外を散歩している。「青空」が広がっていて、「風」が心地いい。「公園」の中に「芝生」が広がっている。「口」を使って呼吸をし、「足」を動かして歩き、「手」を使って水筒の「水」を飲む。生まれた時から、当たり前に名付けられていたものたちに囲まれ、違和感のない「日常」を過ごしている。
けれど、その裏側には言葉が与えられていない感情、光景、肉体、感覚、物質、意識たちの世界が静かに、けれど確実に存在している。私たちはその世界を見逃しているようで、無意識では確実に嗅ぎ取っていて、それらの存在は消去されるわけでも発見されるわけでもないまま、言語化されている世界の裏側にじっとあり続けている。
「木になった亜沙」が雑誌に掲載されたとき、初読した私を衝撃と安堵が包んだ。それは私にとって馴染みのある、いつもそばにあった、懐かしい未知だった。「不思議な物語」と形容して終わらせることができない、身近で切実な感触だった。名前のない記憶が疼き、体の中で咲き始め、今まで「見えていた」光景が裏返しになっていき、無意識が知覚していた世界が声を上げ始める。私にとってはそういう意味を持った特殊な物語だった。
今村夏子という作家を、特別に大切に思っている。彼女の小説の言葉でしか触れることができない「部分」が世界に、自分の中に、たくさん存在していて、自分がどこかでそれらをとても大切に感じていることを思い出す。言語が、物語が、その「部分」に触れたとき、驚きと安堵が融合した、静かな震えのような感覚に包まれる。それは「奇妙」「不思議」という言葉では足りない喜びを読み手である自分に与える。
この本には三つの短編とエッセイが収録されている。あらすじだけを読むと、それはもしかしたら読み手とは遠い場所に広がる「不思議な物語」に感じられるかもしれない。けれど、どの物語を読んでも、それは自分と切実に繋がった物語で、奇妙な懐かしさに胸を打たれる。これらの物語が、日本語という言葉で紡がれて、その言語がインクという液体によって紙に染み込み、文章が並んで印字された紙が重なり合い、綴じられて本になり、本屋に並べられ、そのうちの一冊が読者の手で運ばれて家にやってくる。そのこと自体が寓話のように感じられ、ずっと探していた大切な物語だと思える。そんなふうな感覚を抱くのは、この作者の作品たちが、読み手を安全な場所から連れ出し、ずっと知っていた未知の世界と接続させてくれる、特殊な力を持っているからだと感じている。
この「解説」という、本の後ろのほうに設置された奇妙な場所に、この特別な作品の著者ではない人間が作者の物語の概要を書き記すことは無粋なことだと感じる。もしうっかりこのページを先に開いてしまった方がいたら、どうか一旦本を閉じ、深呼吸をして、最初のページを開き、この本に収録されている作品たちを全身で存分に味わってほしいと思う。ある種の素晴らしい作品は、読者にとって「自分の物語」となる力を持っている。著者の作品は、特にそういう魔力があると感じる。作品たちを読み終えたとき、もしかしたら読み手は他者の言葉など欲していないかもしれない。そのときは、ここに書いてある言葉を読む必要はない。ゆっくりと本を閉じて、著者の紡いだ言葉だけを噛み締めてほしい。読書が自由であることは当たり前のことなのに、わざわざここにこんな文章を書くのは、私自身にとって、著者の作品はいつも自分だけのひっそりとした奇跡だからだ。だから、他の読み手の奇跡の邪魔をしたくはない。そう願わずにはいられない力が、この本には宿っているのだ。
この本の最初に収録されている「木になった亜沙」は、自分の手から食べ物を食べてもらえない人生を送っていた亜沙の物語だ。やがて亜沙は本当に木になり、割り箸になる。割り箸の亜沙はある若者と出会い、ついに彼女が差し出した食べ物を食べてもらう。
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