がエラー?」
失礼にもほどがある。俺の頭がオカシイとでも言うのか。
「そんな怖い顔するなって。これは誰にでも起こりうる判断ミスなんだよ。つまり、おたくは一般的とされている固定観念をベースに、『妻のほうが家事が得意。だから妻がやったほうが効率的』という判断をしたわけでしょ?」
「それに問題があるとでも?」
「問題だね。だって、さっき聞いていた限りでは、彼女ははっきり、家事はどれも苦手って言ってたじゃない」
「それは、まだ慣れてないからであって……」
「結婚して、家のことを取り仕切るようになって一年半だろ? それで慣れてないなら、むしろ得意じゃないという証明になってる」
「それは……」
言い返そうとしたのだが、適した言葉が出てこない。
「そもそも、彼女のことなんだから、彼女自身が一番わかってるはずだ。とくに炊事は苦手そうだった。あのね、苦手なことを毎日続けるのってかなりのストレスなんだよ。おたくの好きそうな数字で考えようか?」
言いながら、男はスマホの電卓アプリを起動する。
「一日の炊事時間が20分だとしても、年間で121時間以上。言っとくけどこれ、買い物や、食材の整理・管理にかかる時間は入ってないから、だいぶ少なめの見積もりね。ってことは、一年で121時間以上、地味なストレスが積み重なっていくことになる。家事労働だから、賃金ゼロのストレスだ。しかも夫からは感謝の言葉ももらえない」
「だが、世の中にはもっと大変な人もいるだろう。仕事をしながら家事だけじゃなく、育児や介護など……」
「怪我して痛がってる人に、死んでないからマシだろって言うの、やめない? そんなの誰も幸せにならない」
極端な喩えを出され、咄嗟に言葉を失った。
「とにかく、彼女は家事が得意なんかじゃないし、共働きだし、夫にも協力してほしいと思ってる。そのために具体的な計画もした。家事スキル強化月間、だっけ。そこまで明確に訴えてるのに、おたくは『きみがやったほうが効率的』とか言っちゃってる」
「…………そ……」
「自分の持つ固定観念に妻をギュウと押し込んで、蓋をバタン、だ。彼女の言葉は一向に届かない。自分の言葉を無視され続けたら、そりゃ離婚だって考えるだろうさ」
「べつに悪気は……」
「知ってる。悪気はない、そこが恐ろしいとこだ。無意識なんだよ。女は家事が得意、男は地図を読むのが得意、日本人は手先が器用でインド人は計算が得意……あまたのステレオタイプはいつも僕らの周囲に漂っていて、いつのまにかするりと侵入してくる。そして人々は、つい、そのステレオタイプを判断の基準に使ってしまう。これを代表性と言う」
「代表性……?」
「代表性。ヒューリスティックによるバイアス、第一の要因」
ヒューリスティック。聞いたことのある言葉だ。マーケティング用語だったろうか?経済誌で読んだのか、大手企業の重役が話題にしていたのか……。
というか、この男は何者なのだ?
いつのまにか、俺はろくに言葉を発することができなくなっている。議論どころか、会話が成り立っていない。なんたるざまだ。こんなことは初めてだった。
「残念ながら、人は通常、理性的、あるいは合理的判断なんかほとんどしない。しないというか、できない」
「馬鹿を言うな」
ようやく、反論を口にした。
「俺は以前本で読んだぞ。人間ほど前頭葉が発達した動物はいない。思考、推測、学習……人間を人間たらしめているのは、そういう働きだとあった。人は犬や猫や猿より、ずっと深く考えることができる。だからこそ合理的な判断ができる」
「できるよ。できるけど、すべてを合理的に考えるにはリソースがかかりすぎて、あまりに効率が悪い」
「効率……?」
「脳の負担が大きすぎるわけ。普通に暮らしているだけでも、判断しなきゃいけないシーンは次から次に生じる。道で誰かに会釈されたら、ほとんどの人が反射的に会釈を返すだろ。相手が知っている顔かどうか、記憶を探って合理的判断をする前にペコリ、だ。会釈してきたなら当然知人のはずだという、スピード重視の判断。とはいえ、この手の判断はしばしばエラーも引き起こしてしまう。その会釈は、実は自分の後ろにいた人に向けたものだった、とかね」
俺が返す言葉を考えているうちに、男は「あとさあ」と人差し指を立てた。
「離婚したいっていう彼女に、『結婚にかかった時間と労力を思い出してくれ』みたいなこと言ってたよねえ。あれも最悪。こんなにコストをかけてきたのに、いまさらやめるなんて……っていうことでしょ。逆だよね。早く撤退を決意すれば、埋没費用はマシになるんだよ。離婚するなら早いほうがいい、って言ってた彼女のほうが合理的」
「…………」
「突然の離婚話に驚いて、とにかく彼女を説得したくて、あんな理由を捻り出したんだとしたら、合理的判断どころか、感情的もいいところだ」
「…………」
言葉が思いつかない。なんだか頭がぐらぐらしてきた。
「ま、そんな落ち込まなくていいって。みんなに起きてるエラーだから」
「……みんなに」
「そう。誰でも。僕でも」
みんなに起きているエラー。
なら、仕方ないのか。俺が間違っていたとしても、仕方ないと言えるわけか。
とはいえエラーだったなら、杏樹には謝ったほうがいいだろうし、でも仕方ないエラーなのだから俺は許されるべきであり…………。
「たださ、おたくさ、あれはダメだよ。あれはないわー。『別の人間なんだから想像なんかできない』っていうの」
「え」
俺はいつのまにか下を向いていた。
ずり落ちてしまった眼鏡を上げる。
「アイスコーヒーをぶっかけられてもしょうがない。三リットルかけられても文句は言えない。別々の人間だからこそ、お互いの立場を想像して、歩み寄るんでしょ」
「理想論だ。そんな簡単に他人を理解できるなら、世の中はもっとマシになってるんじゃないのか」
言い返すと、男は、やれやれ、という顔でこっちを見る。
「あのねえ、『理解しろ』なんて言ってないの。他人を完全に理解するなんて無理なんだから。理解に少しでも近づくため、『自分の知識や経験を参照して、相手の立場を想像してみよう』って話」
「……?」
「それを日本語で『歩み寄り』って言うの。あるいは『思いやり』でもいい。こんなややこしく語る必要すらない」
──思いやりが感じられないんだよね。
杏樹の言葉が、脳内再生される。
「要するに、おたくはあの若くて可愛いパートナーに『きみを理解するための努力なんかムダだからしたくない』と言ってしまったわけ」
ぎくりとした。
言語化されると、なんとも冷たく、突き放した感がある。
俺はもちろんそんなつもりはなく……たしかに他人を理解するための努力など、面倒だし非効率的だし、どうでもいい相手にそんな労力を割く気はさらさらない。
でも、杏樹は違う。
杏樹のためならば、それを怠るべきではない。それはわかる。
たとえ俺にとって難しい作業であったとしても、試みなければならないのだ。相手の立場を想像……自分の知識や経験を参照して、とこいつは言っていた。なるほど、それならば、ある程度は可能なはずだ。トライ&エラーを繰り返せば、精度は上がっていくだろう。
立ち上がり、伝票を掴んだ。
「やっとエンジンかかった? そうそう、早く帰って謝りなさいよ」
男が言い「あと、ウチの洋にも謝って」とつけ加える。
その点については、俺も後味が悪かった。身体の向きを変えて頭を下げ、「さっきは失礼。悪気はなかったんだ」と謝罪する。若者はぷるぷると首を横に振り、「なんもなんも」と言ってくれる。許してくれたようだ。それを見届けると、俺は椅子の上に置いていたスーツの上着を手にした。
早く帰らなければ。
杏樹に謝って、誤解を解かなければ。離婚は考え直すよう、説得しなければ。
テーブルを離れて三歩進んだとき、振り返る。
いささか気になることがあったからだ。
「……きみは……」
名前が知りたいわけではない。
ただ、なにを生業にしているのか気になった。
だがウェリントン眼鏡男はシッシッと犬を追い払うような仕草をしつつ「早く行きなって」とぞんざいな口をきく。その態度にイラッときたが、今はとにかく杏樹である。
二度と会うこともない奴に構っている暇などないと自分に言い聞かせ、店を出た。
途端にむわりと蒸し暑い。夜だろうと東京の夏は容赦ないのだ。
ワイシャツが湿気を吸っていくのを感じながら、俺は走り出した。
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