〇〇バカ大集合ものが大好き。例えば、「特攻野郎Aチーム」とか「オーシャンズ11」とか「七人の侍」とか。一芸に秀でた、でもそれ以外はダメな人たちが集まって、チームとなった時にすごい力を発揮する、ってやっぱりロマンだと思うのです。
なので、この「二百十番館にようこそ」もそういうお話かしら、と思いながら読んだら……あれ、ちょっと違う。確かに【BJ】さんは元産婦人科医という経歴はあるけれど、でもそれ以外のみんなは、完璧でないどころか、むしろ足りているところが一つもないのでは……?
だけど、〇〇バカですらない普通のみんなががんばるさま、そして最終的にこの四人じゃなきゃだめなチームになっていくさまは、とても楽しかった。わたしが好きなのは、天才でも天才でなくても、歪な形を集め、へっこんでいるところやとんがっているところを合わせて、一つの形になっていくことなのかもしれない。
おそらく、この本を読んでいる殆どの人は、コンピュータやゲームの中でもう一人の自分に出会ったり、違う人生を歩んだ経験がある世代だと思います。
ファミコンが発売されたのが一九八三年。一九八六年にドラゴンクエスト、そして翌年に女神転生やファイナルファンタジーが発売になりました。
ロールプレイングゲーム、つまり仮想のゲームの中で別の自分になるゲームに、わたしも夢中になった一人。わずか六四KB、粗いドットで描かれただけの世界。でもドットの隙間を想像力で補えば、現実以上に色鮮やかで広い世界がそこにはありました。
二〇〇〇年代に入ってからはオンラインRPGが普及。わたしが最初にはまったMORPG(マルチプレイヤー・オンライン・ロールプレイングゲーム)はファンタシースターオンライン。
寝食を忘れるとはこのこと! お仕事から帰ってきては毎晩ログインし、夜中二時三時まで夢中で潜ってクエストをこなす。SF的な設定、キャラメイキングの自由度、適度な難易度。でも何より夢中になったのは、誰かと一緒にプレイする楽しさ。同じダンジョンに何度潜っても、その度に違う経験ができる。そして自分ではない誰かになれる開放感。壊滅的に運動神経がないわたしでも、ゲームの中でなら凄腕のハンターにも可愛い魔法使いにも、遠距離武器の的中率抜群のアンドロイドにもなれる。性別も年齢も国籍も関係ない。
また明日の夜ね、と別れて、昼間の世界を生きて、夜になると別の世界に行く。
数ヶ月はまって、激やせ。あ、これはまずい、と思って、心を鬼にしてプレイ時間を制限し(自由業の大人って歯止めが利かなくてダメですね)、なんとか日常に復帰しました。
モンハンにはまった時は、数十人規模で丸一日狩り会を開催。イングレスでは、今見ている世界に別世界がレイヤーで重なる視点の変換に夢中になりました。コロナ禍で外出できない時は、外に行く代わりに、どうぶつの森がわたしのもう一つの世界。
孤独になりたくてゲームをする人はいません。少なくともわたしにとっては、ゲームはいつもコミュニケーションがあるからこそ楽しいものでした。
誰かと繋がりたかったり、自分ではない誰かになれる自由が欲しかったり、ままならない人生から少しだけ離れてみたかったり。
先日読んだ心理学の本に、『自傷的自己愛』という言葉がありました。自分自身の愛し方がわからなくなってしまい、自分のダメなところは自分が一番わかっていると捻れた自己愛を持ってしまうこと。「こうありたい」という気持ち=プライドと、今の自分に対する肯定的感情=自信のアンバランスさに身動きがとれなくなり、瘡蓋(かさぶた)を剥がすように自分自身を傷つけ続ける中で、【刹那】たちは、自分の認め方、愛し方がわからなくなってしまった。だけどオンラインゲームの中でなら、居場所があるし役割がある。
エンドレスストーリー(ES)の中で違う自分になって、違う人生を生き直すことで少しずつ立ち直っていく。
だけど最後の一歩は、やっぱり自分自身に戻ってこないといけない。
「ゲームでなら、頼れるアニキにも、面倒見のいいすごくいい人にも俺はなれる。だが、現実に目の前にいるこいつに対して、どうしていいか、わからない」
これは、島に来たばかりのヒロに【刹那】がESの手ほどきをした時の言葉。ゲームの中で意外な積極性と陽キャラっぷりを発揮したヒロから、思わぬ打ち明け話をされるけれど、【刹那】はどうしたらいいのかわからない。
目の前にいる人と向き合うこと。
今、ここにある問題に逃げずに立ち向かうこと。
自分自身のいいところもだめなところも受け止めること。
島の中で起きる様々なトラブルや人間関係に翻弄されて、もがきながら何とか解決しよう、前に進もうとする。だけど、そこにはちゃんとゲームの中で学んだことが反映されていたりする。
この現実とゲームの中を行き来しながら、みんなが自分の愛し方をもう一度学んでいく過程がとても好きでした。井戸に呼び水が必要なように、誰かが自分を愛してくれていることがわかったら、自分だって自分のことを愛せるようになるかもしれない。
友人や家族、そして島の人たち、それからチャット。色々な人(や猫)から小さな愛の欠片を受け取って、歪な二百十番館の住人たちの経験値が上がっていく。
カセットやソフト、物理的に容量制限のあるゲームと違ってMORPGの物語には終わりがない(まぁ、いつかサービス終了は来るけれど)。そこに人がいる限り、無限に新しい物語が生み出される。
もうこれって人生じゃん。
総務省によれば、二〇二一年の情報通信機器の世帯保有率は「モバイル端末全体」で九七・三%だそう。わたしはSFが好きで、テクノロジーオプティミストなので、きっとゲームだってバーチャルだって、本を読んだり、音楽を聴くのと同じように、わたしたちの人生を豊かにしてくれると信じています。
バーチャルとリアル、どちらもわたしたちの生きている世界だもの。
作者の加納朋子さんについて少し。
福岡県出身、一九九二年に「ななつのこ」で鮎川哲也賞を受賞してデビュー。日常の謎を中心としたミステリを数多く書かれています。
インタビューで加納さんは、地下鉄サリン事件にニアミスし、「日常はあっけなく壊れてしまうものかもしれない、だからこそ貴重なんだと強く感じ」たと語っています。
その日常が壊れてしまったとき、【刹那】はゲームの中に逃げこんだ。
「薬の飲み方と一緒で、“逃避”にも良し悪しがありますよね。引きこもってゲームばかりしていた主人公は、完全に悪い逃げ方をしていました。そのせいで崖っぷちに追い詰められてしまったわけですが、もちろん彼がオンラインゲームに逃げ場を見つけてなかったら、もっと早く、彼自身が壊れてしまっていたかもしれませんね。」
逃げる場所があるなら逃げこんでいい。ゲームの中だって、小さな島の温かな人間関係だって、シェルターだ。
「現代の若い方を見ていると、追い詰められた、もう終わりだ、となってしまうケースがあまりにも多いような気がしていて、そこは特に若い世代に伝えたいと考えて、以前から作品には盛り込むようにしています。もしかすると後ろ向きな解決だと思われるかもしれないですけど、現実的に起きていることを救うとすればありではないか、少なくとも選択肢の一つにはしてもらいたいと思っています。」
加納さんの小説を読んで、選択肢が一つ増える人がいるかもしれない。遠回りでも、世間的に正解でなくとも、自分の答えに辿り着ける人が一人でも増えますように。
できたら続編が読みたい。
まだまだみんなの人生は途中。もう少し、みんなのこれからを見ていたい。
例えば、すっかりこの島に馴染んだ【刹那】たちが、おじいちゃんおばあちゃんにESを手ほどきして、歴戦のニュービーが爆誕するお話とか。新しい住民でとうとう女子が来ちゃうお話とか(そしてサトシがキャラ変する)。チャットのお見合い話とか。二百十番館に起きる怪奇現象とか。【BJ】さんの島おこしラーメン開発記とか。貝毒の超有望若手研究者となったヒロ(あだ名はさかなクンならぬ、かいどクン)の学会発表をみんなでサポートする話とか。【刹那】が調理師免許を取って郵便局カフェを開いてお客さんが殺到するお話とか、読みたいです。
いつかまた、この島に戻ってこられますように。
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