- 2023.10.23
- 書評
最も救いなく人を恐怖させるもの
文:内田 樹 (思想家 神戸女学院大学名誉教授)
『自選作品集 海の魚鱗宮』(山岸 凉子)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#コミック・コミックエッセイ
この夏、山岸凉子先生の「怖いマンガ」について書いて欲しいというオファーが二つ続けて来た。今夏は例年にない酷暑になりそうだから「背筋が凍るほど怖いもの」の需要が高まるという話が出版社の企画会議で出たのかも知れない。その会議のようすを想像しているうちに、私がそこにいたらどんな提案をするだろうか考えた。「内田君の考える『背筋が凍るもの』って何?」と訊かれたら、少し考えてこんなリストを挙げるのではないかと思った。
エドガー・アラン・ポオの『ヴァルドマアル氏の病症の真相』、上田秋成の『吉備津の釜』、スティーヴン・キングの『シャイニング』、F・W・ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』、トビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』、そして山岸凉子の『わたしの人形は良い人形』。
こうやってタイトルを書いているだけで背中がぞくぞくしてくる。怖さの質はそれぞれに違う。どうして「そんなもの」に取り憑かれなければならないのか「理由がわからない」という怖さもあるし、「怖いもの」の解像度が低いせいで「何だかわからないので怖い」ということもある。そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、最も救いなく人を恐怖させるのは、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という物語ではないかと思う。山岸先生のマンガはまさにそのような恐怖譚である。
外部から悪鬼の類が襲ってくるのであれば、何らかの手立てを講じて、それと「戦う」ということができる。結果的に負けるにしても、「戦う」という構えをしている限り、なんとか自尊感情を維持することはできる。でも、それができない場合がある。自分を怖れさせるものがあまりに強大であるために、「戦う」ことができないという場合がそうである。恐怖のあまり自我が解体してしまって、戦うことなど思いもよらず、ただひたすら絶叫しながら、あてもなく絶望的に逃れ続けることしかできないという話はたしかに怖い。すごく怖い。それでも、逃げられる限り、どこかで逃げ切るチャンスはある。『シャイニング』でも『悪魔のいけにえ』『ハロウィン』でも『スクリーム』でも、よれよれになりながらも、主人公はかろうじて逃げ切ることができた。
でも、絶対に逃げ切れない場合がある。それは自分を恐怖させているのが自分自身だという場合である。「恐怖するもの」と「恐怖させるもの」が同一であれば、いかなる手立てを講じても、人は恐怖から逃れることはできない。
上に引いたポオの『ヴァルドマアル氏の病症の真相』はそういう恐怖譚である。これは死の直前に催眠術をかけられたせいで、死ぬことができなくなってしまった男の話である。物語の最後で、催眠術を解かれたヴァルドマアル氏は生物学的にはたしかに死ぬのだけれど、彼はその時に自分の現状をうっかり「私はいま死んでいる(I am dead)」という現在形で語ってしまう。永劫にまで引き延ばされた「死につつある苦痛」のうちにヴァルドマアル氏はわれとわが身を釘付けにしてしまうのである。と要約しているだけで怖くなってきた。私の哲学上の師であるエマニュエル・レヴィナスはどこかでこのポオの短編を「この世で最も怖い話」だと書いていた。
山岸凉子先生の「怖いマンガ」もこの怖さに深いところで通じている。山岸先生の「怖いマンガ」の主人公たちは全員若い女性で、みんな信じられないくらい怖い思いをするのだが、いくつかのマンガでは、主人公たちはこの恐怖を振り払うことができず、この恐怖をエンドレスで苦しみ続けることを暗示して物語は終わる。
彼女たちが恐怖を振り払うことができないのは、彼女たちの恐怖が外部ではなく、彼女たちの内部に起源を持つからである。彼女たち自身の心の底にわだかまる「ゆがみ」が恐怖の原因なのである。彼女たちが「ゆがんで」しまったのは、多くは幼児期の精神外傷(しばしば親によってつけられた傷)のゆえである。精神外傷とは、「それについて語ることができないという不能が人格をかたちづくるような経験」のことである。彼女たちは自分の中に「外傷的な何か」を抱え込み、それに支配されているのであるが、それが何であるかを語ることができず、そのようなものを抱え込んでいることさえ知らない。いわば「自分自身を毒し、自分自身を損なうものであること」が、彼女たちのアイデンティティーを形成しているのである。だから、彼女たちが恐るべきものと向き合うとき、うかつに「わが身を守る」という構えをとると、それは「恐るべきものをさらに強化する」ということになってしまうのである。救いがない。
でも、このような絶望的状況は山岸先生が頭で考えてこしらえたものではないと思う。先生が他人の経験として見聞きし、またおそらく部分的にはみずから味わったことのある「救いのなさ」なのではないかと私は推察している(山岸先生、違っていたらごめんなさい)。
この巻に収められた5編を一つ一つ見て行こう。
最初の『海の魚鱗宮』が典型的な「トラウマ的恐怖譚」である。幼児期の忌まわしい記憶を抑圧することでおのれの罪の意識を麻痺させてきた人の身に、忘れようとしていたことと同じ「怖いこと」が起きる。「抑圧されたものは症状として回帰する」というフロイトの洞見は山岸先生の「怖いマンガ」を読むとしみじみ真理だと思う。
『瑠璃の爪』は嫉妬というもう一つの「恐るべきもの」の物語である。嫉妬というのは完全に不毛な感情であって、そこからは「よきもの」は何一つ生まれない。嫉妬をあらわにすれば、それは嫉妬の主体も、その対象をも深く傷つける。嫉妬を否定すれば、引き受け手を失った妬心は「生霊」となって人を害する。
『源氏物語』では六条御息所の嫉妬が葵上や夕顔を呪殺するのだが、これは六条御息所という高貴な女性が「嫉妬」という筋目の悪い感情を引き受けることを拒絶したことから起きた惨劇である。誰も「製造者責任」を引き受けてくれない嫉妬は「生霊」となってさまよい出て、嫉妬の対象に取り憑く。
『瑠璃の爪』では、模範生であった姉の(本人が認めようとしない)美しく恋多き妹への嫉妬が「生霊」となって、妹を襲ううちに、わが身に戻って来てしまう。
『鬼来迎』は「母親の中にひそむ子どもへの殺意」という山岸マンガの「最も怖いファクター」が軸になった作品である。同種のものとしては『夜叉御前』、『汐の声』があり、父親が娘のトラウマの原因であるという「意外な設定」の作品には『天人唐草』がある。どれもすごく怖い。
子どもは親に依存して生きる他ない。だが、過度に依存すれば親は子どもを負担に感じ、子どもを疎んじるようになる。疎んじられれば子どもはいっそう心細くなり、さらに親に依存するようになる。この悪循環のうちで、子どもの存在は親の心の中にゆっくり「憎悪」を培養し、やがてそれが「殺意」を形成するに至る……。
このような説話原形はおそらく世界中の民話や恐怖譚のうちに見られるはずである。けれども、「親の子に対する殺意」を認めることについてはつよい心理的禁忌が働くから、民話ではふつう殺意を抱くのは「邪悪な継母」に置き換えられる。でも、本来は「母親」なのだと思う。この禁忌をまっすぐに描いた点が山岸先生はすごい。
『悪夢』もまた『海の魚鱗宮』と同系列のトラウマ系恐怖譚である。自分がほんとうはなにものであるのかについての自覚の欠如が主人公メイの人格を形成している。自分が殺人者であることを忘れているということが、彼女がかろうじて「正気」を保つことを可能にしている。いや、「正気を保つ」ではなく、この場合は「狂気を保つ」と言うべきなのだろう。「部分的に狂人であること」によってかろうじて日常生活をやり過ごすことができている人がこの世にはいる。少なからずいる。
『パイド・パイパー』も、忘れようとしていた幼児期のトラウマ的経験の現場になぜか立ち戻り、その時と同じ「怖いこと」を経験してしまう女の話である。自責の念にさいなまれることを拒んで、それから目を背けようとしたものは、必ず「不気味なもの」として回帰してくる。それは後悔も罪責感も嫉妬も同じである。
どれもよくこんな怖い話を思いつくな……と絶句するほど怖い話ばかりである。でも、これは作家的な野心の達成というのとは違うのではないかと私は思う。山岸先生は実はこのような「怖いマンガ」によって祓いをしているのだと思う。先生の心の奥底にある「怖いもの」を明るいところに引きずり出して、その瘴気を希釈しようとしているのである。「お祓い」なのだから手抜きはできない。うっかり一番怖いところを祓い残したら、そこから繰り返し「怖いもの」が甦って来る。膿は出し切らなければいけない。だから、これ以上怖い話を思いつけないというところまで恐怖の深みに垂鉛をおろすことを山岸先生はミッションとして自らに課しているのである。だと思う。
だから、事実はありのままに、そのまま受け入れる方がいい。経験したことは、それが自分のおぞましい内面をあばいてしまうとしても、恐れずに開示した方がいい。それが「怖いもの」を祓う最も確かな方法である。山岸凉子先生は繰り返し読者にそう伝えているように私には思われる。それがどれほど困難な事業であっても、「正直にありのままを語ること」。それがトラウマ的経験からの自己治癒の手立てとしても、あるいは物語を「創造」するための足がかりとしても、最も確かなことである。山岸先生がそう考えておられるとしたら、私はこの知見に心からの同意を表したいと思う。
という解説のせいでせっかくの怖い話の怖さが減じてしまっては解説を書いた甲斐がない。読者のみなさんはこれを読んでもっと怖い思いをして欲しい。
山岸先生、これからも怖い話をどんどん描いてください。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。