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追悼・アントニオ猪木 「昭和プロレスの語り部」による鎮魂歌

出典 : #文春新書
ジャンル : #ノンフィクション

アントニオ猪木 闘魂の遺伝子

門馬忠雄

アントニオ猪木 闘魂の遺伝子

門馬忠雄

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『アントニオ猪木 闘魂の遺伝子』(門馬 忠雄)

 昭和、平成、令和と三時代を全力で駆け抜けた巨星がついに逝った。

“燃える闘魂”アントニオ猪木。本名、猪木寛至が2‌0‌2‌2年10月1日午前7時40分、心不全のため東京・港区内の自宅で亡くなった。79歳だった。

 ’20年7月には、指定難病である心アミロイドーシスを発症して闘病中であることを公表していた。心アミロイドーシス発症後の猪木は、衰弱した身体をさらけ出し、YouTubeなどで懸命に生き抜く姿、メッセージを発信し続けた。

 ’22年3月にはNHKが密着ドキュメント番組を放送、8月28日には日本テレビ系「24時間テレビ」に周囲の反対の声を振り切って生出演。会場の東京・両国国技館に車イス姿で現れ、渾身の叫びで「元気ですか! 元気があれば何でもできる!」「1、2、3、ダァーッ!」と最後のファンサービスをやってのけ、観客を喜ばせている。

 亡くなる前日の9月30日には5つ違いの弟・啓介さんを呼び、40分ほど共に過ごしている。そして10月1日の朝、寝たまま苦しまずに逝ったという。最期まで難病と闘い続けた末だった。

 1‌9‌6‌3年12月15日、猪木の師匠・力道山光浩の急死は、“プロレスの灯が消えた!”とまで報道されて、プロレス界の前途に不安を抱かせる事件だった。一方、“燃える闘魂”猪木の死は、令和のリング内外に「ここまで頑張れるぞ!」というエネルギーを与えてくれた。対照的な死に様である。力道山と猪木という2人の濃密な師弟関係に思いを巡らせながら、これで昭和のプロレスが終わったのだとあらためて実感する。

 猪木がプロのマットに初めて上がったのは’60年9月30日の日本プロレス、同期のジャイアント馬場とともにデビューした東京・台東体育館での試合だった。その猪木の命日が1日違いの10月1日と聞くと、何とも切ない。

 私の番記者としての活動は、初の東京オリンピック大会取材終了後の’64年10月末からで、力道山亡きあとの日本プロレスの全盛期と重なる。ジャイアント馬場、アントニオ猪木とリアルタイムで過ごし、2人の切磋琢磨する姿、大活躍に元気印をもらって育った格闘技専門記者だ。猪木はいわば、地方巡業旅の同窓生。喧嘩もした仲間であり、いなくなればやはり寂しく、あのアゴの微笑みが妙に懐かしい。

 アントニオ猪木の代名詞となった「闘魂」──このキャッチコピーの出どころは、いったいどこだったのだろう。

「俺だよ!」と声を弾ませたのは、NETテレビ(現・テレビ朝日)の「ワールドプロレスリング」実況中継の元アナウンサー舟橋慶一氏だ。私と同じ昭和13年生まれ、気の合った仕事仲間であり酒友である。

 ’74年3月19日、東京・蔵前国技館。日本人選手同士の大物対決といわれた猪木vs.ストロング小林のNWF世界ヘビー級タイトル戦の放送から、舟橋氏の実況で盛んに使われるようになった。舟橋氏いわく、ヒントはテレビ放送の解説者だった東京スポーツの桜井康雄記者(ペンネーム・原康史)が書いたとされる猪木の自伝『燃えよ闘魂』からだったという。この舟橋アナウンサーからバトンを受けたのが、“プロレスの語り部”古舘伊知郎アナウンサー。先輩に負けじと「燃える闘魂」を連呼する。金曜夜の実況中継で猪木ワールドを展開してファンの共感を呼び、視聴率アップに貢献した。

 さて、それでは桜井氏の著書名にもなった「闘魂」のルーツは誰なのだろう。

 私が知っているのは、日本アマチュアレスリング協会の八田一朗会長だ。サインの色紙に「闘魂」と記していた筈だ。そして、もうひとりはプロレスの父・力道山だ。私は確認していないが、力道山もまた色紙に「闘魂」という言葉を書いていたという。

 ある日、地方巡業で「“燃える闘魂”という枕詞が気に入っているでしょ?」と猪木に問いかけたことがあった。

「語気が心強いね。悪くないよ、ウフッ!」

 猪木のアゴの笑顔が本人の満足度を物語っていた。

 精神性の表現「闘魂」と連動して、「ストロングスタイル」というファイトスタイルを表現するプロレス用語がある。対比されるのは、「ショーマンスタイル」という言葉。ファイトスタイルや団体の特色を対比しながら色々と報道したがるメディアにとっては、とても使い勝手の良い言葉だった。やがて猪木の新日本プロレスと馬場の全日本プロレスの興行合戦が激しくなるほど、新日本サイドが盛んに使い出した。

 テレビ解説で桜井記者がことさら猪木のストロングスタイルを強調すれば、舟橋アナウンサーがこれに呼応。ブラウン管からも全国的に浸透した目新しい用語だった。

 猪木の意を汲んで営業も現場もやる気がみなぎる。合言葉は「全日本に絶対負けるな!」だった。現場の責任者は“鬼軍曹”といわれた山本小鉄。前座の若手レスラーに「全日本をぶっ潰す気でやれ!」と地方巡業や上野毛の道場のトレーニングでも気合いを入れる徹底ぶりだった。

 しかし、独り歩きしたこの用語に違和感を覚えたのは、私だけではなかった。隣りの席の同僚の飯山和雄記者(後に全日本の広報)もその一人だった。

「これさ、桜井さんや新日本が勝手に使いだしたんじゃない? アメリカの雑誌なんかにこんな言葉、載っていないよ」という。

 そういえば、アメリカの専門誌『レスリングレビュー』、『レスリング・イラストレイテッド』、『リング』などをめくっていてもこんな用語に触れたことがない。

 これって……日本だけのことか……。深くは掘り下げなかった。

 でも、気になる。

 こんな疑問をアメリカのプロレスを熟知しているジャイアント馬場に直接聞いたことがあった。

「そんな言葉なんかないよ。聞いたこともない」

 と素っ気ない。質問自体迷惑だよ、といわんばかり。葉巻を吹かして、天井に向かって煙をプカリなのだ。

 全日本の試合は「ショーマンスタイル」で、自団体こそが「ストロングスタイル」だと吹聴する新日本の新間寿営業本部長。全日本は新日本の挑発行為に受け身一方の時期があった。

 私にいわせれば、新日本と全日本のリングは猪木と馬場のファイトスタイルが違うだけで、あとは大同小異、内容は一緒。猪木の新日本のファイトは和洋折衷のスタイル、馬場・全日本がアメリカンスタイルという色分けである。

 あれもプロレス、これもプロレス。プロレスは時代とともに変化する「生き物」だ。

 両団体が張り合った興行戦を振り返って考察すれば、全日本が反論しないと見越して目新しい戦略用語“ストロングスタイル”を巧みに利用した新日本が、上手くファン(観客)を洗脳し、全日本の営業を大いに苦しめた。

 そしてこの用語の裏付けには「強さの原点は道場にあり、稽古しない者は去れ」という“燃える闘魂”猪木の信念、猪木イズムの浸透があった。時代の流れを捉えることができたのは、タイミングよく若手コーチとして強さのシンボルである“レスリングの神様”カール・ゴッチが道場にいたからでもあった。

 フットワークのいい猪木の知恵袋、新間寿営業本部長のことだ。新聞か雑誌かで「ストロングスタイル」という文言を見つけたのか、東スポの桜井記者がヒントを与えたのかは不明だが、ゴッチという人的財産をバックに営業戦略を展開したと推察できる。

 この用語の出どころを徹底的に調べた人物がいる。プロレス史研究家の流智美氏だ。近著『新日本プロレス50年物語 第1巻 昭和黄金期』(ベースボール・マガジン社)の1‌9‌7‌3年の章のなかで、

「実は本場アメリカに、ストロングスタイルなどという単語は全く存在していなかった。(中略)古い『東京スポーツ』と『プロレス&ボクシング』(67年までは唯一の専門誌)を徹底的に調べたことがあった。その結果、バックナンバーが手元にないので号数は忘れたのだが、1‌9‌6‌0年(昭和35年)に発売された『プロレス&ボクシング』の中にこの表現を発見した。書いた人は日刊スポーツの鈴木庄一氏で、『力道山のやっていたプロレス』をそのように表現し、『オーバーなゼスチュアや華麗なガウン、マスクなどを売り物にするショーマン・スタイルのレスラーとは違う』みたいな内容になっていた」とある。

 そうか。出どころはこの道の先輩、鈴木さんだったのか……。ひと世代上の鈴木庄一氏はプロレス草創期、力道山一行に密着取材した番記者だ。力道山を「ヨイショ」するのも当然だろう。日本独自のプロレス土壌からの文言と知ってどうにか納得した。

 なぜ「闘魂」、「ストロングスタイル」というフレーズにこだわったのかは、これらが常々、アントニオ猪木が求めた「強さ」、「トップを極める」レスリング道に直結しているからだ。

 前出の八田一朗会長は、ことあるごとに「ロシアをやっつけろ!」と常にレスリング強国、ソ連(当時)を意識した。そして「アマが強くなれば、プロが繁栄する。プロが繁栄すれば、アマも強くなる」とレスリングの両輪説を説いた。

 それを体現したのは、ほかならぬ“燃える闘魂”猪木なのだ。

 ’89年、猪木がスポーツ平和党を結成して参議院選挙に出馬、初当選したその年の暮れ。新日本と米国の選手を引率して、ソ連のモスクワでプロレス初興行を行うという画期的な出来事があった。

 当時、ソ連はペレストロイカ(改革)の前夜。国家スポーツ委員会と掛け合い、アマレスのトップ選手をプロ転向させる道筋をつけた“スポーツ外交”の手腕は、’90年12月のイラク人質解放、イランの「平和の祭典」、’95年の北朝鮮での「平和のための平壌国際体育・文化祝典」の大成功という驚異の実行力につながってくる。

 私にとってもフリーになって初めて自費での海外取材で、“燃える闘魂”猪木の国会議員になっての初試合をこの目で見た。’90年の新年をモスクワで迎えた夜明けは忘れられない。

「闘魂」なる言葉を発した師・力道山はプロレスの道を極める鬼だった。プロレスの黎明期、大型の外国人レスラーに阿修羅の如く襲いかかる姿は、まさに鬼神。これこそ日本におけるストロングスタイル(正統派)の先駆者であり、ショーマンスタイルを嫌ったカール・ゴッチとの共通点はここにある。

 そのゴッチは、妥協を許さぬガチガチのレスリングを求める鬼だった。ゴッチは指導者として超一流であり、むしろレスリング自体の神様は“鉄人”ルー・テーズだったろう。いずれにせよ猪木は最高の指導者に出会った。ゴッチとの触れ合いがあったからレスリング道を極められた。

 猪木は力道山とゴッチ、2人の師によって「闘魂」という大輪を咲かせたが、2人を合わせ鏡に指導者としても多くの後継者を育てた。いわゆる新日本の上野毛の道場から巣立ったレスラーは“燃える闘魂”の遺伝子たちであり、いまや国内のリングばかりでなく海外でも大活躍である。猪木の人脈、影響力は、ライバルだったジャイアント馬場とは比較にならない。その根拠は、現在の同じ創立50周年を見た時に、新日本プロレスの繁栄と比べて全日本プロレスが後れをとっているという現実である。

“燃える闘魂”の強い遺志を継ぐのは、一番弟子のドラゴン藤波辰爾(68)だ。2‌0‌2‌2年12月1日、東京・国立代々木競技場第二体育館でデビュー50周年の記念大会を開く。この歳でなお現役は称賛に値する。

 あの金曜午後8時のブラウン管を飾った人気選手はキラ星の如くいる。藤波と覇権を争った長州力。自身の引退試合で“人類最強”といわれたレスリング五輪3連覇のアレキサンダー・カレリン(ソ連)と戦った前田日明。“闘魂三銃士”で名を売った武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也。軽量級のマットを席捲した初代タイガーマスク(佐山聡)、“柔道王”小川直也、最後の弟子・中邑真輔は現在、米国のメジャー団体WWEで大活躍である。

 新日本の道場から巣立ち、独立、分派して育った選手は数知れない。猪木イズムに影響感化されたストロングスタイルのプロレスは、未来に光を放射する人間ブリッジだ。

 この原稿の執筆中、猪木のメッセージである詩「道」がプリントされたクッションを外すことができなかった。

   道

 この道を行けば
    どうなるものか
 危ぶむなかれ
    危ぶめば道はなし
 踏み出せば
    その一足が道となり
    その一足が道となる
 迷わず行けよ
    行けば分かるさ
              アントニオ猪木

 79歳で生涯を閉じたアントニオ猪木の追悼興行として新春2‌0‌2‌3年1月4日、恒例の新日本プロレス・東京ドーム大会の「~闘魂よ、永遠に~」開催が決まった。さる10月10日、東京・両国国技館大会で「猪木さん、バカヤロー!」と涙ながらに叫んだオカダ・カズチカ。ドームでIWGP世界ヘビー級のチャンピオンベルトを巻いた姿で『道』の詩を朗読したら、新日本創設者への最高の供養になる。そう願っている。

 新米が出回る季節だ。巡業先の新潟・岩室温泉でご馳走になったちゃんこ鍋と越乃寒梅は舌がとろけるほど旨かった。「アントンさん、ありがとう!」──。

 私のプロレスのお師匠さんは名レフェリーといわれたジョー樋口さん。「モン、ホラは許せるが、嘘はダメだぞ。自分の見てきたことだけ書けよ!」

 この金言をルールに現場一筋60年。眩しかった昭和プロレスを伝えるアンカーとして、“燃える闘魂”アントニオ猪木の実像に迫ったつもりである。

   2‌0‌2‌2年初冬


「まえがき」より

文春新書
アントニオ猪木 闘魂の遺伝子
門馬忠雄

定価:1,045円(税込)発売日:2022年12月16日

電子書籍
アントニオ猪木 闘魂の遺伝子
門馬忠雄

発売日:2022年12月16日

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