「ストロベリーナイト」シリーズや「武士道」シリーズなど、魅力的なヒロインを数多く生み出してきた誉田哲也さんの待望の最新刊がついに刊行されました。
最新作は、誉田作品史上「最強」のヒロイン・紅鈴の活躍を描いた、理屈抜きに面白い、最高のエンタテインメント小説です。
そんな『妖の絆』(文藝春秋)より序章及び第1章を抜粋して紹介します。
どうぞ、お楽しみください!
序章
あの女が、明るいうちに動き出すことはない。しかし、何事にも万が一は起こり得る。気を抜かず、見張り続けることが肝要だ。
江戸五街道の一つ、甲州道中。その、江戸から数えて五番目の宿場、日野宿。足の速い男なら、その日の内に内藤新宿、江戸入りすることも決して難しくはない。だがそれは、あくまでも朝早く日野宿を発てばの話。今日はもう夕七つ(午後四時頃)。その限りではない。
道順(どうじゅん)がいま見下ろしているのは、斜向(はすむ)かいにある旅籠屋(はたごや)の出入りだ。着いたばかりで旅姿の者や、近所の茶屋で何か摘(つま)んできた者、風呂を浴びて夕涼みの散歩に出る者など、格子の間からでもその様子はよく分かる。
しばらくはこのままであろう。あの女が、今日ここを発つとすれば、暮六つ(午後六時頃)よりあとになるはず。
それにしても、あの女はここまでの道中、たとえば小仏(こぼとけ)の関所などは如何(いか)にして通ってきたのであろうか。
関所の役目は、あくまでも「入鉄炮出女」の検(あらた)め。江戸に無暗(むやみ)に鉄炮を持ち込ませないことと、大名の妻女が国に逃げ帰るのを防ぐことにある。よって江戸に向かおうとする女を咎(とが)めることは、平素はない。だが、だとしても女の一人旅というのは怪しい。妻女の身代わりとしての江戸入りを疑えば、女手形を検めるくらいはするやもしれない。
いや、女はそもそも関所など通っていない、というのは大いにあり得る。夜の闇に紛(まぎ)れて関所の柵を乗り越えたのやもしれないし、山に入って大回りし、その先で甲州道中に戻ったのやもしれない。
あの女なら、やりかねない。
そんな思いを巡らせていると、ふと階(きざはし)を上ってくる何者かの足音が耳に触れた。新十郎(しんじゅうろう)か。それとも他の旅客か、飯盛女か。
まもなく、粗末な腰付障子が引き開けられる。
顔を出したのは新十郎だった。
「……道順殿」
部屋の中ほどまで入り、畳に膝をつく。
「うむ。どうだった」
「今、また風呂に入っております」
あのような者でも、身綺麗にはしておきたいらしい。
「変わらず、一人きりか」
「はい」
「宿屋の方は怪しんでおらぬか」
客に一人旅や怪しげな者がいた時は、旅籠の側から宿役人(しゅくやくにん)に届け出ねばならない。あの女は一人の上、これといった荷も笠もない。怪しまぬとしたら、どうかしているのはその旅籠の方だ。
新十郎が頷(うなず)く。
「また、握らせたようにございます。おそらく、小粒を三つか四つ」
あの旅籠が一泊二百文として、女が金か銀で四朱渡したのだとしたら、相場のおよそ五倍。黙らせるには充分であろう。
「飯は」
「要らぬと、申したようにございます」
「朝も夕もか」
「はい」
「女がいつ入ったかは、聞き出せたか」
「はい……まだ暗いうち、朝餉(あさげ)の支度をしているところに、ふと現われたのだとか」
やはり。
「宿の裏手にか」
「御意」
間違いない。あの女の、いつもの手だ。今度こそ人違いということはあるまい。
暁七つ(午前四時頃)から明六つ(午前六時頃)までに、女は宿場に現われては泊まれる旅籠を探す。旅客の多くは夜明け前に発つので、旅籠はむろん開いてはいるのだが、その時分に「泊まれるか」と訪ねてくる客はさすがに珍しい。しかも女一人。だが何か言われるより先に、女はいくらか差し出すのだろう。此度(こたび)のように小粒を三つ四つ、あるいは一分金ということも先にはあったと聞く。さらに女は、風呂は浴びるが飯は要らないと言い添える。それで相場の五倍も十倍も払うというのだから、たいていの旅籠は黙って女を泊める。これまで、ずっとそうだった。
道順は立ち上がり、木綿の道中着の裾を合わせた。脚半(きゃはん)はずっと着けたままだ。
「新十郎、私は先に発つ」
その他の荷も、すでに旅行李(たびごうり)にまとめてある。
新十郎が、傍にあった三度笠を道順に手渡す。
「……では」
「お前はここに残り、女が出てきたら、気取(けど)られぬようあとを追え。この先、清水(しみず)に立場(たてば)があるのは分かるな」
「分かります」
立場は旅人だけでなく、人足や飛脚も用いる休み所だ。
そんな立場の近くには、必ずや博奕場(ばくちば)がある。
その先で、今宵、仕掛ける。
道順も、清水立場には何度か立ち寄ったことがある。名物は並びの茶屋が出す素麺(そうめん)で、地名の通り水がよいのであろう、冷たくて旨いと評判だった。
ただ、長居したことは一度もない。よって近隣に何があるのかまでは、実のところよく知らない。
立場は宿場と違い、ただ小上がりがあるだけの休み所なので、客を泊めることはできない。茶屋も明六つから暮六つまで。むろん売女を置くことも、博奕も禁じられている。いずれも宿場保護のためだが、それらはあくまでも表向き。どこの立場でも、裏に回れば飯盛女が客を取っているし、近くを探せば必ず博奕場があるものだ。
道順は先を急いだ。暑さの盛りはとうに過ぎ、だいぶ日が短くなってきている。日野宿から清水立場までは二里八町(約九キロ)。暮六つまでにたどり着けるかどうか、といったところだった。
案の定、そんな時分になってしまった。
着いてみると、旅客や人足の姿は辺りになく、茶屋もまだ開いてはいるものの終い支度を始めていた。日野宿を出るのが少し遅かったようだが、今それを悔いても仕方がない。
道順は、茶屋の脇にある細道を抜けていった。先の方に何軒か百姓家が見え、その中に、閉めきった戸の隙間から明かりを漏らす荒家(あばらや)がある。
近くまで来てみると、声も聞こえた。
「へい、どっちもどっちも……」
「チョウ」
「チョウだ」
「ハンだ、ちくしょう」
しばらく、道順は外で聞いていた。
男が四人、いや五人。さして広い家ではないから、他に声を出さない者がいたとしても、せいぜい合わせて六人か七人だろう。物言いから察するに、おそらくはこの近隣の男共だ。人足や飛脚といった職のある者はすでに立場を発っている。この時分まで残っているということは、よほど気持ちよく勝ったか、負けが込んで帰るに帰れなくなった――いずれにせよ、この辺りの溢(あぶ)れ者だろう。
自ら入って声をかけるか、このまま外で待つか。
幸い、四半刻も待たずして出てくる者があった。それも、二人いっぺんにだ。歳の頃は二十五、六といったところか。
二人とも、伸びた月代(さかやき)が汚らしい。
「……ん」
戸口の横に立つ道順を認め、手前の男が眉をひそめる。博奕場を糾(ただ)しにきた隠密廻りとでも思ったか。
ここは一つ、下手(したで)に出ておく。
「すまねえ、怪しい者じゃねえんだ。ちょいと、いい声が聞こえちまったもんでよ。交ぜてもらおうかと思ったんだが……あいにく、もう終いみてえだな」
得心がいかないか、男は眉根を寄せたままだ。
「なんのこった。とっとと失せろや」
「おいおい、そんな言い草はねえだろう」
「いいから失せろって。余所者(よそもの)は大人しく言うこと聞いとけ」
よほど負けが込んだと見える。目付きが、まるで食いっぱぐれた野良犬だ。
「まあ、そんなこと言わねえでよ……実ぁ、兄さんたちにお誂(あつら)え向きの儲け話があるんだが、ちょいと聞いちゃみねえか」
後ろにいた一人が、ぐいと顔を出してくる。見ようによっては、そっちの方が年嵩(としかさ)のようにも思える。
「……儲け話」
「ああ。聞いてくれるかい」
「どんな話だぇ。あんまりふざけたこと抜かすと……」
「二両出す」
後ろの男が口をひん曲げる。
「一人、二両かい」
ここで出し惜しみをしても始まらない。
「ああ、一人二両ずつ……ただし、半分は後払いだ。先に一両ずつ、お前さんらが首尾よく事をやり遂げたら、もう一両ずつ払う。それでどうだい」
贅沢さえしなければ、ひと月二両で充分暮らせる。不足はあるまい。
後ろの男が浅く頷く。
「悪くねえ話だが、それで俺たちに、何をさせようってんだぇ」
こんなところで声をかけて、二人合わせて四両払うと言っているのだ。まともな話ではないことくらい、男たちも先刻承知だろう。
道順は自分の背後、茶屋の方を指差してみせた。
「そこの道を、夜五つ(午後八時頃)かそれくらいの時分に、女が一人で通る」
手前の男が半笑いで首を傾げる。
「女が一人で、五つに、そこの道をか」
「ああ。その女を、お前さんらに襲ってもらいたい」
今度は、後ろの男が鼻で嗤(わら)う。
「おいおい、戯言(ざれごと)はよしなぇ。そんなことに、四両も出す馬鹿がどこにいる」
「ここにいるさ。この通り……」
懐から巾着を出してみせる。
「銭ならちゃんとある。お前さんらが承知してくれたら、今ここで半金を渡す」
後ろの男が目付きを険しくする。
「女を襲って、一人二両ってのは、どうにも合点がいかねえな」
「こっちが払うと言ってんだ。それでよしとしなよ」
「そんなことなら、あんたが襲えばいいだろう、その女を。そうしたら、四両丸儲けだ」
「ところが俺には、その場に顔を晒(さら)せねえ事情ってもんがあるんだ。そこんところはあまり深く聞かねえで、相分かったと呑み込んじゃくれねえか」
手前の男が、訴えるような目で振り返る。
「……おい、やろうぜ。こんなのはお安い御用じゃねえか」
どうして、後ろの男はなかなか用心深い。
「もう一つ訊く。女を襲うってのはつまり、手籠めにしろってことだろう。男二人で」
「その通りだ」
「暴れられたら、ひっ叩(ぱた)くくらいはするかもしれねえぜ」
「構わん。好きにやっていい」
「手加減し損ねて、万が一、殺(あや)めちまったらどうするつもりだぇ」
「それでも構わん。残りの二両は必ず払う」
「女の財布や、小間物は」
「欲しければくれてやる。持っていけ」
二人とも口を尖らせてはいるが、いくらかは合点がいったようだった。
手前の男が訊く。
「で、どんな見様(みざま)をしてんだ、その女は」
「身の丈、五尺一寸(約一五五センチ)」
「ほう、男並みだな……って、まさか、牛みてえな醜女(しこめ)じゃねえだろうな」
なるほど。あまりに醜ければ手籠めも勘弁願いたいか。
「そのようなことはない。女は……この辺りでは、まず見ること叶わぬほどの傾城(けいせい)よ」
一顧すれば、城が傾くほどの美女。
今夜の月明かりで、その顔がどれほど拝めるかは分からないが、決して嘘ではない。
あとは待つだけだった。
道順は、立場から一町(約一一〇メートル)ほど歩いた辺りで杉の並木に登った。幹を真っ直ぐ五間(約九メートル)も登れば、あとは枝伝いに進むことができる。新十郎もおそらく、そのようにして女を追ってくるに違いない。
見下ろせば、月明かりが白く道を照らしている。人っ子一人、通る者はない。遠くで山犬が鳴くのを聞いたが、その他には何も聞こえない。ときおり風が吹き、枝葉の揺れが地に映る。その動きを追えば、夜風が東に渡っていく様も目に見える。
あの風も、明日には江戸に吹くのだろうか。
そんなことを思っていると、夜五つの鐘が聞こえてきた。
それから、まもなくだった。
茶屋の方から、背の高い女が一人、歩いてくるのが目に入った。
見覚えのある黒無地の紬(つむぎ)と、臙脂(えんじ)の細帯。洗い髪を簪(かんざし)でまとめただけで、笠は被らない。手甲(てっこう)も脚半もない。薄い草履(ぞうり)で、乾いた土をひたり、ひたりと踏み、こちらに進んでくる。
間違いない。あの女だ。
その後ろ、十間(約一八メートル)ほど空けてだろうか。博奕場の二人の姿も見えてきた。着物の裾を尻端折(しりっぱしょ)りにたくし上げ、女より速足で付いてくる。だが、女がそれを気にするふうはない。ただ前を見、月明かりの中を真っ直ぐに歩いてくる。
男たちが足を速める。
五間ほどに迫ったところで、一人が声をかけた。
「おい、ちょいと待ちねぇ」
聞こえなかったのか、女は足を止めることも、歩を弛(ゆる)めることもしない。
男のどちらかが舌打ちをした。
それを合図とするように、二人が駆け出す。
二人の足音は聞こえているはずなのに、やはり女の足取りは変わらない。振り返ることすらしない。ただ静かに、こっちに向かって歩いてくる。
やがて、男たちは手の届くところまで追い付いた。
「オイ、待てって……」
声を荒らげ、女の肩に手を伸ばす。着物の柄からすると、博奕場では後ろに立っていた男だろう。
道順は、思わず目を見開いた。
男の指先が、女に届くか否かという刹那、男の体がふわりと浮き上がり、女の体を飛び越えた。
違う。飛び越えたのではない。
女が、男の体を、両手で持ち上げたのだ。
左手で男の袖、右手で男の帯を摑み、ひと息に、振り被るように頭上まで持ち上げる。
その高さから真っ逆さま、自分の足元に叩きつける。
重たい石を、地に落としたような鈍い音。
もう一人の男には、何が起こったのかまるで分からなかったのではないか。
「……ひっ……きひっ」
女は間髪を容れず向き直り、両腕を広げてその男を正面から抱きかかえた。
なんだろう。パチン、パチンと、枯れ枝の折れるような音がした。女か男が枝を踏んだのか、それとも他のことで鳴った音なのか。道順のいる場所からは分からない。
簪が抜けたのか、女の髪が大きく闇に舞い上がる。月明かりが地に映す枝葉の揺れより、さらに激しく舞い乱れる。
なんとも奇妙な有り様だった。
地に叩きつけられ、大の字になった男。その向こうで、立ったまま抱き合う女と男。
どれほど、そうしていただろうか。
ふいにズルリと、抱えられていた男の体が女の足元に落ちた。両の膝を強(したた)か地に打ちつけ、尻を着き、首を垂れる。
その、座り込んだ男の懐に女が手を入れる。そこには、道順が渡した半金があるはず。案の定、女は手にした何かを自らの袂(たもと)に入れ、もう一人、先に倒した男からもせしめ、同じように袂に収めた。
そのついでのように、女は足元から何かを拾った。それをもと来た方、茶屋がある方の空に放る。小石か何かを投げたのだろうが、葉や枝に当たる音はしなかった。いや、座り込んでいた男が横向きに倒れたので、それで聞こえなかっただけかもしれない。
そして何事もなかったように、またこちらに歩き出す。
あの二人に「傾城」と言って聞かせたのは徒言(あだごと)でも戯言でもない。真実、女は艶めくような美相の持ち主だ。白猫のような目鼻立ち、月明かりに煌(きら)めく黒い髪、血よりまだ赤い唇。
女が、道順のいる杉の樹の下に差し掛かる。そこで、ほんのひと息の間だけ足を止めたが、しかし、それだけだった。気取られたのかと肝を冷やしたが、そうではないようだった。女はまた歩き出し、そのまま東、府中宿の方へと去っていった。
女の足音、気配、あるいはひどく邪(よこしま)な、何か。
道順は、女を思わせる全てがこの場から消えてなくなるのを待ち、ようやく、止めていた息を吐き出した。
見定めねばなるまい。
樹から下り、地に足を着ける。まずは、大の字になっている男を見にいく。
実に、無残な有り様だった。
頭が、潰れているというか、斜めに折れている。目玉は二つともこぼれ落ち、顎のところで顔がひしゃげ、鼻から上が捻(ね)じれてグズグズに歪んでいる。首も胴体にめり込み、なくなっている。しかし、それだけと言えばそれだけだ。体は無傷と言っていい。
二人目はさらに無残だった。
横向き、体を「く」の字にして倒れているが、その喉元が、山犬にでも食われたように齧(かじ)り取られている。傷口の肉が、月明かりに艶めいている。それでいて、血はさして流れていない。
間違いない。あの女は、やはり閣羅(かくら)だ。
これは、一刻も早く江戸に知らせねばなるまい。
しかし妙だ。事は全て済んだというのに、新十郎が現われない。何かあったのだろうか。
道順は立場の方に道を戻り始めた。だが、二人の骸(むくろ)から十間ほど行ったところで、見えた。
新十郎は、道順とは反対、道の北側の並木に登って様子を窺っていたようだ。
まさか。
慌てて道順も同じ樹に登った。そもそもおかしいのだ。道順が骸を検め、ここまで歩いてきているというのに、あの新十郎が、樹に登ったままでいるはずがない。
案の定だった。
道順と同様、濃い藍色の装束に身を包んだ新十郎は、樹の幹を両の手で摑んだまま事切れていた。
右目が、深い穴になっている。目玉を刳(く)り抜かれたのではない。目玉ごと何かで射抜かれ、潰されたのだ。
あの女か。あの女が放った小石が、新十郎の右目を射抜いたのか。
この分では、小石は脳の髄まで達しているのであろう。おそらく新十郎には、痛みを覚える間もなかったに違いない。だが、だとしても声一つ発することなく、転げ落ちることもなく、この枝に留まったとは恐れ入る。この泰平の世で、よくぞここまで「忍(しのび)」の技を磨いたと、できることなら直に褒めて聞かせたい。
道順は、新十郎の首元に筒火矢(つつびや)を差し込んだ。
「……臨(りん)、兵(ぴょう)、闘(とう)、者(しゃ)、皆陣列在前(かいじんれつざいぜん)ッ」
九字を切り、仕掛け糸を引きながら、一気に飛び下りる。
さらばだ、新十郎。
足が地に着いた刹那、ボンッ、と樹上に火の玉が膨らんだ。
胴体を失った、新十郎の欠片(かけら)が辺りに降り注ぐ。
新十郎。
その命、道順は決して無駄にはせぬ。
第一章
一
うんと小さな頃は、あの山が好きだった。
暑くなれば、ひんやりと優しい風を届けてくれた。寒くなったら、雨や雪から欣治(きんじ)の家を守ってくれた。あの頃だって、夜になれば山は大きな黒い闇の塊りだったのだろうけど、怖いとは思わなかった。
怖いと思うことを、欣治は知らなかった。
それが、いつの頃からだろう。
日暮れから夜にかけての山を、欣治は怖いと思うようになった。
でいだらぼっちの話を、母から聞かされたからだろうか。父が山で、山犬に襲われたと聞いたからだろうか。その父が、あまり家に帰ってこなくなったからだろうか。
ととは、どうして帰ってこんの。
そう欣治が訊くと、母は悲しそうな顔をした。母が悲しそうな顔をすると、妹のたまが泣いた。だから欣治は、もう訊かなかった。父が帰ってこなくても、それには気づかぬ振りをした。
代わりに、山が怖くなった。
お天道様がその向こうに隠れると、山は顔つきを一変させる。樹々の間、枝葉の隙間から暗い闇が染み出してきて、あっというまに全てを黒く呑み込んでしまう。欣治には分からない、どうにもできない、大きくて悪い何かが、山からこの家に向かって押し寄せてくる。それは、母にも押し返せない何かだ。父ならどうにかできたのかもしれないが、いないのでは仕方がない。
今日も、そうだった。
山向こうの空が柿色に染まる頃。畑仕事を終えた母が、家に戻ってくる。
「……遅うなって、堪忍な。腹、減ったろう」
母は背負ってきた籠や笊(ざる)、鍬(くわ)や鎌を片づけたら、すぐ竈(かまど)に火を熾(おこ)し、芋を蒸(ふか)してくれる。
ただし、一本だけ。その一本を、欣治とたまで分け合って食う。母の分はない。
たまが、自分のひと口より大きく捥(も)ぎ取り、母に差し出す。
「かか、食べ」
母は、土色の頬を持ち上げ、首を横に振る。
「たまがお食べ。かかは、あとでうんと食べるから。それは、たまがお食べ」
欣治とて、同じことは何度も言った。母の答えは、いつも一緒だった。かかは、あとでうんと食べるから。だがそれは嘘だった。夜になり、確かに母も何か口にはするけれど、それは芋などではなかった。何かの根っこだとか、せいぜい菜っ葉の類だ。それをほんの少し、汁にして食べるだけだ。寝た振りをして、薄目を開けて見ていたので、欣治は知っている。
俺が山で、朝夕いっぱい、芋を取ってこられたらいいのに。
しかし、そうはいかぬことも、欣治には分かっていた。
母が畑に、欣治が山に行ってしまったら、たまは家に一人きりになってしまう。たまはまだ二つ。一人で留守番はできない。かといって、たまを負ぶって山に入ることはできない。そんな力は、欣治にはまだない。
どうにか、できねえもんかな。
口には出さず、そんなことを思い、最後のひと欠片を頬張った、そのときだった。
開けたままだった家の戸口を、ふいに人影が覆った。それも、大の男が三人もだ。
「ちょいと邪魔するぜ……おかつさんってのは、あんたかい」
言ったのは、真ん中にいる背の高い男だ。風体からして、ここいらの百姓ではない。藍色の綺麗な着物には、土塊(つちくれ)など小指の先ほども付いていない。
竈の前にしゃがんでいた母が、戸口を見ながら立ち上がる。
「へえ。私が、かつにございますが」
「ちょいと、これを見てもらえるかい」
男が、懐から何やら取り出す。手紙のようなそれを、母によく見えるよう広げる。
母は、物(もの)の怪(け)でも見たように目を見開いた。
「これ、は……」
「見ての通りの手形と、こっちが証文だ。額は、ここに書いてある通り、十三両と、二分……約束の日はとうに過ぎてるが、今ここで払うんなら、遅れた分はなんとか……俺が、なかったことにしてやってもいい」
母が「そんな」と男に詰め寄る。
「十三両なんて、そんな」
「そんなもこんなも、あんたの亭主がこさえた借金だ。気の毒だとは思うが、弥助(やすけ)がふけちまったんじゃ仕方ねえだろう。こっちも、あんたに代わって払ってもらうしか手がねえんだよ」
「だからって、そんな、十三両なんて」
男が二つ、小さく頷く。
「分かってんだよ、こっちだってそんなこたぁ。こんな小汚え百姓家に十三両もあるなんざ、端(はな)から思っちゃいねえや。だからそれも、ここに書いてあるだろう……払えねえ時は、右、ミマツヤ、キッペイ……ってのは俺のこったが、これの取り仕切る通り、ヨシワラに同道し……ま、早え話がジョロウになると、そういうこった」
よくない話であることは、欣治にも分かった。母にもどうしようもない、逆らうことすらできない「何か」なのだ、ということも。
母が男に頭を下げ、縋(すが)りつこうとする。
「私は、私は、どうなろうとかまいません。でも、この子らは……」
男が、欣治とたまに目をくれる。たまは、まだ蒸し芋の残りを齧っている。
「分かるけどよ。恨み言なら俺じゃねえ、弥助に言いな。こんな童(わっぱ)が二人もいるのに、博奕だ酒だと遊び歩いていやがったのは、あんたの亭主なんだからよ……身一つで構わねえから、一緒に来な。着物だ帯だ、簪だ、いろいろ入用にはなるだろうが、それも仕方ねえやな。気張って一人でも多く客取って、一日も早く借金返しな。それより他に、あんたにできることなんざありゃしねえんだ……おい、連れてけ」
黙って戸口に立っていた二人が、母の両腕を取って外に連れ出す。やめてくれ、かかを連れていかねえでくれと、欣治も泣いて縋りたかった。
けど、できなかった。
男の後ろ、戸の外。
黒く染まった山がじっと、欣治を睨みつけていた。
動けなかった。声も出なかった。
男二人に抱えられ、連れて行かれる母を、ただ見ているしかなかった。
母は、何度もこっちを振り返り、欣治、たま、と繰り返し呼び続けた。だが欣治は、大丈夫だと、たまの面倒は俺が見る、ひもじい思いはさせねえからと、口に出すことができなかった。
怖かったのだ。あの、黒く夕闇に染まった山が。
そんな欣治の心の内を、男はどれほど察していたのだろうか。
「……おい、坊。切(せつ)いだろうが、辛抱しなよ。なに、少ししたらかかは帰ってくるさ。それまで、妹の面倒しっかり見て、な。あんまり多くはやれねえが、これは俺の気持ちだ。取っときな……いっぺんに使うんじゃねえぞ。どうしても要るってなったときに、少しずつ、な。大事(でえじ)に使うんだぜ」
男が欣治に握らせたのは、銭差(ぜにさし)ひと束。これを「百文差」と呼ぶことも、実には九十六文しかないことも、欣治が知るのはもう少しあとのことだ。
それでも、六つの男子(おのこ)の手にはひどく重かった。
男は、大きな手で欣治の頭を撫でた。
「俺ぁな、ミマツヤの、キッペイってもんだ。いや、なんでも屋のキッペイって言った方が、分かる奴は多いかもしれねえ。とにかく、何か困って、どうしようもなくなったらよ、こっからじゃちょいと遠いだろうが、ヨシワラまで来(き)ない。そんで、大門(おおもん)をくぐったら、番所の者に止められっだろうが、そしたら、キッペイを呼んでくれって、なんでも屋のキッペイを呼べって……字で書いてみろって言われたら、こうだ」
男は土間に、落ちていた木屑で書いてみせた。
吉、平、と読めた。
「分かるかぇ」
頷いてはみたものの、覚えられるかは分からなかった。
「よおし。おめえなら大丈夫だ」
男、吉平は嬉しそうに笑い、また欣治の頭を撫でた。
欣治は思った。
この男はきっと、山など怖れはしないのだろうと。
大事に使えとは言われたが、そもそもこんな田舎では銭を使おうにも使うところがない。江戸のように、天秤棒に籠を下げた飯売りが通るわけでも、近くに蕎麦屋があるわけでもない。実のところ、そう遠くない場所に宿場町はあったのだが、大人ならともかく、欣治のような子供の足で行き来するのはやはり難しかった。
さらに欣治にとって不運だったのは、周りの村人との交(ま)じらいだった。
少し前までは、歳の近い村の子供たちとも遊んだし、大人たちも優しくしてくれていた。この辺りは米よりも野菜、豆などを植えることが多く、父も母と共に畑仕事に精を出していた。
だがいつの頃からか、父は家に帰ってこなくなり、母も、それまでのように家の近くの畑に入ることはなくなった。この頃は、母がどこで何を作っているのか、欣治にはさっぱり分からなくなっていた。
家の近くの畑に入るのは、もっぱら、知らぬまに口も利いてくれなくなった村の大人たちだ。
あの人たちが作った葱(ねぎ)や芋を、勝手に取って食ってはいけない。それくらいのことは、欣治にも分かっていた。それをしていいのなら、母だってもっと、欣治とたまに芋を蒸して食わせてくれたはず。それができなかったということは、つまり、そういうことだ。
だから、欣治は盗みに入った。
真夜中の、誰も見ていないときに。
もう、山が怖いなどとは言っていられなかった。あんなに、口を開けば「腹減った」「かかは」「腹減った」とうるさかったたまが、ここ二日か三日は、ひと言も喋らなくなっていた。さすがに雨の夜には難しかったが、晴れて月の明るい夜ならば、どこに何が植わっているのかは欣治でも分かった。
少し遠い畑で芋を掘り出して、最初は一本だけ、家に持って帰った。
夜が明けたら、母がやっていたように竈に火を熾し、盗んできた芋を蒸し、たまと食べた。
「旨いねぇ」
「うん、旨えな」
何日か振りで見る、たまの笑い顔だった。
それだけでよかった。芋を食って、たまが笑う。その顔が見られるなら、もう他には何も欲しくなかった。畑への道中も、たまのあの顔を思い出せば、暗い山の影に怯えずに歩けた。
何べんだって、毎日だって、ああ、盗みに入ってやるさ。
最初は一本だけだった芋が、次からは二本に、やがては三本に。そのうち、わざわざ遠い畑に行くのが億劫(おっくう)になり、近い畑からも抜くように――。
そんな所業が、いつまでも見過ごされるわけがない。
何度目の盗みの、帰り道だったろうか。
家まであと少しというところで、傍の竹藪から人影が飛び出してきた。それも、大の男が二人だ。
「やっぱりおめえか、欣治」
引き返しても意味はなかった。だが男たちの姿の大きさに、とっさに欣治は踵(きびす)を返してしまった。家から離れる方に、走り出してしまった。
「待てコラッ」
「待て欣治、オイッ」
どこかで曲がって、大きく回って、たまが待っている、あの家に戻らなければ。
「こら待て、欣治、コラッ」
懐から、するりと一本、芋がこぼれ落ちた。あっ、と思ってしまった。その一本があれば、たまはまた一日笑っていてくれる。でもなくなったら、喋りもせず、泣きもせず、板間の隅に縮こまり、眠そうに指をしゃぶるだけになってしまう。できることなら拾いに戻りたい。だが、できるわけがなかった。
男たちの、怒りの声はすぐ後ろまで迫ってきていた。重々しい足音が地を伝い、欣治の足下にまで響いてきていた。
駄目だ、どっかで曲がらなきゃ。
その思いが、踏み出すべき次の一歩を迷わせた。
ガクッ、と片足が転げ、地が傾(かし)ぎ、何やら体が軽くなった気がしたが、とっさに出した手が硬い地を叩き、肘が、砕けるかと思うほどそこに突き当たった。
「こレァーッ」
その刹那、頭の後ろを――。
誰かの話し声が、聞こえた気がした。
女の声だったので、母かと、母が帰ってきたのかと思い、目を開けようとしたけれど、それよりも、首や肩、腰、肘や膝、体のあちこちが痛んで、呻(うめ)き声の方が先に漏れた。
「あれ、気がついたんじゃ、ないかい」
「なんか、聞こえたね……まあ、よかったよ、息吹き返して。お前さんたち、こんな年端(としは)もいかない子供を、もし殺しでもしちまったら、どうするつもりだったんだい」
声は、母ではなかった。
しかも、周りにいるのは女ばかりではなかった。
「サンペイ。芋泥棒は弥助の倅(せがれ)だ、見つけたら半殺しにするって、息巻いてたのはおめえだろう、おう」
目を、開けていいものかどうか。
「そらおめえ、確かに言ったけどもよ、こいつの身にもなってみろ……なあ」
「おうよ。なんにしたって、あの弥助の倅だぜ。こっちは、あんな目に遭わされた挙句、倅に芋まで盗まれてんだ。半殺しにしたくれえじゃ気が収まらねえや」
薄目を開けると、どうやら、どこかの軒下に転がされているようだった。その上、手首と足首を、荒縄か何かで縛られてもいる。
「シンさんが言うのも分かるけど、子供に罪はないじゃないか」
「そうだよ。あれだろ、おかつさんは、あの男のこさえた借金の形に、ヨシワラに売られたってじゃないか。この子だって、ひもじかったんだよ」
「一つか二つの、妹もいるんだろ。きっと、その子を思ってのことだったんだよ。赦(ゆる)してやんなよ」
ペッ、と誰かが唾を吐く。
「だからって、人様の芋を盗んでいいって話にゃならねえや。いいか、あの弥助のしたことを思い出してみろ。おみつは、まだ十(とお)にもならねえ女子(おなご)だぜ。それを、あの野郎は……」
「それだって、弥助がやったと決まったわけじゃ」
「いいや、弥助に決まってる。弥助の他に、あんなひでえことをする野郎はいやしねえ」
なんとなく、欣治にも話が分かりかけてきた。
つまり、みつという女子に、父が何かひどいことをした。それが村中に知れたものだから、欣治たちはここしばらく「村ハジキ」にされていたと、そういうわけだ。どうりで、昔は米でも味噌でも融通してくれていた隣近所が、挨拶もしてくれなくなったわけだ。
そんな頃になって、遠くから声が聞こえてきた。
「……おーい……おーい」
声は男一人だが、足音はそれよりも多い。二人も、三人も駆け寄ってくるように聞こえる。
近づいてきたその足音に、女の一人が声をかけた。
「和尚さま」
「いやいや、いや……おせつさんから、大方の話は聞きました……ちょっと、水を一杯」
あれか。畑の向こうの方にある寺、円光寺(えんこうじ)の和尚か。
「はいはい、ただ今」
誰かが家に入り、柄杓(ひしゃく)に水を汲んできたのだろう。
そういえば、欣治も喉が渇いている。和尚が水をすする音が、なんとも美味(うま)そうに耳に届く。
「……んん、かたじけない……いや、その、なんだって、弥助の倅だって」
大人たちは、また同じような話を和尚に繰り返した。和尚はずっと黙って聞いていたが、男の一人が「勘弁ならねえ」と声を荒らげたところで、ようやく口を開いた。
「まあ、そう事を荒立てなさんな……この子、欣治といったかね。今いくつだって……なんだ、六つの子をお前、じゃ何かい、遠島にでもしてくれって、奉行所に突き出すつもりかい。そんな、聞けば弥助の一件から、村ハジキにしてたってじゃないか。それで弥助がいなくなって、おかつさんはヨシワラで……そりゃ、いくらなんだってこの子が可哀相ってもんだろう」
男たちが「だからって」と言い返すのを、和尚が抑える。
「分かってる。盗みは、やっちゃならない。それはその通りだ。ただね、そうならないように子を育てるのも一つ、同じ村の者の務めなんじゃないのかね。とはいえ、ここまで拗(こじ)れちまっては、預けられてもこの子の方が困っちまうだろう……分かった。ここは一つ、うちの寺で、預かるとしようじゃないか」
寝た振りをしている間に、話がどんどん進んでいく。
女の一人が「でも」と割って入った。
「和尚さま、困ってんのはこの子だけじゃなくて、家にはまだ、一つか二つの妹がいて」
「ああ、そうか。そう言ってたな。まあ、うん……致し方あるまい。その妹も、寺で面倒見るしかなかろうよ。で、いつになるかは分からんが、おかつさんが戻ってきたら、迎えにきてもらうと。そういうことで、どうだい、シンキチさん」
「……へえ。和尚さまが、そう仰(おっしゃ)るなら、そのように」
駄目だ。腹が、鳴りそうだ。
この続きは本書でお読みください。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。