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文化は時にひとを救うが、時にひとを殺す

文化は時にひとを救うが、時にひとを殺す

文:磯部 涼 (ライター)

『万事快調〈オール・グリーンズ〉』(波木 銅)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

『万事快調〈オール・グリーンズ〉』(波木 銅)

「あ、思いついた」

 朴は右手の指を擦り合わせて音を鳴らそうとしたが、そこそこ寒い外気のせいで手がかじかみ、ままならなかったらしい。パスッ、と気の抜けた摩擦音だけが聞こえる。

「オール・グリーンズ。ジ・オール・グリーンズ」

 オール・グリーンズ。矢口と岩隈は口々に、若干小馬鹿にした口調でその造語を口にした。

「マリファナって隠語で『(みどり)』って言ったりすんのね。日本語のラップとかレゲエとかで。そのグリーンと、システム・オール・グリーン。つまり、万事快調ってこと」

 ネーミングの意味を自分で解説すんの、ちょっと恥ずかしいけど。

万事快調(オール・グリーンズ)』の主人公=朴秀美(ぼくひでみ)は、矢口美流紅(やぐちみるく)岩隈真子(いわくままこ)という、曰く“田舎の底辺工業高校”における数少ない女子同級生と共に部室棟の屋上で放置されていたビニールハウスで始めた大麻栽培プロジェクトのチーム名を、そう命名する。

 朴が説明するように“グリーン”はマリファナを意味する隠語のひとつで、一方、“オール・グリーン”は軍事用語。システムが全て正しく作動することを意味し、日本では『エヴァンゲリオン』シリーズのようなロボットアニメでも度々使われてきたそうだ。ちなみに、本作の時代設定はアメリカのラッパー=マック・ミラーがオーヴァー・ドーズで死亡した年―つまり二〇一八年だが、同じ年に日本ではDJ RYOW feat. 唾奇「All Green」という、離別した旧友に捧げたラップ・ソングが発表されているので、ひょっとしたら〈ニューロマンサー〉というラッパー・ネームを持つ朴はその楽曲を耳にしていたのかもしれない。

 そして“万事快調”は、それまで同じクラスにいてもいわゆるスクール・カーストが異なっていた朴と矢口がひょんなことから打ち解け、観に行くことになった、一九七二年、ジャン=リュック・ゴダールが〈ジガ・ヴェルトフ集団〉名義で制作した映画の邦題だ。鑑賞後、釈然としない朴に対して、彼女を誘った矢口が「このころのゴダールは商業映画と決別してるから、パッと見面白くないのは当たり前でさ……」と弁明した通り、“万事快調”というタイトルに反した前衛的な風刺劇である。もしくは、ピチカート・ファイヴがそれを引用した一九九二年の楽曲を連想するひとも多いかもしれないが、同曲のポップさもまた何処(どこ)か不穏な雰囲気を(はら)んでいる。実際、順調にスタートした朴/矢口/岩隈の〈オール・グリーンズ〉のプロジェクトも、この後、「万事快調ってわけにはいかないみたいね」という現実を突きつけられるわけだ。

 さて、朴自身が恥ずかしがっているにもかかわらず、冒頭から長々とタイトル=『万事快調(オール・グリーンズ)』の元ネタを解説するなどという恥の上塗りをしてきたわけだが、それも仕方がないことに、本作は、ある種の文化に愛着を持つ人間のツボをくすぐってくるような膨大な作品名やアーティスト名で溢れている(ここまでの文章、口頭だったらオタク特有の早口で(まく)したてていることだろう)。マーガレット・アトウッド『侍女の物語』、『グランド・セフト・オート』、『フォートナイト』、米津玄師、大島弓子『綿の国星』、岡崎京子『リバーズ・エッジ』、スタンリー・キューブリック『時計じかけのオレンジ』、フィリップ・K・ディック『ユービック』、タイラー・ザ・クリエイター、ニトロ・マイクロフォン・アンダーグラウンド……。ただ、それらの固有名詞は単なる記号ではなく、物語の構造と複雑に絡み合っているので、この解説にも少しは意味があるのかもしれない。

 例えば、前述のピチカート・ファイヴという一九八四年に結成、二〇〇一年に解散した、いわゆる〈渋谷系〉の中核と位置付けられる音楽グループは、膨大な引用でもって楽曲やアートワークをつくり出したが、その背景には八〇年代から九〇年代にかけて消費のテーマパークと化していた“渋谷”という空間に象徴される豊かさ(故の(むな)しさ)がある。

 一方で、〈オール・グリーンズ〉の活動拠点となっているのは、二〇一八年の茨城県那珂郡(なかぐん)東海村。一九九九年に核燃料加工施設が臨界事故を起こしたことで悪名高くなったこの土地は、物語ではとにかく何もない土地として描かれる。古びたボウリング場の〈テラヤマボウル〉がほとんど唯一の娯楽施設であり、二駅離れた町に出来たばかりでひとがひしめいている〈スターバックス・コーヒー〉は、「この地域ではまだスタバが物珍しいもののひとつなのだ。北関東、とくに茨城の北部はまだ文明が未開であり、火が発明されたのも去年のことだ」と解説される。

 何もないだけではない。その空白では社会の負の部分が凝縮されている。朴の父親は子供たちに(しつけ)と称した暴力をふるい、弟は同級生から酷いいじめを受けてひきこもっている。そんな朴は物語の冒頭、ベンチで眠りこける、血だらけの服を着た女性と、彼女に抱かれた子供に遭遇する。怖気(おじけ)付いて親子を起こすことが出来なかった朴は、その後、夫を刺殺して、子供と逃げていた妻が拘束されたニュースを知る。そんな朴は〈ニューロマンサー〉というラッパー・ネーム(説明するまでもなく、これもウィリアム・ギブスンの小説のタイトルからの引用だ)を名乗り、東海駅近くの公園で行われている〈東海村サイファー〉(“サイファー”とは、輪になってフリースタイル=即興のラップをリレー形式で行うこと)に参加している。そこでは誰も〈ニューロマンサー〉の本名は知らず、朴もまた仲間たちの本名は知らない。彼らはそこで現実から解放されているわけだが、朴はそのサイファーの主催者がブッキングしてくれた初めてのレコーディングで地獄を見ることになる。しかしその場で彼女は大麻栽培プロジェクトという、閉塞的な“村”から抜け出すためのもうひとつのチャンスを掴む。

 朴にとってのラップ・ミュージック、矢口にとっての映画、岩隈にとっての漫画……あるいは本作にちりばめられた膨大な引用は、このクソな現実とは別の世界へと続く扉の鍵である。ただ、その鍵は無数にあり、間違った扉を開けてしまえば、更なる地獄が待っている。むしろ、諦めて“村”で生きていった方が幸せだったのかもしれないと思うほどの。文化は時にひとを救うが、時にひとを殺す。

万事快調(オール・グリーンズ)』を読みながら思い出したのは、二〇一六年に取材で本書の舞台と同じ茨城県の土浦市を訪れた際のことだった。ちょうど台風にぶつかってしまい、酷い暴風雨の中、車で取材場所に指定された人気のない風俗街にある居酒屋にようやく辿(たど)り着くと、出迎えてくれたのは全身を―顔さえも―タトゥーで彩った青年。彼はその夜、訥々(とつとつ)と、しかし詳細にそれまでの人生について語ってくれた。少年時代、母親は夜の仕事をしていたのでいつも家にいなかったこと。父親には暴力を振るわれていたこと。家にいたくないので、あてもなく繁華街を徘徊しては、喧嘩に巻き込まれていたこと。そんなある夜、ふと入ったクラブで観たラッパーのライヴに衝撃を受けたこと。自分もやってみたいが、やり方が分からず、インストゥルメンタルのビート(ラップが乗っていないトラック)が入ったCDを万引きして、それに乗せてひたすら練習を繰り返したこと……。数年後、青年が取材時も一緒にいたパートナー―やはりタトゥーだらけの女性―と結成したユニット〈ゆるふわギャング〉のサイケデリックなサウンドを聴き、その後の成功を見て、彼は別の世界へ抜け出せたのだと思った。

万事快調(オール・グリーンズ)』はエンターテインメントとしても優れているが、決して絵空事ではないのだ。この物語もまた読者にとって、そのひとなりの鍵になる可能性を持っているだろう。

文春文庫
万事快調〈オール・グリーンズ〉
波木銅

定価:902円(税込)発売日:2023年06月07日

電子書籍
万事快調〈オール・グリーンズ〉
波木銅

発売日:2023年06月07日

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