月光
緩い上り坂の先に大きな月が出ている。
春だというのに滲んだところがない。
ネットのニュースによれば、感染症の流行で、世界中の人が家に引きこもり、車や飛行機が止まった結果、水や空気が澄み、遠くの山々がくっきりと見えるようになったらしい。立ち止まって、写真を撮ろうとスマホを向けた。けれど、画面で見る月は小さく、黒い紙にパンチで穴を開けたようにしか見えない。
写真を諦め、スマホを下げると、空色のジャンパーを着た香川さんが少し先で待っているのが目に入った。身体が小さくベリーショートの香川さんはああいうスポーティな格好をしていると少年のようにも、少女のようにも見える。なんでも昔、がん治療をしていた時に、背骨に転移したがん細胞が分子標的薬で急速に消えたため、健全な骨の形成が追いつかず、十センチちかく身長が縮んでしまったのだそうだ。おかげで、「昔はサトちゃんより大きかったのに」というぼやきを何度も聞かされた。
ナイロン製のトレーニングパンツをシャカシャカいわせて駆け寄ると、水色の小さい水筒を差し出された。ハンカチを折りたたんでゴム紐を通しただけの即席マスクを外し、水筒のふちに口をつけないようにして飲む。
散歩に行こうと香川さんに誘われたのは、夕食後、自分の部屋に戻ってパソコンを眺めている時だった。退屈しきっていたので、待ってましたとばかりに提案に飛びついたけれど、エレベーターに乗ったところで、急に不安になった。
「だけど怒られないかな」
「誰に」と香川さんが鼻で笑う。
「だってガラス割られた店あったじゃん」
海外のような完全なロックダウンではなく、自粛の要請というふんわりした対策が取られたおかげで、こうして自由に外に出られる。それはいいのだけれど、命令ではなく要請だから、経済的な補償はされず、かといって実質的には、要請に従わない自由があるというわけでもなく、誰もが、不安や不満でパンパンになっている。SNSには、陰謀論やデマが溢れ、リアルでは、トイレットペーパーや食品が売り場から姿を消し、営業を続ける店に対する私的制裁も起きていた。そうした殺伐とした空気にうんざりしながらも、家族や友だちを感染症で亡くした人たちの言葉は圧倒的に重く、がんのサバイバーである香川さんはもちろん、私自身も、五十歳近くなり、風邪を引くたびに喘息の症状が出るようになっていて、感染しないようピリピリせずにもいられなかった。
「人に接触しなけりゃいいんでしょ」
香川さんはなにも気にしていない様子で、さっさとエレベーターを降りる。
「そりゃそうだけど、女二人だしさあ」
ぶつぶつ言っていたら、香川さんがくるっと振り向いた。
「こういう時はちゃんと見とかなくちゃ」
その理屈が母と同じで、内心苦笑いする。
母は半島や岬に行ったら必ず先端まで見に行く人だった。ものごとはみんな、近づけば近づくほどわからなくなるもんだ、というのが口癖で、わかっていると思っているときは、遠くから眺めているだけだったりするのよ、とよく言われた。
九年前に大震災による原発事故が起きた時にも、母に言われて、今はもう手放してしまったオンボロの中古車で夜の東京をドライブした。首都高からレインボーブリッジを渡って、お台場辺りまで行ったような気がする。あれは事故の何日後だったんだろう。さすがに計画停電中ではなかったはずだが、節電のために町中が明かりを落としていて、レインボーブリッジから見える夜景がまるで廃墟のようだったのを覚えている。
「そうだね、わかった」
そう香川さんに答えながらマンションのガラス扉を押し、外に出た。
思っていたよりも街は静かで、家々の灯りはいつもと変わりない。SNSから伝わってくるピリピリとした苛立ちが嘘のようで、それなのに、いつ誰に怒られるかわからないという緊張は解けなかった。
ふと、子どもの頃、母に連れられていった旅行を思い出す。
山の中の小さい集落を抜ける細い坂道を歩いていた。道ばたに木の杖が何本か置かれていて、「ご自由にお使いください」と書いてある。母がそこから一本を取ったのを見て、私も私も、とせがんだ。母から渡された杖は、つやつやして、軽く、なにかに当たると乾いたいい音がした。楽しくなった私は、その杖であちこち突いたり、叩いたりして、笑い声を上げた。すると、突然、道沿いに建った人家の窓ががらりと開いて、誰かが怒鳴った。年配の男性を思わせる声だった。なんと言われたのかは覚えていない。たぶん、うるさいとか、おもちゃじゃないんだぞ、とか、そんなことだったと思う。すみません、と母が謝ると、その人はバチンと音を立てて窓を閉めた。
杖は坂を上ったところで返せばいいよ、と母が耳元でささやいた。でも、それを持っているだけでまた怒鳴られそうで、母に杖を押しつけ、下を向いて、早足に歩き出した。早くその場を離れたかった。
そういうことは、度々あった。当時、母と二人で住んでいたアパートの階下の人が子ども嫌いで、ちょっと飛び跳ねるだけで、どん、と天井を突いてきた。
もうすぐ五十になろうという年になって、仕事でもプライベートでも、気が付けば、自分が最年長ということも増えた。なのに、いまだに、突然どこかから怒鳴られるのではないかと怯える気持ちがなくならない。
住宅街を抜けて、急な坂を下り、隣の駅のロータリーに出た。
いつも賑わっている駅前も、人影まばらで、まるで終電が終わった後みたいだ。
都電の線路沿いに植えられたバラを見ながら、坂を上る。もうだいぶつぼみが膨らんでいる。すでに花が咲いている株もあり、あとひと月もすると見頃になりそうだ。バラの花を写していたら香川さんが私を呼んだ。線路の向こう側に並ぶ、飲み屋の看板が軒並み消されている。光を失った光景に、香川さんがスマホのカメラを向ける。さすがにライターだけあるなあと感心しつつ、その香川さんを写真に収める。
「しばらくここに住まわせてくれない?」
去年の暮れ、忘年会をしようということになって、二人でチゲ鍋を食べている時に香川さんからそう言われた。住んでいたアパートが老朽化で取り壊されてしまい、友だちの家に居候させてもらっていたが、その友だちが転勤することになった。引っ越し先を探さないといけないけれど、二年以内に父親のいる大阪に帰るつもりなので、その期間だけ私の家に転がり込ませてほしい、ということだった。
近いうちに地元に帰るつもりだなんて聞いていなかったので、まずはそのことにうろたえた。四十になる直前に乳がんになった香川さんは、もう十年以上がんと共存していて、いつかまた残ったがんが暴れ出す可能性を抱えていた。主治医がいる病院も関西にあるので、今後も治療が続くことを思えば、地元に帰るという選択も当然ありうるのだけれど、仕事の拠点まで移すとなると、治療の最終段階なのかと思わずにもいられなかった。とはいえ、香川さんは心配されるのが嫌いだし、不吉なことを口にするのも憚られる。それで、ただ笑い返して、親を看取ったら帰ってくるよ、という香川さんの言葉をそのまま信じることにした。
香川さんの申し出は私にとってもいい話だった。母が他界したときに、ずっとうちにいてくれたので、なんとなく、一緒に暮らせそうな気はしたし、期間限定なら、気も楽だ。第一、祖母が他界した後、母と二人で買ったこの古いマンションは、一人で住むには少し広すぎた。ローンはもうないものの、管理費に加え、メンテナンス費用や光熱費など、月々の出費もそれなりにあり、家賃を入れてくれるのはありがたい。
香川さんが引っ越して来たのは、年が明けて、一月の中頃になってからだった。
あの頃、コロナの感染者は既に出ていたのに、多くの人はまだ、日本は大丈夫だと、根拠のない楽観のなかにいた。
昼過ぎに赤帽の小さいトラックで香川さんが到着すると、二時間程度であっけなく引っ越しは終わってしまった。荷物はそれほどなかった。大きな家具はほとんど捨てるか、実家に送るかしたらしい。香川さんには玄関に入ってすぐの母の部屋を使ってもらうことにした。母の荷物がまだかなり残っていたけれどしかたない。片付けが一段落して、部屋を覗くと、香川さんがシーツの掛かっていないベッドに腰掛けて、部屋を満足そうに眺めているのが見えた。母に肺がんが見つかり、容体がいよいよ悪くなってから、香川さんがよくうちに来てくれて、ベッドの脇に座り、母と話し込んでいたのを思い出す。最初、母に香川さんを紹介した時は、ここまで二人が親しくなると思っていなかった。いや、そうでもないかもしれない。抗がん剤だけで、十年以上がんと共存しながら、それまでと同じように、ライターの仕事を続け、海外を旅行し、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んで楽しげに暮らす香川さんの生き方は、物書きである母の価値観に合っていたし、それに、そもそも香川さんは母の書くものをよく読んでいた。母は自分の作品を褒めてくれる人を無条件に信用する傾向があって、香川さんのことは最初から気に入っていたのだ。
母は病気のことを仕事で会う人たちにも伝えていなかったし、古い友だちにも会いたがらなかった。転移が進み、いよいよ体調が悪くなってきても、まだ使える抗がん剤があると言われていたから、まだまだ治療をするつもりでいたせいもある。でも、最後の最後、あと一週間持たないと言われた時に、思い切って、「誰か会いたい人はいる?」と聞いたら、やけにはっきりした口調で、「いない」と言い切った。会ったところで、政治や文学の話ができる状況じゃないし、いままで通りに話せないなら、会う意味はないと思ったのかもしれない。その辺の複雑な気持ちは、私にはよくわからなくて、たぶん、香川さんの方が当事者として理解できる部分が多かったのだと思う。
母が他界した夜、葬儀屋の車で香川さんも一緒に病院から戻ってきて、お弁当でも買ってこようかと相談していたら、香川さんが急に、「私はなにか役に立てたのかな」と声を詰まらせた。香川さんが泣くのを見たのは、後にも先にも、あの時だけだ。
「すごい、緑の匂い」
急に香川さんが声をあげ、現実に引き戻された。見ると、マスクを外して、香川さんが深呼吸をしている。
「サトちゃんもマスク外してみなよ」
ドラッグストアの店頭からマスクや消毒液の類いも姿を消していたので、ハンカチを折りたたんでつくった即席のマスクをしていた。ただ折りたたんでいるだけなので、外すと形が崩れてしまう。けれど、香川さんがあんまりはしゃいでいるので、言われるがままに外してみる。
息を吸い込むと、たしかに緑の濃い匂いがした。花の季節が終わり、夏に向かって、木々が一斉に成長している、その匂いだ。
目を閉じ、ゆっくりと息を吸って、吐き出した。
「ねえ、サンシャイン通り行ってみない?」
目を開くと、香川さんがいいこと思いついたとばかりに目を輝かしている。
サンシャイン通りと言えば、昔はキャッチセールスが多くて、無視したり断ったりすると、ひどい罵声を浴びせられる場所だった。中学時代の同級生なんか、後ろから跳び蹴りされてむち打ちになったと言っていた。もう随分前のことだ。いまはまったく違うのかもしれないけれど、一度できてしまったイメージはなかなか壊すことができない。
「でも、帰ってくるの大変じゃない?」
「池袋まで出て電車で帰ってくればいいじゃん」
「この格好で電車乗るの?」
「いいじゃん。ね、こういう時はどうなってるか見とかなくちゃ」
香川さんはさっきと同じ台詞を繰り返し、私が「わかったわかった」というと、ニッと笑って、マスクをつけ、さっさと歩き出した。
坂道を登り切り、平坦な道に出ると、大通りに出て、すぐ左に曲がる。
「ねえ、基礎体温って測ったことある?」
テニスコートの脇を歩きながら、唐突に聞いてみた。
「え、なに、突然」
香川さんが少し困惑した表情でこちらを見る。テニスコートでプレイしている人は当然なく、球を打ち返す音も、人が走る音もしない。とても静かだ。
「この間、検診行った時、生理まだありますかって聞かれてさ、ほとんどないけど、忘れた頃に来るから困るって言ったんだよ。そしたら、基礎体温測ってればいつ生理が来るかわかるよって言われて」
言いながら、香川さんの表情を盗み見る。
私には、基礎体温と聞いてすぐに思い出すことがあった。がさつで、面倒くさがりな私は、しょっちゅう服を血で汚していて、よく友人たちに呆れられていた。その日も急に生理が始まり、友人にナプキンを分けてもらった。「基礎体温測ってないの」と友人は眉をひそめ、「測ってない」と答えると、ため息交じりに言われた。
「同じ女とは思えない」
それ以来、半ばムキになって、そういうことに背を向けてきた。
香川さんは、ふうん、と言ったきり沈黙していた。自分がどうだったか思い出そうとしているように見えたので、私も黙って、答えを待った。
「一回だけ。でもすぐやめちゃった。三日坊主」
一通り検索したけど、それ以上のことは出てこなかったというような調子で、香川さんが答えた。
「私測ったことないんだよね」と言うと、香川さんが私の顔をちらりと見た。
「別に無理しなくていいんじゃない?」
嬉しくなって、そうだよね、と返す。香川さんとは、しょっちゅうそういう話をしていた。最初は生理の話をするのも抵抗あったのに、いつの間にか慣れてしまって、食事しながらでも、外を散歩するときでも、そんな話ばかりしている。
三年ほど前だったか、ついに日本でも性暴力の告発が起き始めた。最初は特に気にも留めなかった。でも次第に、さまざまな記憶が瞬くのを無視できなくなっていった。子どもの頃、近所に局部を露出した人がいて、自慰を見せられたこと。深夜に部屋で寝ていたら、知らない男の人が入ってきて局部をくわえさせようとしたこと(母を呼んだら逃げて行った)。高校に入ると、朝の電車でしょっちゅう痴漢に遭い、制服に精液を掛けられて、トイレで洗ったこと。いまのデザイン事務所に入ったばかりの頃、クライアントと飲みに行って、ホテルに連れ込まれそうになったこと。どれもこれも、ありふれたなんでもない出来事だと思っていたのに、被害と呼んでいいものだったと知り、世界が違って見え始めた。被害を被害だと認めるのは案外苦しい。これは被害だったのかと気が付くと、ということは自分がしたあれは加害か、というように、被害の記憶と加害の記憶がごっちゃになって、波のように押し寄せて来る。それから、私は一人で東京駅の前で月に一度行われていたデモに通うようになった。そのデモは、刑法の改正を求めるものだったけれど、自分の被害を語る場として人が集まり、全国に広がりつつあった。最初は遠くから、偶然居合わせたような顔をして、段々と輪に加わっていった。スピーチはしなかった。でも、スピーチをした人たちが拍手されているのを見ているだけで、胸が熱くなった。私ははじめて、フェミニズムと銘打った本を手に取り、次々読み漁った。なにかを読む度に、クリアになるものがあった。そういう変化が、私だけに起きたものではなかったと知ったのはごく最近のことだ。以前、なにかのイベントで、外国のジェンダー論の学者がフェミニズムがこれだけ広がったことを指して「フェミニズムの大衆化」と言っているのを聞いた。通訳を介していたので、「大衆化」という言葉が、その人が意図したニュアンスに合っていたかはわからない。でも私は、自分はまさにその大衆の一人だと思った。
ウーマンリブの時代に青春を過ごした母は、私に「サトル」という名前をつけて、青や緑の服ばかり着せて育てた。そうやって育てたらどうなるか実験したらしい。小学校に入ってすぐ、同級生のなんとかちゃんみたいな服がほしいと私が言い出したので、実験は終了したのだと、ずっと後になって聞かされた。そういう母に育てられたから、私も子どもの頃から、フェミニズムっぽいことを言ってはいた。でもそれらは確固たる思想に支えられていたわけではなく、ほとんどは母の受け売りに過ぎなかった。
そういえば、こんなことがあった。
中一の夏、水泳の授業でのことだった。体育館と校舎に挟まれた狭っ苦しい場所にプールはあった。私はさっさとスクール水着に着替え、意気揚々と外に飛び出した。運動は苦手だったけれど、水泳は嫌いじゃなかった。
太陽が容赦なく照りつけていた。日に照らされたコンクリートの地面が、裸足で歩くには熱すぎたので、わざと両膝を開き、足裏の外側だけを使って歩き、ふざけていた。
そこに、私より身体の大きい女子が何人か、教室から出てきた。恥ずかしそうにバスタオルを巻き、身体を丸めて歩く彼女たちのまわりを、私はぴょんぴょん飛び跳ね、しつこくからかった。
ばちん、という音とともに背中に痛みが走った。
彼女たちのなかの一人が、水着姿の私の背中を思いっきり平手打ちしたのだった。痛みにもだえる私に向かって、その子が言った。
「いますぐ結婚したって、私はお母さんになれるんだからね」
人より発達が早い身体に悩むその子に、誰かが言ってあげた言葉なのだろう。身体をからかうということが、どれだけひどいことか、いまはわかる。でも当時はそのひどさがわからなかった。自分だって品定めされ、からかわれる側なのに、そのことに気が付かず、からかう側の一員だと思い込んでいた。そのくせ、まだ妊娠できる身体じゃないと言われたことには劣等感を感じ、嫌われたことにもしっかり傷ついて、それがまた女子への苦手意識として積み重なった。
私は友だちがほしかった。でも、どうすれば友だちができるのか、どんな友だちがほしいのか、まったくわからず、生徒会長の選挙に出てみたり、運動神経もないのに、花形の運動部に入ってみたりと、的外れな努力を、空回り気味にし続け、気がついたら、世間の価値観をしっかり吸収して、「女の子らしさ」に抗う気持ちは、「女の子らしいもの」を一段下に見ることと区別がつかなくなっていた。そうこうするうちに、恋人ができる年齢になり、認識はさらに複雑化した。友だちになることと比べて、誰かと肉体関係になることはそれほど難しいことではなかった。セックスをするようになって、私は「モテること」に自分の価値を見いだすようになっていった。「モテる」ということがなんなのか、なんて考えなかった。ただただ、人から好きだと言われるのが嬉しかった。どうしたら好きになってもらえるか、どうしたら肉体関係に持ち込めるか、そんなことばかり考えていた。それは、貞操観念に抗うとか、性を主体的に楽しむということとも矛盾しなかった。時々、足元を見られて、ひどい扱いを受けることもあった。でも、それは主体的に選んだ結果なのだから、私にも責任はあると思った。二十歳の時に妊娠して中絶した。三十歳の時には、夫婦別姓が選択できるようになるまで事実婚にしておくという手もあるという母の説得を振り切って、結婚し、三年持たずに離婚した。あの頃にはもう、私はすっかり世間の価値観に飲み込まれていたのに、それでもまだ、フェミニズムは、勉強しなくても身についているのだと思い込んでいた。なにせ、私は女なのだから。
「あ、チカチカ、渡っちゃおう」
大通りの信号が点滅し始めたのを見て、香川さんが駆けだした。
疲れた足が重い。歩くのと大して変わらない速度でもたもたと私も走り出す。
香川さんは私と違って、若い頃からフェミニズムを勉強してきた人だ。フェミニズムに興味を持ち始めた頃、デモで聞いた話を香川さんに話していたら、「サトちゃんがフェミニズムって言い出すと思わなかったよ」と言われた。咎めるような口調ではなくて、純粋に驚いたという言い方で、さすがに付け焼き刃なのはバレてるなと苦笑いした。だから、香川さんがそういう話を振ってくれると、フェミニストとして認められたようで、なんだか嬉しかった。
横断歩道の真ん中にある安全地帯で香川さんに追いついて、並んで渡り終えると、サンシャイン通りに入った。
それは見たことのない光景だった。いつもなら人と肩がぶつからないよう、右へ左へと避けて歩かないといけない通りに、人がいない。おおー、と声をあげて、あちこち見回す。
街灯を反射して黒く光るアスファルト、さっきまで人がいた気配を残したまま、灯りを落とした店内。道路脇に積み上げられたゴミ袋。ゲームセンター、クレープ屋、映画館、ドラッグストア、見覚えのある町並みから、人間だけが消えている。
「ディストピア感あるね」
香川さんがスマホを出して、ゆっくり回転しながら、動画を撮り始めた。
「これは潰れる店出てくるわ」
神妙な気持ちになって、ビルの窓を、ひとつひとつ目で追う。雑居ビルの上の方には人が住んでいる部屋もあるはずだが、どの部屋も電気が消えて、人の気配がない。
「サトちゃん」と呼ばれて振り向くと、香川さんがカメラをこちらに向けて「手叩いてみて」と言った。
手を叩くと、音がビルに反響する。
「すごい、もう一回」と香川さんが言う。
「やだよ、怒られる」というと、「サトちゃんは恐がりだなあ」と笑うので、もう一回手を叩く。ちょっと気持ちがいい。もう一度叩く。香川さんもスマホを仕舞って、一緒に手を叩き、笑い声をあげる。香川さんの笑い声はよく通り、辺りに響き渡る。昔、罵声を浴びせてきたキャッチセールスはみんないなくなって、私たちが生き残ったのだと叫んでいるみたいだ。そう思いながら、次の瞬間には、その辺の窓が開いて怒鳴られるんじゃないかとハラハラする。勝手な妄想はあっけなくぶちこわされる。
びくびくと怯える気持ちと、気持ちよさがせめぎ合う。そろそろどこかに逃げたいのに、無理をしている感もある。手を叩いていたいのか、逃げたいのか、自分でもよくわからない。楽しいのか、苦痛なのかも、よくわからなくなってきて、ちょっとやけっぱちな気持ちで、いつまでも手を叩き続けた。
(続きは、「文學界」2023年8月号でお楽しみください)
■ プロフィール
石原燃(いしはら・ねん)
劇作家・作家。72年生まれ。『赤い砂を蹴る』(文藝春秋)。
「文學界」2023年8月号 目次
【創作】高瀬隼子「明日、ここは静か」
芥川賞を受賞し、多忙の日々を送る早見有日。取材のたびに思ってもいない言葉が口をついて出て――
石原燃「いくつかの輪郭とその断片」216枚
私は一緒に母を看取った歳上の友人・香川さんと二人で暮らし始めた。小説デビュー作「赤い砂を蹴る」を超える傑作(*本稿)
岸川真「崩御」
小林エリカ「風船爆弾フォリーズ」(短期集中連載 第二回)
【鼎談】円城塔×千葉雅也×山本貴光「GPTと人間の欲望の形」
生成AIはわれわれの思考をどのように変えうるか。記号接地問題から精神分析、文学までを縦横に語る
【往復書簡】市川沙央 ⇄ 荒井裕樹「世界にとっての異物になってやりたい」
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【批評】長谷部浩「野田秀樹、妄想の闇」
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【リレーエッセイ 私の身体を生きる】鳥飼茜「ゲームプレーヤー、かく語りき」
【巻頭表現】竹中優子「水」
【エセー】板坂留五「私の建築のつくりかた」
【コラム Author’s Eyes】池松舞「本当に欲しいものは」/鳥山まこと「記憶倉庫の①番棚」
【強力連載陣】松浦寿輝/円城塔/砂川文次/金原ひとみ/綿矢りさ/宮本輝/西村紗知/王谷晶/辻田真佐憲/藤原麻里菜/成田悠輔/平民金子/松浦寿輝/犬山紙子/柴田聡子/住本麻子/渡邊英理
【文學界図書室】島田雅彦『時々、慈父になる』(山﨑修平)/多和田葉子『白鶴亮翅 』(倉本さおり)/吉田修一『永遠と横道世之介』(宮崎智之)/千葉雅也『エレクトリック』(鴻池留衣)/山下澄人『おれに聞くの? 異端文学者による人生相談』(青柳菜摘)
表紙画=柳智之「ウラジーミル・ナボコフ」