- 2023.04.10
- 書評
動物小説の範疇を超え、新しい小説として普遍性を獲得した直木賞受賞作
文:北方 謙三 (作家)
『少年と犬』(馳 星周)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
そして、『老人と犬』があった。死期を迎えた老人のところに、犬が現われる。再生ではない。滅びなのだ。それが諦念とともに静かに進行して、老人の私は身につまされた。死に方はいくらか劇的だが、死はすんなりと老人の心に入ってくる。そして犬は、老人の頬を舐めるのである。それはもう、犬の舌が、生きることの意味を表象していた、と私は思うしかなく、かなり遅れて、小説の感興がこみあげてきた。
この短篇集は、ひとりひとりの人生の側面を描きながら、常にそこに犬が介在しているという、二重の構造を持ち、描き出された人生のひとつひとつを、印象的で鮮やかなものにしている。
最後が、『少年と犬』である。
以前、私はいくらか不思議な体験をしたことがある。大学生のころ、雑種の犬を飼っていた。二年ほど兄弟のようだったが、私はある事情で家へ帰らなくなった。ふた月ほど経った時、用事で家に電話をした。三日前に、犬がいなくなったと知らされた。私が家へ帰ったのは、それから十日後だった。
深夜、駅から歩いて帰った。路上に、いやなものを見た。轢き潰された、犬の屍体であった。そして私の眼は、一点に釘付けになった。尻尾に、見紛いようがない特徴があったのだ。私は飛行機の尾翼と呼んでいたが、直角に近く曲がった尻尾である。それだけが潰されず、路面に立っていたのである。何度も轢かれたらしく、板そのものだった。私はそれをなんとか路面から剥がし、持ち帰って庭に埋めた。
帰らない私を二カ月待ち、我慢できなくなって捜しに出て道に迷い、帰るとわかって家の近くまで来て、轢かれた。ドジ踏んじまったよ。俺だってわかるように、尻尾だけ立てといたからよ。
そんなことが、あるはずはない。私にわかるのは、自分の犬だった、ということだけである。あとは偶然にすぎないだろう。
ほんとうに、偶然なのか。『少年と犬』を読みながら、私はそればかりを思い返し続けていた。
小説は、短篇連作として、ここで見事に結末を迎える。読者にとっては、五年かけて旅をし、六人の人生のある局面を身に帯びた、多聞が現われるのである。どういうことが起きるのか、およその見当はつこうというものだ。しかし私は、読みながら落ち着きを失っていった。
犬が、いや動物というものが持つ力を、私はなんとなくだが信じている。人間には、理解はできないものだろう、とも思っている。
その不可解なものが、少しずつ小説の文章になっていく。それはできないという思いと、なにか近づいてくるという感覚が、交錯する。
犬の持つ力を、人間が理解できるわけがない。しかし、感じることはできる。その感じを、小説として描出することもできる。
そう思いながら、読了した。
全篇に登場する多聞は、果しているのだろうか。人と触れ合う時の多聞は、間違いなく存在している。毛並み、よく動く尻尾、仕草、そして眼ざし。ほんとうに、多聞はそこにいる。
しかしどこか、幻と見えないこともない。人生でなにかを抱えた人間が、思いをこらし、それを別のものに仮託した。小説では、それが犬の姿として描かれている。
そう読むと、この小説は深い。凡百の動物小説とは違う、複雑な小説性を持っているのだ。ノアール小説から出発した作者の、これまでの軌跡さえ、読み取ろうとする者が出てくるのではないか。
作者自身にとっても、この作品がひとつの転換局面になったのではないだろうか。ここでもう一度、大きく変貌していく、という予感が私にはある。変貌を遂げる時の小説は、なぜかやさしく、そして色濃く作者の気配を感じるものである。
これは、直木賞受賞作となった。
それにしても、作者は、犬の力をどこまで信じているのだろうか。長い長い人間と犬の歴史の中で、生まれてきてしまったなにか。人と犬の間を象徴する姿として、作者は多聞を書きあげている。
完全に理解しなくても、書くことはできる。なぜなら、作家は描写という力を持っているからだ。この短篇集、および連作短篇集は、その描写によって生まれたものである。
動物小説という範疇を軽く超え、新しい小説としての普遍性を獲得したものになった、と私は思った。
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