- 2023.08.23
- 文春オンライン
「この世に、これほど恐ろしい大将がいたのか」上杉謙信の猛攻、武田信玄は相手の味方を寝返らせ…北陸で起きた知られざる“代理戦争”
簑輪 諒
戦国小説集『化かしもの 戦国謀将奇譚』の著者・簑輪諒が、小説の舞台裏を戦国コラムで案内する連載の第1回です。
甲斐(山梨県)の武田信玄、越後(新潟県)の上杉謙信といえば、戦国時代を代表する有力大名であり、ライバルだったことで知られている。特に、両者が5度にわたって繰り広げた「川中島の戦い」は、後世、多くの物語の題材にもなってきた。
ところで、信玄と謙信の、代理戦争ともいうべき争いが、北陸地方で行われていたことはあまり知られていない。舞台となったのは越中国(えっちゅうのくに)、現在の富山県である。
神保vs椎名、そして謙信
室町幕府の体制下において、越中は畠山氏の領国の一つであった(本国の河内に加え、紀伊、越中という3ヶ国の守護を兼ねた)が、畠山氏自身は在京し、実際の統治は、在国の守護代によって行われていた。
戦国時代以降、畠山氏の支配が衰えると、越中の覇権は、共に守護代の家柄である神保氏・椎名氏の両家によって争われることになる。
越中中央部の神保長職(ながもと)は、越中や加賀(石川県南部)で大きな影響力を持つ、一向一揆(浄土真宗・本願寺教団の武装勢力)と手を結んだ。一方、東部の椎名康胤(やすたね)は、先代の頃から同盟関係にあった、隣国・越後の大名である長尾氏を後ろ盾とした。
永禄3年(1560)、椎名康胤の救援要請により、長尾氏は越中へと出陣した。軍勢を率いる当主の名は、長尾景虎――のちの上杉謙信である。
越後の軍神、越中へ出兵
――依怙(えこ)によって弓箭(ゆみや)は携えず、ただただ筋目を以って、何方(いずかた)へも合力いたすまでに候(私心によって戦はせず、ただ正しき道理のもと、どこへでも力を貸すまでである)
景虎(以下、便宜上、謙信で統一する)が同年に記した書状(4月28日付 佐竹義昭宛書状)には、そのような一節がある。後世、よく知られるように、彼は大義を重んじる武将で、この書状によれば、このたびの越中出兵も野心のためではなく、あくまでも同盟者の椎名氏を窮地より救うためであるという。
しかし、実のところ、この出兵は謙信にとって、まるで利がないわけではなかった。実は当時、神保氏は、謙信の宿敵である武田信玄と同盟関係にあった。
言わば、越中における神保と椎名の抗争は、信玄と謙信の代理戦争であり、武田方の神保を排除し、本国・越後の隣国である越中を平らかにすることは、信玄との対決を有利に進めるうえで、謙信にとって重要な意味があった。
3月、初めて越中に兵を入れた謙信は、神保方を一蹴。神保長職は、本拠の富山城を捨てて増山城へと逃げ込むが、その増山城もすぐに攻略され、行方知れずとなった。謙信は戦果に満足し、越後へと帰国した。
ところが、神保長職は、謙信が越中を離れたとみるや、増山城へ舞い戻り、逆襲の兵を挙げる。一向一揆の助勢を受けた長職は、永禄5年(1562)9月の「神通川合戦」で椎名勢に大勝し、椎名領の奥深くまで侵攻した。
またも追い込まれた椎名康胤の救援要請により、謙信――この時期、関東管領(かんとうかんれい)上杉氏の名跡を継ぎ、さらに改名して上杉輝虎と称していた――は再び越中へ出兵。来襲した上杉勢の猛攻に、神保勢は瞬(またた)く間に破られ、増山城へと逃げ戻った。
「この世に、これほど恐ろしい大将がいたのか。これ以上、輝虎(謙信)を敵に回すは、己が首を絞めるも同じじゃ」
これまでの敗戦で、神保長職はそのように考えたのだろう。戦況の不利を悟った彼は、上杉の同盟者である能登畠山氏(河内畠山氏の分家)に仲介を求め、上杉方との和睦を成立させる。こうして、越中には平穏が訪れたかに見えたが、それは長くは続かなかった。
謙信の宿敵・武田信玄の策謀の手が、北陸に迫っていたのである。
謙信に叛く、越中の諸勢力
永禄11年(1568)3月、上杉家の傘下にあった、越後の有力国衆(領主)・本庄繁長が、突如として謙信に叛(そむ)き、武田方への加担を表明した。さらに同年7月、越中の椎名康胤までもが、武田方に寝返ってしまう。
長きにわたって上杉家と昵懇(じっこん)であった椎名氏が、なぜ、突如として裏切ったのか、確かなことはわからない。ただ、椎名康胤としては、仇敵たる神保氏を排除してくれると期待したからこそ、これまで上杉方に従ってきたのだろう。だというのに、謙信は神保長職とあっさり手を結び、神保氏の領地も従来通り認めた。
「これでは、話が違う! 先に我らの信頼を裏切ったのは、上杉の方だ!」
椎名康胤は、そのような思いを抱いたのかもしれない。
いずれにせよ恐るべきは、椎名方のわずかな隙を見逃さず、調略で取り込んでみせた、武田信玄の手腕であろう。
一方の神保長職は、椎名氏への対抗上もあってか、従来の同盟者であった武田氏や一向一揆とは距離を置き、上杉方の一員として戦うことになる。
こうして、越中は再び、信玄・謙信の代理戦争状態に突入する。ただし、彼らの陣営は「武田方の椎名」「上杉方の神保」という、かつての旗色を、そっくり入れ替えた形であった。
その後、謙信は神保氏救援のため、幾度か越中に出兵した。しかし、そうして謙信が領国を留守にすると、その隙を突いて信玄が攻めて来るため、長く越中に在陣するわけにもいかず、これまでのように、たやすく蹴散らすという具合にはいかなかった。
そして元亀2年(1571)頃、親上杉派であった神保長職の活動が史料上から消える(死去したと思われる)と、神保氏はなんと武田方に寝返ってしまう。
かくして椎名、神保、そして一向一揆という越中の主要勢力は、ことごとく謙信に叛き、牙をむいたのだった。
その後の越中
その後、神保を打ち払い、椎名を屈服させ、一向一揆と和睦し、天正4年(1576)、謙信はようやく越中を平定した(武田信玄は元亀4年(1573)に死去)。最初の出兵から、実に16年後のことであった。
上杉謙信の活躍というと、武田氏や北条氏ら東国諸侯との戦いばかりが注目されがちである。しかし、越中をはじめとする北陸での戦いもまた、彼の生涯を語るうえで不可欠なものであり、また、その戦線が単なる局所戦ではなく、武田信玄らの諸勢力の動向と密接に関わっていたことは、いま少し知られるべきであろう。
越中平定の2年後――天正6年(1578)、謙信は居城・春日山城で病没する。
彼の死後、上杉家では、家督を巡って大規模な内紛(御館の乱)が勃発し、そのうえ、敵対する織田氏の侵攻が激化し、もはや越中の維持どころではなかった。
結局、数年のうちに越中一国は、織田家臣・佐々成政の支配するところとなった(ただし、完全平定は信長死後の天正11年(1583))。
しかしその佐々成政も、信長の死後、新たに台頭した羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、降伏する。成政の旧領は、加賀の前田氏に与えられ、江戸時代以降も、越中は前田氏の領国として続いた。
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