『転職の魔王様』が連続ドラマ化されて話題の額賀澪さんが、最新刊『青春をクビになって』を9月11日(月)に刊行されます。
「転職」の次は「進路」だ! ということではないのですが、本作はいわゆる「高齢ポスドク」をテーマとした長篇小説です。
古事記を愛し、研究の道をまい進してきた主人公ですが、「良い歳」をしていまだ契約講師の職しか得られず、先行きに不安を抱く毎日です。このまま研究を続けるのか、あるいは諦めて別の道へ踏み出すのか……。青春の黄昏時に、人はどんな決断をして生きていけばよいのでしょう。
刊行に先立ち、本作の魅力を皆さんにいち早く感じていただくべく、本作の第1章を丸ごと先行無料公開します。どうぞお楽しみください。
第一章 僕達は研究者です
「残念ながら、来年度は瀬川先生の契約を更新できそうにないんだ」
ああ――背中を小突かれるような落胆のあとに続いたのは、「やっぱり」と「なんてこった」の両方だった。
日本文学科の学科長である岸本教授に研究室へ呼ばれたときから、ぼんやり覚悟していた。非常勤講師が学科のトップに呼び出されるのなんて、碌な理由ではない。
学生からの授業アンケートの評価が芳しくない。授業についてクレームが来ている。保護者が「うちの子の単位を何とか融通してくれ」と騒いでいる。溜め息が出そうな呼び出し理由はいくらでも思い浮かぶが、「来年度の契約更新をしない」は、やはり一番聞きたくない。
「僕、まだ三年目だったと思うんですが」
予想以上に非難めいた言い方をしていて、覚悟はしていても、受け入れられるかどうかは別だなと瀬川朝彦は思い知った。誤魔化すように眼鏡の位置を直したら、岸本教授は大袈裟な咳払いを返してきた。
「でも、君の非常勤講師としての雇用は、一年契約だから」
こちらは違法なことをしているわけではないよ。そう言いたげに岸本教授は額に細い皺を三本寄せた。買ったばかりの靴下に穴を開けてしまった――そんな顔で繰り出された言い訳がましい言葉に、朝彦はそれ以上とやかく言うのをやめた。
食い下がりたい気持ちは、もちろんあった。授業評価アンケートの結果だってそこまで悪くないですよね? 学生や保護者からクレームを受けたこともないですよ? 遅刻どころか、自分都合での休講だってしたことないのに? 大体、今の時期にいきなり「来年度は更新しない」なんて酷いじゃないですか。
だが、どれも言葉にならない。
「わかりました。三月までのあと半年、よろしくお願いします」
笑みまで浮かべて、本心とは正反対のことを口にする。恭しく会釈までして、岸本教授の研究室を出た。微笑みはエレベーターで校舎の一階へ下りても、昼休みを迎えた学生達で賑わう中庭に出ても消えない。
夏季休暇が明けたばかりのキャンパスは、夏を思い切り楽しんだ大学生達のエネルギーで満ち満ちていた。すれ違う彼らは「あー、大学だりぃ」という顔をしながらも、声やたたずまいからソーダ水のような潑剌さが滲んでいる。
そんな彼らを微笑ましく眺めながら歩く自分はきっと、悠々自適に大学講師をしながら好きなものを研究して過ごす、呑気な研究者に見える。見えていてほしい。実態は、一方的に契約更新を断られたばかりの哀れな非常勤講師なのだから。
中庭を抜けた先、大教室の集まる校舎の一階に、非常勤講師用の講師室がある。講師室といっても非常勤講師に専用のデスクはなく、自由に使える大きなテーブルが四つと、パソコンが六台、一人に一つ小さなロッカーが与えられるだけだ。昼休みになると、テーブルの上で昼食をとる講師、学生のレポートをチェックする講師、パソコンで授業資料を準備する講師で混み合う。
空いている椅子に腰掛けたところで、朝彦は「参ったなあ」と後頭部を搔いた。頭皮が汗ばんでいる。指先にこびりついた皮脂を親指の爪でカリカリと擦りながら、もう一度「参ったな」と呟く。
「瀬川先生、どうしました」
近くの椅子に座っていた大石先生に声をかけられた。ずるずる、ずるずると、カップ麵を啜る音があとに続く。ツンと酸っぱい香りがただよってきたから、どうやら昼食はエスニック系のラーメンらしい。いつもカップラーメンの匂いを講師室に充満させる大石先生は、同じ曜日に出講する講師から陰で嫌がられていた。
「どうにもこうにも、最悪ですよ」
「学生か保護者から授業にクレームでも入った? 最近は本人じゃなくて親があれやこれや大学に文句を言ってくるから、困っちゃうよねえ」
ずるずるっ、ずるずるっ。麵を啜って、「辛い、美味い」と笑う大石先生の横顔は、悠々自適に大学講師をしている呑気な研究者そのものだった。しょっちゅう昼にカップラーメンを食べるのも、奥さんが健康に気を使った食事ばかりを作るから、大学では正反対のものが食べたいという理由からだという。
他大学で教授を務め、定年後にこの大学で非常勤講師となった大石先生の専門は近代文学だ。歳も大きく離れているし、古事記を始めとした上代文学を研究する朝彦とは専門も異なるのだが、温厚で人当たりもいい大石先生とは馬が合った。
「クレームなら、よかったですね」
「なるほど、それは最悪だね」
余生をのんびり非常勤講師として過ごしている大石先生と、キャリア形成の真っ最中である三十五歳の朝彦とでは、同じ非常勤講師でも全く事情が違う。だが、それでも同じ非常勤講師だ。大石先生は肩を竦めた朝彦から、諸々を察してくれた。
「まさか、今年度で?」
カップ麵を持ったまま、大石先生が朝彦の隣に移ってくる。朝彦はゆっくり頷いた。
「瀬川先生はここで教え始めて三年じゃなかった? 僕より一年早いだけでしょ?」
「そうなんですけど、さすがに学科長に『五年ルールにはまだまだ早いじゃないですか!』とは聞けませんでしたよ」
学生からすれば、教授だろうと准教授だろうと専任講師だろうと非常勤講師だろうと、皆等しく「先生」なのだが、労働者としては大きな違いがある。
非常勤講師は契約期間が決まっている有期雇用で、立場としては契約社員みたいなものだ。朝彦の場合、大学との契約は一年ごとに更新される。
労働契約法では、有期雇用されている人間の労働契約が五年を超えて更新されると、無期労働契約へ転換を申し込める決まりがあり、「五年ルール」とよく言われる。同じ大学で非常勤講師として五年勤めれば、六年目に常勤講師への申込権を得る。一年契約が多い非常勤講師からすると、安定した職を得られる貴重な制度だ。
しかし、雇い主である大学からすると、そうほいほい常勤講師を増やしたくはない。だから、五年ルールが適用される前に契約を解除する「雇い止め」を行う――今日、朝彦が岸本教授から言い渡されたように。
「来年度からねじ込みたい講師がいるんじゃないですかね。僕より実績があるのか、強いコネを持っているのか、わかりませんけど」
大学の教授陣にとってどうしても来年度から引き入れたい講師が現れ、「今ちょうど瀬川先生が三年目だ。どうせあと二年で雇い止めなのだから、今切っても同じだろう」と白羽の矢が立ったのかもしれない。
非常勤講師とは、その程度のものだ。学生からの評判がよかろうと、無遅刻無欠勤で勤勉であろうと、しょせんはバイトと一緒だ。今更、扱われ方にいちいち傷ついてなどいられない。
「なるほどねえ。たまたま、雇い止めしやすいのが瀬川先生だったのかも」
「あと二年は大丈夫だろうと思ってたんで、ちょっと計画が狂いましたね」
「今から来年度の講師の口なんてある? もうどこも募集は締め切ってるでしょ?」
非常勤講師の募集は年明けから春先にかけてが多い。今の時期は、もう来年度の講師の席なんて埋まってしまっている。
「難しい、ですよねえ……」
他大学でも非常勤講師として授業を持っているが、そちらも今年が五年目だ。来年の三月には雇い止めが待っている。それを見越して新しい非常勤の募集にいくつか申し込んだが、芳しい結果は出なかった。
このままでは、瀬川朝彦は「大学講師」という肩書きを失い、ただの研究者になる。
「大石先生、どこかの大学で非常勤講師の空きが出てるって話、持ってませんか?」
「ないなあ、古巣の大学も席は埋まっちゃってたはずだし。知り合いにちょっと聞いてみようか?」
「ぜひ、ぜひとも」
テーブルに額を擦りつける勢いで頭を下げると、大石先生は「期待しないでね」と顰めっ面とお茶目な笑みを混ぜこぜにして首を横に振る。
それでも、先生は人に取り入るのが上手い。この大学で非常勤講師になったのだって、日本文学科の教授陣に「老い先短いロートルに老後の生きがいをくださいな」なんて調子のいいことを言って、ちゃっかり働き口を得たのだという。きっと、それによって弾き出された若手の非常勤講師がいたはずだ。
「雇い止めかあ。ポスドクの辛いところだね」
麵を食べ終えた大石先生は、スープを少しだけ飲んで「女房が塩分を摂り過ぎるなってうるさいんだ」とこぼし、残りを流しに捨てに行った。
「ポスドクの辛いところですよ」
ポスドク。正式名称はポストドクター。日本語にすれば博士研究員。大学院へ進み博士の学位を取得した後、大学や公的研究機関で研究に従事する者。将来有望な若手研究者。大学教授になるような優秀な人材の卵。世間からはそんなふうに思われていて、きっと辞書を引けば似たような説明がされている。
許されるなら、その辞書に「大学院まで出たのに将来が見えない。その多くが非正規雇用」と書き加えたい。
朝彦もかつて渋谷にある国文学で名高い私立大学に研究員として在籍していた。月二十万ほどの給与をもらいながら二年ほど研究をしたが、契約が切れてからは都内の大学を渡り歩いて非常勤講師をしている。
授業は一コマ九十分。もらえる給料は八千円ほど。朝彦はこの大学で週三コマ、他の大学でも週三コマ教えているから、月収は二十万弱だ。ここから生活費と研究費を捻出し、社会保険料、年金、その他諸々の税金を納める必要がある。非常勤講師には、共済組合の社会保障や手当ては何もつかないのだ。
そして今しがた、来年の四月から月収がゼロになることが確定した。
一応、研究員として在籍した大学には研究生として籍は残している。大学から給料をもらって研究を行う研究員ではなく、その見習いという立場だ。別名・無給ポスドク。むしろ、大学に研究費という名目で月額一万円払っている。そうすれば学内の図書館や資料室を使う権利を得られるから、辛うじて研究を続けられる。
「瀬川先生、それじゃあ、またあとで」
授業で使うプリントと、学生の出席を取るためのカードリーダーを抱えた大石先生が講師室を出ていく。「講師の件、ぜひお願いします」としつこく念押ししそうになって、寸前のところで踏みとどまった。
年齢も立場もキャリアもさまざまな講師達が、午後の授業のために一人また一人と講師室を去る。昼飯を食べ損ねたなと溜め息をつき、朝彦も重い腰を上げた。
次の授業は日本文化講読だ。一年かけて古事記を読み進めていく授業なのだが、何度注意してもお喋りをやめないグループがいて、真面目な学生達は彼らの声量に反比例する形でモチベーションを下げていく。四月からずーっと、授業のたびに気が重い。
雇い止めの話をしても、大学時代からの友人である栗山侑介は驚きも憤りもしなかった。目の前を回送電車が通り過ぎるのを見送るように、ただ「へえ」と頰杖をつく。
テーブルの真ん中に置かれた七輪で、ハラミ肉の脂が弾けて小さく火柱が立った。栗山がせっせとトングで肉をひっくり返し、ほどよく焼けたものを朝彦の取り皿に置く。これ、上ハラミだったよなあ……と、綺麗な焼き目を朝彦はぼんやり見下ろした。
「難儀なもんだな」
栗山のぼやきが、隣のテーブルに座る若者グループの甲高い笑い声でほとんど搔き消された。安いだけが売りの焼き肉チェーンは、学部生時代も院生時代も栗山とよく来た。かつてはあちら側でわいわい騒いでいた学生も、今は三十五歳のポスドクと、ポスドクから足を洗った三十五歳だ。二十歳の頃は喜んで食べた激安カルビは、いつの間にか胃もたれをするようになった。
「来年の四月から、どうするの?」
答えられるわけがなく、朝彦は完璧な焼き具合のハラミをひょいと口に入れた。
栗山は昔から焼き肉も鍋も〈上手〉だった。鼻につかない程度に甲斐甲斐しく手を動かし、周囲が気持ちよく飲み食いできるように気を配る、要領のいい男。
栗山と一緒に博士課程に進んだとき、彼のような人間はトントン拍子に出世していくのだろうと思った。
研究者にだって、出世するには要領のよさが必要だ。どんな論文を書いて、どんな評価をされて、どれだけ他の論文に引用されたり参照されたりしたか。そんな研究者としての真っ当な評価軸に加えて、上司である教授陣や大学の職員と上手くコミュニケーションを取れて、雑用をにこにこと引き受け、鬱陶しくない程度に〈使える奴〉として立ち振る舞えるかというポイントがある。
会社員と一緒で、結局は組織に属する一人の労働者なのだ。上司から可愛がられる人間は、軽やかにキャリアを重ねていく。
「うーん、うん……ど、どうしようか」
肉を飲み込んで絞り出した声は、思ったより途方に暮れている。栗山に比べたら〈使える奴〉でもないし、目上の人間から可愛がられるタイプでも、特別目立つタイプでもないとは、わかっていた。
「どうしようもなくなったら、瀬川、うちの会社でスタッフ登録する?」
仕事の連絡でもあったのだろうか、スマホを一瞥した栗山が、わざわざ自分の会社のウェブページを見せてくる。可愛すぎず格好よすぎず、でも洗練されたデザインで「ラペーシュ」という会社名が表示される。
「さすが、社長様だ」
にやりと笑って、朝彦はメニューボタンをタップした。なんだか嫌味っぽい言い方になってしまったが、栗山は涼しい顔をしていた。
社長挨拶のページを開く。酷く緑の眩しい公園の一角に澄ました顔でたたずんでいるのは、目の前でハラミ肉にかぶりつく栗山侑介だ。
「わお、語ってるねえ」
スマホを栗山に返す。代わりに栗山は新しい肉を朝彦の皿に置いた。
栗山は二年前に、ポスドクから、アカデミックの世界から、足を洗った。そのとき自分達は三十三歳で、「この歳で学部卒の子達と一緒に新人面するのもきついだろ」と苦笑いしながら、彼は唐突に起業した。
会社名はフランス語で桃を意味するラペーシュといって、レンタルフレンド――友達代行の人材派遣サービス会社だった。
結婚式や葬儀に参列する偽物の友人、一日限定で家族や恋人のふりをしてくれる人、一人では行きづらい場所へ同行してくれる人、ただの話し相手など、さまざまな理由から「人を借りたい」と思う人は多いらしい。ラペーシュの会社名を冠した登録サイトには何十人ものスタッフがバイト感覚で登録しており、利用者は条件にマッチする人材を探し、仕事を依頼するのだという。
正直、栗山から起業の話を聞いたときは「大丈夫か?」と思った。「このままポスドクでいるよりは、可能性があるかなって思うよ」と彼は笑っていた。
「儲かってる?」
「高笑いするほどは儲かってないな」
でも、ほんの二年前、栗山が朝彦と同じポスドクだった頃に比べて、彼は明らかに生活に余裕のあるたたずまいをしていた。少なくとも、学生御用達の焼き肉チェーン店で、ハラミと上ハラミから迷わず上ハラミを選択するくらいには。アカデミックの世界を去り起業するという彼の選択は、ひとまず成功したように見える。
大学の同期を見ていれば嫌でもわかる。学生時代はみんな一様に金がなかったのに、三十を過ぎるとあからさまに着るもの、食べるもの、そして表情や話し方に差が出る。金に余裕のある奴と、ない奴の差が。
「いよいよ困ったらやるかな、レンタルフレンド。需要があるかわかんないけど」
保険みたいに朝彦が言っても、栗山は「大丈夫だよ」と笑い飛ばす。網の上で肉がビリリと煙を上げて、栗山はそれをトングで摑んで朝彦の皿に置く。焼き加減もちょうどよくて、朝彦はちょっとだけ自己嫌悪に浸った。
「世の中にはさ、いろんな事情で友達代行が必要な人がいるんだよ。SNS映えする写真を撮るためだけに友達を借りたい人、ただ誰かと飯が食いたいって人、部屋の掃除を手伝ってほしい人、学生時代に友達がいっぱいいたんだって結婚式で見栄を張るために、何人も友達代行を依頼してきた人もいた」
「スタッフもこの一年で随分増えたみたいだし、トラブルだってあるだろ?」
「気が滅入るほどある。でも、雇い止めと隣り合わせの毎日よりはマシかな」
ちらりと朝彦を見て、栗山は注文用のタッチパネルを手に取った。「冷麵食べる?」と聞かれ、「ビビンバにするかな」と短く答えた。
「雇い止めと隣り合わせの人間を前によく言うよ」
「事実だろ」
注文ボタンを人差し指で軽やかにタップして、栗山は肩を竦めた。
わかっている。事実なのだ。栗山とは同じ大学で学部生時代を過ごし、同じ院に進み、修士課程、博士課程を過ごし、ポスドクとして何とか研究の道を模索した仲だから、無意味な気遣いも目障りなだけのオブラートもいらない。投げやりな気分で嫌味を言っても、ポテトチップを食べるように軽々と咀嚼してくれる。朝彦だって、立場が逆だったら同じようにする。
「駄目元で、貫地谷先生にでも泣きついてみるよ」
長く世話になった母校・慶安大学の恩師の名前に、栗山が何か言いかけて、やめた。さすがの貫地谷先生でも、今から来年度の講師の口なんて融通できないだろ。そう言おうとしたのだと思う。
網に何ものっておらず、ただ炭だけがじわじわと燃える七輪を見つめながら、栗山はおもむろに朝彦の名前を呼んだ。
「大学にさ、小柳先輩が住み着いてるらしいよ」
まるで、痛ましいニュースを目にしたような顔で、恩師と同じくらい世話になった先輩の名を出す。
「小柳先輩が? 今、慶安大にいるんだっけ? 研究員やってるの?」
「いや、勝手に研究室を使ってるみたい。俺も後輩からの又聞きだけど、貫地谷先生が見逃してやってるんじゃないかな。あの人も、今や立派な高齢ポスドクだし」
朝彦と栗山が院生だった頃、小柳博士は慶安大文学部で研究員をやっていた。慶安大のOBでもあり、貫地谷先生の教え子でもあったから、同じ研究室に所属する同期達はみんな彼を「小柳先輩」と呼んだ。小柳の研究分野も朝彦と同じく古事記だったから、彼が研究員として在籍していた五年間は随分世話になった。
「……そうか」
あの頃、小柳は三十代前半だった。今の朝彦と同じように、ポスドクとしてキャリアを築いている真っ最中だったわけだ。あれから十年以上たち、四十半ばの小柳は未だに研究者としても大学教員としても立場を確立できず、ずっとポストドクターのまま……いわゆる高齢ポスドクになってしまったわけだ。
「貫地谷先生のところに行くついでに、小柳先輩にも会ってくるよ。もう随分ご無沙汰だし」
「都合ついたら三人で飲みに行こうよ。噂とは言え『研究室に住み着いてる』なんて聞くと、ちょっと心配だし」
先ほど注文した冷麵とビビンバを店員が運んできた。普通のビビンバにしたつもりが、栗山は石焼きビビンバを注文していた。普通のビビンバより、二百円高い。
何も言わずビビンバを平らげると、会計の際に栗山は思い出したような顔で「俺、払うよ」と財布を開いた。
「悪い」
レジを打つ若い店員の前で、朝彦は天井を仰いだ。意外と自尊心が傷つかなかったのは、やはり相手が栗山だからだと思う。
栗山が「焼き肉行こうぜ」と連絡してきたときから、ぼんやりと彼に奢られることを期待していた。「上ハラミ食おうぜ」と言った栗山に「いいね」と返したときも、シメにビビンバを頼んだときも、そう。
安く肉が食えるこの店を選んだのは栗山だったけれど、それすら、朝彦が「悪い」と言いやすいようにという配慮だったのかもしれない。
「結果として、雇い止めを慰める会だからな。会社の経費で落とすし、問題なし」
帰り際に店員が「お口直しにどうぞ」と飴玉が大量に入ったカゴを差し出した。栗山が無造作に二つ摘まみ上げ、一つを朝彦に投げて寄こす。
「お、グレープ味だった。そっちは?」
飴玉を口に放り込んだ栗山の横で、小さな包み紙を見下ろす。淡いピンク色の桃のイラストが描かれていた。
「ピーチだ」
「いいね。縁起がいいよ」
古事記を愛した者にとって、やはり桃は魔除けであり幸運の果実だ。黄泉の国から逃げる途中、イザナギが黄泉比良坂で追っ手である雷神に投げつけたのが桃の実だった。イザナギは桃の実に神名を与え、桃はオオカムヅミという魔除けの神になった。
栗山が会社名をフランス語で桃を意味するラペーシュにしたのも、そういうことだと朝彦は思っている。
「イザナギを助けたように、俺のことも助けてくれたまえ」
冗談で言ったつもりなのに、思ったより自分の声に切実さが滲んでいた。切実に決まってるだろ。生活がかかってるんだから。喉の奥で毒づいて、飴玉の包み紙を開く。作りものっぽい甘い桃の香りごと、ざらついた飴を口にねじ込んだ。
西武池袋線の石神井公園駅で下車する頃には、飴玉は影も形もなくなっていた。街道沿いを十五分ほど歩くと一軒のアパートに辿り着く。門扉やフェンスに蔦植物が巻きついていたり、モルタル製の外壁に波打つ湖面のような模様が入っていたりと、妙なところで洒落ているのだが、何もかも古くて夏は暑く冬は寒い。
一階の角部屋に、朝彦は大学一年の頃から住んでいる。家賃五万の八畳のワンルームは、寝床と木製のデスク以外、ほとんどが本で埋まっていた。
二十歳の頃は余裕のあった本棚もいつの間にか本であふれ返り、入りきらなかった本は床に凸凹と積んである。趣味の読書のために買った文芸書や文庫本が三割で、残りの七割は研究のための本だ。訳者の異なる古事記や日本書紀が何冊もあり、大学の図書館から廃棄するからともらい受けた関連書籍も、同じ分野の研究者の論文をファイリングしたものも、大量にある。
古事記における表現と構想についての研究、古事記と日本書紀における神話の比較研究、古事記における婚姻の研究、神話における言語の研究、古事記と日本書紀の食文化考、古事記の穀物起源神話……最近目を通したものだけでも、これだけあった。
デスクに無造作に置きっぱなしになっていた論文を片づける。シャワーを浴びようかと考えて、そのままデスクで別の論文を読み始めた。デスクライト以外は明かりを点けない。一円でも、電気代を浮かせたいから。
論文の執筆者の年齢は小柳と同じくらいだ。彼と違い、この執筆者はすでに都内の大学で准教授の座についている。論文を読んでも、小柳が研究者として大きく劣っているとは思えないのに、不思議なものだ。運なのか、はたまたコネなのか。上手く行っている人間と小柳の違いは、一体何だというのだ。
それはそっくりそのまま、自分自身へ向けた問いでもあった。
研究に費やした時間も熱意も、それなりに胸を張れる量だった。論文だってほどほどに評価されている。そこからもう一歩上のキャリアへ行くための足がかりが、どこを探し回っても見つからないだけで。
運でもコネでも何でもいいから上手いこと這い上れる奴が生き残り、それ以外は淘汰されるだけ。わかってはいるが、直視したくない。特に、雇い止めを言い渡された今は。
こめかみをぐりぐりと両手で揉んで、朝彦は論文に向き直った。
朝彦は博士課程の頃からずっと「古事記における文学表現」に注目して研究を重ねてきた。およそ千三百年前、同時期に編纂された古事記と日本書紀だが、歴史書としての側面が強い日本書紀に比べ、古事記は神話や伝説を物語として記している。
――古事記は、日本文学の最初の一滴。
そんな話を、高校生の頃に慶安大学のオープンキャンパスで聞いた。模擬授業を担当していたのは貫地谷先生だった。読書が好きだから文学部に進学しようとぼんやり考えていた高校生の瀬川朝彦は、「日本文学の最初の一滴」という言葉に、奇妙なくらいのロマンを感じた。
古事記には比喩表現もあったし、オノマトペもあった。海水を搔き回す様を「こをろこをろ」と表現し、比喩表現の解釈次第で物語が大きく広がった。そこに込められた日本文学の源泉を探すのが面白かった。川底を攫って砂金を探す感覚や、土を一粒一粒払って化石を探し当てる感覚に似ていた。
そうやって、三十五歳になった。十八歳の自分が内見し選んだ安アパートに未だに住んでいる。今では朝彦が一番の古株だ。資料や論文を読むのと同じくらい真剣に、預金通帳を眺めることが増えた。
ほら、今だって、ふと視界に入った電気代とガス代の明細に手を伸ばし、スマホの電卓で今月の生活費を計算している。栗山が今日の焼き肉を奢ってくれて本当によかった。あれが割り勘だったら今月後半の食費が半分になっていた。
それでも、そんな毎日の中で、金を探し、新たな化石を掘り当てようとしている。
*
学部生時代に四年、大学院を修士課程の二年、博士課程の三年と、かれこれ九年過ごした慶安大学は、新宿と池袋のちょうど間にある。山手線の内側の割に、広大な敷地に緑の映える美しいキャンパスだと学生時代に思った。今も変わらず、正門から校舎へ続く並木道を学生達が闊歩している。
慣れ親しんだ文学部の校舎は、数年前に新しいものに建て替わった。教室と廊下を隔てる壁はすべてガラス張りになっていて、授業の様子がよく見えた。
貫地谷先生の研究室はフロアの奥だった。白を基調とした明るい廊下を抜け、先生のネームプレートが掲げられたドアをノックする。その音まで、昔と違って気取った響き方をした。
どうぞ、という応対の声は、貫地谷先生のものではなかった。
「おう、瀬川、久しぶり」
小柳は、研究室の中央にあるテーブルで大量の本に囲まれていた。何年か前に研究者同士の飲み会で会って以来だが、大きく体形も変わっていないし、特別老けた様子も、逆に若返った様子もない。
小柳が酒に酔うと「俺は意外と目が可愛いんだぞ」とよく言っていたのを、ふと思い出す。確かに人のよさそうな愛嬌のある目をしている。栗山と「小柳先輩ってコーギー犬っぽいよな」と言い合ったことも、そういえばあった。
普段はここで貫地谷先生がゼミの授業をやっているのだろうが、小柳はまるで自分の研究室かのように「そのへん座りな」と朝彦に椅子を勧めた。
「お久しぶりです。先輩も元気そうですね」
「寄る年波には勝てませんよ。二十歳以上年下の大学生が眩しいこと眩しいこと」
笑いながら、小柳は棚に置いてある電気ケトルの中身を確認し、コーヒーを淹れてくれた。十年以上前、朝彦が院生で、彼が研究員だった頃みたいに。
あの頃、小柳は頼もしかった。院生になったばかりの自分達より広い見識を持ち、資料の飲み込みも考察も深く、何度も彼と議論し、執筆した論文も必ず彼に意見をもらった。大学が所有する古事記の版本、それも、本居宣長が古事記研究を行うより前の江戸時代前期に書き写されたものを、まるでこれを持って生まれてきたみたいな顔ですらすらと読む小柳の背中は、研究者としての鋭さと崇高さを放っていた。
研究者としての自分の未来を想像するとき、ひとまず十年後は小柳のようになっていたいと、そう考えたものだ。
若かった瀬川朝彦には、現実の厳しさが推し量れていなかった。見えていなかった。あの頃からすでに、小柳の進む道は危うかったのだ。
「貫地谷先生は?」
「入試課に呼び出された。先生、今年は学部の入試担当なんだよ。推薦入試やら何やらで慌ただしいみたいだ。ゆっくり待っててって言ってたよ」
紙コップを差し出され、礼を言って受け取る。ふーっと息を吹きかけると眼鏡が曇った。小柳がかけている眼鏡が、自分のものとほとんど同じデザインなことに気づく。
「小柳先輩は、今は慶安大で教えてるんですか?」
「いいや」
マイカップでコーヒーを飲みながら、小柳はゆっくり首を横に振る。
「非常勤で教えてた大学を一昨年に雇い止めになってから、さっぱりだ」
「じゃあ、研究員ですか?」
「全然募集がかからないの、瀬川だって知ってるだろ?」
その通りだ。理系分野ならまだしも、朝彦達のような人文系の研究員の募集なんて、なかなかない。
「じゃあ、慶安大で研究費を払って研究生をしてるんですか?」
「まあ、そんなところかな。貫地谷先生の恩情で、研究室と学内の資料を使わせてもらってるって感じだ」
ああ、住み着いてるという噂は本当なのか。落胆にも似た感情が、胸の奥で黒ずんで萎んだ。小柳の首を真綿で締めつけている気分になる。講師をしてるんですか? 研究員ですか? 研究生ですか? そうやって、彼が息をする場所を一つ一つ潰している。
わかっていてこんな言い方をしてしまったのは、雇い止めを言い渡されたときの、岸本教授の額の三本皺を思い出してしまったからかもしれない。カップ麵を食べながら大石先生が呟いた「ポスドクの辛いところだね」という言葉を、栗山が奢ってくれた焼き肉の味を、思い出したからかもしれない。
「俺も非常勤講師をしてる大学が、来年の三月で雇い止めになりそうなんです」
「うわ、しんどいなあ。それで、先生に相談しに来たってわけか」
「未来が見えないですよ」
ふふっと笑って、紙コップに口をつける。ふと、小柳の手元を見た。貫地谷先生の蔵書に、大学の資料室から持ち込んだ資料、学内のプリンターで出力したらしい論文の束。小柳本人が使っているノートパソコンには、大学名の入ったシールが貼ってある。貫地谷先生から借りているのだろう。
「あはは、そうだな。とりあえず貫地谷先生にいろいろ愚痴ってみなよ。もしかしたら、俺みたいにタダでここに居候させてもらえるかも」
「居候って、さすがにまだ家は追い出されてないから大丈夫ですよ」
でも、せめて貫地谷先生が「僕の研究室にたまに来ていいよ」と言ってくれるなら、無職になっても研究は続けられる。自費で購入できる資料には限度があるし、大学が収蔵する資料にアクセスできなければ、研究者はそもそも研究できない。金を払ってでも研究生としてどこかの大学に所属していたい理由は、そこにある。
「でも、今が踏ん張り時ですよね」
呟いた瞬間、廊下から足音が聞こえた。ドアが開き、「いやいや、お待たせ!」と貫地谷先生が戻ってくる。綿菓子みたいな白髪は、昔も今も変わらない。
「悪いね。入試課の人達、話が長いんだよぉ」
入れ替わるように小柳が「じゃ、俺は昼飯食べてきまーす」と席を立った。
「今くらいの時間がね、学食が空いてていいんだよ」
じゃあな、今度酒でも飲もうよ。朝彦に手を振って、小柳は研究室を出ていった。コーヒーを淹れた貫地谷先生は、院生時代のように「さてさて、今日の相談はなんだね」と朝彦の向かいに腰掛ける。
「明け透けに言ってしまうと、先生に泣きつきに来ました」
雇い止めの話を詳しくしなくても、先生は事情を汲んでくれた。朝彦の話にうん、うんと頷き、その首肯は次第に色褪せるように小さくなり、最終的に目を伏せた。
「困ったなあ。僕のところにもさ、講師や研究員のなり手を探してるって話は今は来てないんだ。最近はさっぱりだよ」
「ですよね~。来てるなら、真っ先に小柳先輩を推薦してるだろうし」
でも、こうして貫地谷先生に泣きついておけば、いざ講師の話が先生の耳に入ったとき、小柳よりも十歳若い自分を推薦してもらえるかもしれない。そんな嫌らしい期待が、朝彦の喉元で渦を作っていた。
ところが、小柳の名前を出すと、先生はあからさまに「参ったな」という顔をした。
だから、聞くことにした。
「小柳先輩が、大学に住み着いてるって噂を聞いたんですけど」
「住み着いてるってわけじゃないけど、家に帰るのが面倒だって、最近はよくここに泊まり込んでるよ」
先生が指さしたのは、壁際のソファだった。鼠色の古びたソファの上には、薄いブランケットが一枚置いてある。
「いつから来てるんですか?」
「三ヶ月くらい前かな。研究費が払えなくて研究生の資格を剝奪されたって、相談しに来てくれてね」
研究費の支払いが意外と苦しいのは、朝彦もよくわかる。食費や光熱費など、切り詰められるものを極力削って捻出する、なけなしの数万円だ。
来月の食費を取るか、研究費を取るか……そんな選択を迫られる日は近いと、ぼんやり思っている。
「小柳君もうちのOBだし、研究員として頑張ってくれてたから、誤魔化し誤魔化し僕の研究室で好きにさせてたんだけど、いよいよ職員連中がうるさくなってきた」
OBだろうと卒業してしまえば部外者だし、元研究員とはいえ、任期が切れてしまったらやはり部外者だ。学生のように学内の施設を使うのも、収蔵資料を使って研究するのも限度がある。
「さっきも、入試課での打ち合わせはすぐに終わったんだ。そのあと教務部の職員に捕まってね。そろそろ小柳君を追い出してくれと言われてしまった」
貫地谷先生の視線が、小柳が先ほどまで座っていた場所に移る。小柳の資料の中には、朝彦がちょうど読み込んでいる本もあった。そういう話をする空気に全くならなかったのが残念で、虚しいと思った。
二十代前半は、いつだって誰とだって研究のことで話が弾んだ。古事記、日本書紀、風土記、万葉集――文字を持たなかった日本人が、漢字の伝来と共に文字を手に入れ、それまで口述で伝えられてきた神話や伝説を〈文学〉として残し始めた時代に思いを馳せることで、一日が埋め尽くされた。
それが今はどうだ。小柳としたのは、ポスドクは未来が見えないという話だけだ。
「すいません、僕が泣きついていい状況じゃなかったですね」
「いや、瀬川君も大変なときだろうから、相談に来てくれてよかったよ。力になってやれなくて申し訳ない」
手元の紙コップは、いつの間にやら空になっていた。朝彦は白いコップを小さく折りたたんで、テーブルの下のゴミ箱に捨てた。
駄目元で来たんだからといくら思っても、腹の底で落胆している自分がいる。先日、大石先生から「ごめん、やっぱり講師の口は僕の守備範囲には全然なかった」と頭を下げられたから、余計に。
でも、それを言葉や態度には出せなかった。出せたら気分は少しだけ晴れて、貫地谷先生も「もう少しいろいろと当たってみるよ」と言ってくれるかもしれない。だが三十五歳にとってそれは、結構、難易度が高い。
研究室のドアがノックされ、学部生らしき男子学生が一人やってきた。借りていた資料を返しに来たようで、「来客中にすみません」とこちらに一礼し、本棚の前を無言でうろうろしたと思ったら、来るときと同じだけの本を抱えて研究室を出ていく。
「熱心な子なんだよ」
ふふっと笑った先生が、「卒業後は院進したいらしい」とつけ足す。目の奥が、少しだけ陰った。
「地獄の道だぞ、って言ってあげてください」
乾燥しきった自分の笑い声に、寒気がした。研究者の道は、茨を通り越して地獄。そんなの、ポスドクの鳴き声みたいなものなのに。
そうだとしても、十歳以上年下の学生に向かって言うことじゃない。先輩として、大人として、そんな背中を見せていいわけがない。
でも、現実はどうしたって地獄なのだから仕方ないだろう。こめかみのあたりに、呆れ顔で舌打ちをする瀬川朝彦がいる。
「小柳先輩もさっき言ってましたけど、先生も一緒に今度飲みましょうよ。栗山も飲みたいって言ってました」
「彼、会社を興したんでしょう? 面白そうな話が聞けそうだから楽しみにしてるって伝えておいて」
どんなに深刻な話をしても、どうしようもないという結論で終わっても、とりあえず「今度飲みましょう」と言えば笑顔でその場は終わる。
単純なようで、質が悪いな。そんなふうに思いながら、朝彦は研究室を後にした。
エレベーターで一階に下りたら、昼食を終えた小柳が戻ってきたところだった。
「おお、帰るのか」
「今度飲みましょうって、貫地谷先生も誘っておきました」
「いいねー」
朝彦と入れ替わるように、小柳がエレベーターに乗り込む。
「瀬川」
咳払いでもするように、小柳に名前を呼ばれる。エレベーターの扉が、音も立てず閉まっていく。
「お前は気をつけろよ」
肩を竦めて笑った、コーギーみたいな顔。かつて憧れもした一世代上の研究者で、今は高齢ポスドク。いや、大学に無断で居座っているから、研究者と胸を張っていいのかすら、少々危うい。
気をつけろよ。その意味を問いただす間もなく、素っ気なく扉を閉めたエレベーターは、無言で上昇していった。
小柳が大学所蔵の古事記の版本を盗んだと貫地谷先生から連絡がきたのは、それからたった一週間後だった。
*
「窃盗なんてやる人かよ」
駅から大学までの道中、栗山は三度そう繰り返した。守衛所で貫地谷先生の名前を出し、一週間前と同じように文学部の校舎へ向かった。残暑の終わりを告げる冷たい雨に、校舎からこぼれるオレンジ色の照明が揺らぐ。
貫地谷研究室には、先生だけでなく見知らぬ職員が一人いた。年齢的に、どこかの部署の課長クラスの職員だろう。
「おお、栗山君も来てくれたのか」
目を丸くした先生とは対照的に、職員は「完全な部外者じゃないですか」と渋い顔をした。
「すいません。小柳先輩とは院生時代に親しかったんで、つい」
栗山は貫地谷先生に「お久しぶりです」と深々と一礼し、目の前の椅子に腰掛けた。こんなときでもなければ、起業したことや会社のことを先生に報告しただろうに、とてもそんな空気にはならない。
恐る恐る、朝彦も栗山の隣に腰を下ろした。
「わざわざ呼び出して申し訳ないね、瀬川君。君も小柳君とつい先日会ってるから、何か気づいたことはないかなと思って」
貫地谷先生は、この一週間で体が一回り縮んでしまったように見えた。深くうな垂れた顔には、うっすら隈までできている。
「小柳先輩が、その、版本を盗んだんですか……?」
「盗みましたよ」
答えたのは先生ではなく職員だった。両腕を組み、神経質そうな眉間に深く皺を寄せ、唸るように溜め息をつく。職員はそのまま、大学図書館部の係長をしている五木だと名乗った。
「借りた本を返却せず卒業する不届きな学生は毎年いますけど、今回はそんな次元の話じゃない。大学所蔵の貴重な資料を学外に持ち出し、失踪したんです」
「失踪……?」
ゆっくり、貫地谷先生を見る。遅れて栗山が「どういうことですか」と聞いた。五木は、針を刺すような目線を先生に向けた。
「一昨日の午後、小柳君に頼まれて、図書館から古事記の版本を借りてきた」
「寛永二十一年刊行のやつ、ですよね」
古事記の写本・版本は数多く出回っていて、慶安大にも複数所蔵されている。その蔵書の中でも寛永二十一年刊行の古事記は最も古い。全三巻、袋綴じ、四つ目綴じ。刊行から四百年近い歳月の中でさまざまな人の手に渡り、書き込みや貼り紙も随分されているが、今は慶安大に貴重な資料として保管されている。
「そうだよ。瀬川君や栗山君も何度も見た、あの古事記だよ」
学生だろうと教員だろうと許可なく見ることはできないが、文学部の教員や研究者は、申請すれば自分の研究室へ持ち込むことが許されている。勝手に研究室に住み着いている小柳にはもちろん無理だが、貫地谷先生なら借り受けることは可能だ。現に朝彦も栗山も、院生時代にあの古事記を何度も読ませてもらった。
「小柳君に古事記を預けて、僕は夕方から入試課の会議に出た。戻ってきたら小柳君の姿がなくて、古事記が三冊ともなかった」
「ちなみに、守衛所の防犯カメラにその小柳という男が映ってました。ちょうど貫地谷先生が会議をしていた頃、大学を出ています」
先生の体が、しゅんと小さくなる。それを狙い撃つように五木は続けた。
「OBとはいえ、部外者を日常的に研究室に出入りさせていた上、貴重な資料を預けて目を離すなんて無責任にもほどがありますよ。教務部から再三やめるように忠告があったらしいじゃないですか」
一本一本、ちくちくと針を打ち込むような言い方に、先生の体はさらに萎んでいく。栗山が苦々しい顔で身を乗り出した。
「小柳先輩が古事記を持ち出したのはわかったんですけど、失踪ってのはどういうことなんです?」
「古事記がなくなった日の夜、慌てて小柳君の家に行ったんだ。うちで研究員をしてたときから、住所は変わってないはずだから。でも、もう小柳君は住んでなかったんだ。インターホンを押したら全くの別人が出てきた」
小柳が一人暮らしをするアパートは、確か板橋にあったはずだ。最寄り駅は高島平だと聞いたことがある。小柳がとんでもない勘違いをして古事記を持ち帰ってしまったのではないか。そう考えて電車に乗り込む貫地谷先生の姿が思い浮かんだ。
「瀬川君、あれから小柳君と連絡は取った?」
「いえ。先週ここで話をしたきりです。先生から古事記のことを聞いてすぐに電話をしたんですけど、電源が入ってないって」
「俺も瀬川から連絡がきて、小柳さんにメッセージを送ったんですけど、既読すらついてないです」
乾いた溜め息をついた栗山が、天井を仰ぎ見る。五木はさらに表情を険しくした。
「貫地谷先生は大事にしたくないとおっしゃいますが、もう無理です。大学として警察に届け出ると、図書館部の部長も言っています。あなたの勝手な行動が事の発端なんですから、先生も自覚してください。これはなあなあで終わらせられることではありません。あの貴重な資料を適当に売り払われでもしたら――」
「先輩はそんなことしないですよ」
咄嗟に出た言葉は予想外に攻撃的で、五木はぎろりとこちらを睨んできた。
「他大学で研究生をやってたのに、研究費が払えなくなってうちに転がり込んできたらしいじゃないですか」
「どれだけ困窮していようと、あんな貴重な資料を盗んで売り払うわけがない。僕達は研究者です」
栗山が、ぎこちない動きで朝彦を見た。
「僕達は古事記に惹かれて、古事記を愛して、研究してきたんです。研究対象である資料の価値は、僕達が一番理解しています」
「理解しているから、売ったらいくらになるかわかるし、その金額に目が眩むんじゃないですか? 研究じゃ腹は膨れないし、古事記の研究なんて、どう頑張ってもお金にならないでしょう」
そんなことを、古事記の研究者である貫地谷先生と朝彦、かつて研究者だった栗山の前でよく言えるものだ。この五木という男は、本当に大学図書館を管理する部署の人間なのだろうか。沸き立つ怒りと憤りを抑え込み、朝彦は鼻から息を吸った。
「小柳先輩はそんな人じゃないです」
彼が経済的に苦しいことも、将来に不安を抱えていることも、理解できる。同じ立場の人間だから嫌でもわかる。でも、心から「小柳先輩はそんな人じゃない」と言えた。栗山も、貫地谷先生も、深々と頷いてくれた。
「あなた方がどう思おうと、その小柳博士という男が大学の資料を盗んで姿を消したのは事実なんです。僕はこのあと警察に通報します。ここにも警察がくるでしょうし、お二人に話を聞くこともあるでしょう」
先生と朝彦の顔を五木は睨みつける。自分の右頰がぴくりと痙攣する。奥歯を嚙み締めても、なかなか鎮まらない。
「教え子やお仲間のためを思うなら、捜査にご協力をお願いします」
苛立ちを断ち切るように席を立った五木は、朝彦達に素っ気なく一礼して、研究室を出ていく。
しばらく、誰も口を利かなかった。貫地谷先生はうな垂れたままで、栗山はテーブルに肘を突き、額に手をやった。
朝彦は、目の前の本棚を眺めていた。日本神話とインド古代叙事詩の比較、古事記における恋の起源と結婚・出産、医学の視点から見る古事記……タイトルを眺めていると、どこかから「どうして」という声が聞こえる。
どうして古事記を盗んだんですか。どうして姿を消したんですか。どうして、こんなことになったんですか。
雨が強まったらしく、研究室の窓の向こうから忙しない雨音が聞こえ出した。どれくらいそうしていたかわからないが、おもむろに栗山がざらついた溜め息をつき、「飯でも食いましょうか」と言った。こういうときにこういうことを言うのが、自分の役目だとばかりに。
「すぐ側の定食屋、十月に入ると秋刀魚定食出してましたよね。久々に食いたいな」
「ああ、あそこ、随分前に閉めちゃったんだよ」
コロナが酷かった頃かな……ぽつぽつと言葉をちぎるように呟いた先生に、栗山は深々と肩を落とした。
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