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門井慶喜が「江戸時代の金融市場」に挑む!——新連載「天下の値段 享保のデリバティブ」に寄せて

門井慶喜が「江戸時代の金融市場」に挑む!——新連載「天下の値段 享保のデリバティブ」に寄せて

門井 慶喜

門井慶喜「はじまりのことば」

出典 : #WEB別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

 以下、金融の話である。なるべくわかりやすく説明したい。
 江戸時代には、たとえば旗本の給料は米で支払われていた。8000ごくなら高給取り、200石ならまあまあ。10石以下なら貧乏旗本。
 1石というのは兵士1人を1年間養うことのできる食糧というほどの意味の単位で、要するに米の量である。ところが旗本というのも人間なので、米ばかり食っているわけにもいかないし、こまごまとした日常の買いものもあるし、ときには外食だってしたい。
 そういうものに対しては、彼らはぜに、つまり貨幣を使用した。江戸の場合なら夜鳴きそばが1杯16文とか、日本刀が1振り5両とかいう具合に代金を支払わなければならないわけで、当然、この間には、米と銭の交換という手続きが差し挟まれることになる。
 問題はこの交換レートである。これは現代のドルと円とおなじように毎日変化していたので、ドル高、円高にあたる米高、銭高という現象があって(実際そういう言葉もあった)、長い目で見ればシーソーよろしく値上がりと値下がりを繰り返していた。
 これは旗本にとっては死活問題だった。何しろ毎年もらえる給料(米の量)は基本的におなじなのだから、交換時に米の値段が高ければ手にする銭はたくさんになるし、低ければ少しになる。
 収入が一定しないのである。もしも娘の結婚などという金のかかる時期にたまたま米安銭高の世にぶちあたったりしたら、それこそ家計は火の車どころか、破産の危機にさえ瀕する。まったく笑い事ではないのである。
 いや、旗本などはまだましである。これが全国各地の大名となると、元金がはるかに大きくなる。
 かりにくまもとほそかわ家の或る年の年貢収入が30万石だったとして、そのうち半分を家臣の給料にあてるとすると、残りの半分の15万石は、大名家の生活および藩行政をまかなうため換金しなければならないのだ。
 もちろん実際はこんなに単純ではないけれども、ほんのちょっとのレートの差で藩収入が大きく上下することは、これでわかるかと思う。事によったら藩政そのもののすうをも左右しかねない。このとき政治ははっきりと経済によって支配されるのである。
 ところで、この交換レートはどこで決まるか。
 おおさかで決まる。時代によって情況はちがうが、或る時期からは大坂どうじまの米市場がはっきり日本最大の米価決定機関になった。
 決定機関といっても一にぎりの豪商が今日はいくら、明日はいくらと決めるのではない。そこに集まる無数の商人による無数の小さな取引によって価格が自然に上下したので、このへんの仕組みは、こんにちの株式市場と同様である。それは人間の意志の介入する余地のない、あるいはきわめて少ない、自然の流れの世界なのである。
 武士としては、正直おもしろくなかったろう。何しろ商人などという本来ならば大人しく自分たちのしつにあってぺこぺこ頭を下げているべき連中が、かえって銭などという不浄のものを転がして、それでもって自分たちの政治も生活も支配している。首根っこを押さえている。
 まったくけしからんことである。大坂の連中はがめつい、意地きたない。そこで武士たちは当然——こういう悪感情のせいばかりではないけれども——規制をこころみるわけで、その規制の内容は、幕府の出している種々のお触れを見ればつぶさにわかる。
 江戸時代の歴史というのは、こういう「大坂の商人」と「江戸の武士」とのあいだの経済戦争によって動かされている面が大きいのである。もっとも、その実態の複雑さのせいか、現代ではほとんど教科書などで取り上げられることはないけれども。現代の日本人の経済に対する視野のせまさ、金融に対する一種の抜きがたい偏見は、こういう歴史的知識の不足が一因かもしれないのだ。
 私は、これまでけっこう経済史を書いてきた。
『家康、江戸を建てる』では川の川曲げとその結果としての農地の拡大、および水路網の拡大の話を書いた。生産と流通である。
 そもそものデビュー作など本のタイトルまで『天才たちの値段』というもので、これは現代小説なので厳密には経済「史」ではないものの、要するに美術市場という、文化財の価値を「値段」という目に見えるものによって無機的に計測する世界を描いている。
 わりと筋金入りだと自分でも思う。そこで今回はもうひとつ進んで、金融史を書くことにした。経済と金融はどう違うのかと聞かれると困るが、さしあたり雑な答えが許されるなら、経済とはモノやカネの交換の話、金融とはカネとカネの交換の話、くらいのところか。
 要するに私はこれからカネ、カネ、カネの小説を書く。どうぞよろしくお願いします。具体的にはさっき記した「大坂の商人」と「江戸の武士」との戦いが主軸になるはずであるが、特に大坂の商人たちの活躍については筆をさきたい。現在しばしば「世界で最初に先物取引がおこなわれた」などと評価されている大坂米市場を、その評価の正否は正否として、まるで読者がその現場に立ったかのように生き生きと描き出せたらと思っている。
 それを規制する武士の親玉は、江戸城にまします第8代将軍。
 そう、あのとくがわよしむねである。吉宗は在世中から「米将軍」と呼ばれたことでもわかるとおり、米価対策をほとんど終生の主題とした。政治史から見るよりも、むしろ金融史から見るほうがおもしろい人物だと思う。

 

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