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【文庫版書き下ろし附録】「千里の向こう」拾遺 中岡慎太郎こぼれ話

【文庫版書き下ろし附録】「千里の向こう」拾遺 中岡慎太郎こぼれ話

簑輪 諒

『千里の向こう』(簑輪 諒)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

『千里の向こう』(簑輪 諒)

◆慎太郎の短刀

 小説中にも幾度か登場した、陸援隊幹部・田中顕助(光顕、浜田辰弥。維新後は宮内大臣などを務めた)は、刀剣の愛集家として名望があり、目利きで一家を為せるほどであったという(『続伊藤博文秘録』)。たとえば高杉晋作が、田中の愛刀(藤原貞安)があまりに見事であるので、強く求めて譲り受け、写真を撮るときもこれを携えたという有名な逸話もある(『維新風雲回顧録』)。

 慎太郎の短刀・山城信国も、この田中から譲り受けたものだ。小説の中では、文久三年の脱藩直前に託された設定にしたが、田中自身が「長州にいるときに、中岡から信国の短刀を懇望(こんもう)されて譲った」「薩摩の朱(琉球を通じて輸入していた、中国産のもの)の品質が良かったので、西郷に頼んで取り寄せてもらい、これで鞘(さや)を染めた」と語っているから(『中岡慎太郎先生』『伯爵田中青山』)、実際には慶応年間のことだろう。

 近江屋事件で襲撃を受けた際にも、慎太郎はこの信国の短刀を携えていたが、抜刀する暇もなく、鞘ぐるみで刺客の太刀を受けたという(『維新土佐勤王史』)。襲撃後の現場を目撃した少年・菊屋峰吉(鹿野安兵衛。襲撃時は龍馬に鶏肉を買いに行かされていたため、難を逃れた)は、次のように証言している。

 ――中岡さんの傍を見ると、成程(なるほど)短刀の鞘で刀を受けたと見えて、鞘が二つに割けて居る。今以(もっ)て忘れはしませんが、その短刀は朱鞘で、鍔(つば)は田舎のくず屋葺(やぶき)(茅[かや]葺や藁[わら]葺の屋根のこと)の模様でありました(『菊屋峰吉談話』)。

 また、歴史家の岩崎鏡川(きょうせん)(英重)も、大正五年の講演(『坂本中岡両先生の最期に就て』)でこの短刀について触れており、それによれば「白柄朱鞘で長さ八、九寸」「鍔は食(は)み出し鍔で、海士(おとこあま)に茅屋の景があり、縁頭は奈良彫り」であったという。

 慎太郎は、なにを思ってこのような図柄の鍔を選んだのだろう。茅葺は北川郷の実家、海士は土佐の海辺で見た風景、すなわち故郷への思いが込められて……などという想像は、小説的に過ぎるだろうか。

 慎太郎と龍馬の遺品整理は、海援隊の長岡謙吉が取り仕切り、この信国の短刀は、陸援隊の片岡源馬(利和、那須盛馬)が譲り受けたが、その後(片岡の死後?)、行方不明になってしまったという(『中岡慎太郎先生』)。

 

◆もう一人の師匠

 慎太郎には武市半平太以外にももう一人、志士としての師匠にあたる人物がいる。彼の名は間崎哲馬(まさきてつま)、号は滄浪(そうろう)。

 滄浪の父・房之助は、土佐郷士・間崎泰助の四男であり、高知城下で町医者を営んでいた。その子として、天保五年(慎太郎より四歳年上)に生まれた滄浪は、三歳にして文字を理解し、四歳にして「孝経」を誦(そら)んじ、六歳で「四書五経」を学び、七歳にして詩を賦(ふ)したとまでいわれる、並みはずれた秀才だった。その風貌は、「色が黒く、顔は痩せて顎が尖り、眼光は人を射るように鋭かった」という(『三宅建海翁談』)。滄浪は十六歳のときに江戸へ遊学し、安積艮斎(あさかごんさい)に入門。すぐに頭角を現して塾頭まで務め、帰国後は藩が設立した「田野学館」で講師に任じられ、のちに高知城下から近い江ノ口村に私塾を開いた。

 慎太郎が田野学館で、剣術指南役の武市半平太に師事したことは小説中でも触れたが、同時期に、間崎滄浪にも出会い、門弟となって学問を学んだのだ。滄浪門下にはほかに、天誅組を率いて決起した吉村虎太郎や、海援隊の沢村惣之丞(そうのじょう)、陸援隊の木村弁之進(三瀬八次、深蔵)、迅衝隊の上田楠次(くすじ)、池田屋事件で斃れた北添佶摩(きたぞえきつま)などがいる。

 滄浪は学者らしからぬ磊落(らいらく)な性格で、詩と酒を愛した激情の志士だった。文久元年に土佐勤王党が結成されるとこれに加盟し、江戸や京などで国事に奔走した。

 しかし、翌年十二月、滄浪は勤王党の同志である平井収二郎(隈山)、弘瀬健太と共に、「青蓮院宮令旨(しょうれんいんのみやりょうじ)事件」という騒動を引き起こしてしまう。滄浪らは、青蓮院宮親王(のち中川宮)にひそかに依頼し、土佐藩庁の守旧派勢力の排除および人材登用などを勧告する令旨を賜(たまわ)り、親王の権威によって、隠居ながらも発言力を持つ山内豊資(やまうちとよすけ)(山内容堂の養子・豊範[とよのり]の実父)を動かし、藩政改革を進めようとしたのだ。滄浪らは、守旧派を一掃することが、主君である容堂のためにもなると信じていたのだろう。

 だが、江戸にいた容堂は、下士に過ぎぬ滄浪らが藩政を動かそうと企て、令旨まで持ち出したことを知って激怒し(薩摩藩士・高崎猪太郎が知らせたのではないかという説がある)、翌年、上洛した際に、滄浪らを「僭上(せんじょう)である」と厳しく叱責した。窮(きゅう)した滄浪らは、同年二月、あえて藩当局に申し出て、自分たちが、このような工作をしてまで藩政改革を実行しようとした経緯と意図を、自首状という形で訴えた。こうして幽囚の身となった三士は、武市による助命嘆願もむなしく、六月八日、藩命により切腹に処された。滄浪はこの世の飲み納めに、飲めるだけ酒を飲み、腹を切ったという(『維新風雲回顧録』)。享年三十。遺書には、慎太郎をはじめとする弟子たちに、しかるべき伝言を頼むと記されていた。

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