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直木という特殊な才能を制御できるのは俺だけだ。 失敗続き、借金まみれの直木三十五に盟友・菊池寛が出した処方箋とは?

直木という特殊な才能を制御できるのは俺だけだ。 失敗続き、借金まみれの直木三十五に盟友・菊池寛が出した処方箋とは?

門井 慶喜

『文豪、社長になる』(門井 慶喜)


ジャンル : #歴史・時代小説

『文豪、社長になる』(門井 慶喜)

 同人誌として出発した「文藝春秋」は今や総合雑誌にまで成長。会社も株式会社化し、菊池寛は創業者として代表取締役の座に就きました。世に稀な、「文豪兼社長」が誕生したのです。創刊時の同人たちや執筆に名を連ねた新進作家たちも一人前の作家となりました。ただ一人、直木三十五を除いては……。寛のもとを離れ、また事業に失敗していた直木に寛がかけた言葉とは、一体? 尽きせぬ二人の友情が遺したものとは――。直木三十五賞、感動の誕生秘話がいま明らかに。

 文豪であり、社長でもあった世に稀な男の生涯を描いた、門井慶喜さんの最新歴史小説『文豪、社長になる』(文藝春秋)より一部抜粋してお届けする第4回。


 「文藝春秋」は、その後も部数をのばした。

 寛の胸もふくらんだ。どうせならこの雑誌を、

(もっと、大きく)

 じつを言うと、それは創刊時からの野心だった。部数だけではない。内容の上でも現在のような文壇雑誌のせせっこましい湖を出て、もっと一般的というか、世間普通の大海を行きたい。

 政党の動向だの、工場における労働条件だの、女性の職業進出だのいう時事的な現象もあつかいたいし、海外事情や、家庭問題や、スポーツや、歴史読物や、政界裏話や、長寿の秘訣や、旅行案内や、華族のふだんのお食事拝見といったようなものや……要するに都会の市民が興味を抱くありとあらゆる対象へぶつかりたいのだ。

 もちろん小説の創作も載せる。これをひとことで言うと、

 ――総合雑誌にしたい。

 とは、しかし果たして言えるだろうか。

 なるほどそう呼ばれる雑誌はある。さしあたり「中央公論」と「改造」あたりは二巨頭だろう。だがこの両誌が「総合」の二字をもって称されるのは、基本的には、思想、政治、経済、科学、文学、美術などに関する論文を載せるという意味。つまりは学芸諸分野の「総合」の意ではないか。

 寛はちがう。あるいは「文藝春秋」はちがう。それよりも先にまずこの自分たち人間という体温のある、体臭のある、よろこびもすれば悲しみもする不可思議この上ない存在への興味があって、そこから諸分野へ手をのばす。

 別の言いかたをするならば、かたっくるしい諸分野にわかれる前の身軽な人間そのものを「総合」と見るところから出発する。「総合」の意味がちがうのである。学問芸術を探究するふりをして人間そのものを探究する、いや、人間そのものをおもしろがる。そんな態度ででもあるだろうか。

 したがってその記事の文体は、おのずから論説よりも随筆寄りになるだろう。いっそ談話に近いかもしれない……われながらあんまり漠然としているけれども、もしもそれに成功したら、「文藝春秋」は類のない雑誌になる。

「中央公論」や「改造」のような硬派とはちがう、「講談倶楽部」や「キング」のような軟派ともちがう雑誌になる。そうして雑誌というものは、類がなければ、

(売れる)

 そのためには、まずは「文藝春秋」を商業雑誌にしなければならぬ。寛はそう決意した。もちろん現在でも商業的ではある。本屋の店先で売っているとか、新聞に広告を出しているとかの点では商業的なのだけれども、ほんとうの意味でそうなるには、いまや以下の二点が問題だった。

 一、同人制を敷いていること。

 二、制作費は寛個人が出していること。

 一については言うまでもない。同人制を敷くかぎりは雑誌はひっきょう素人細工の域を出ない。編集も校正も営業もそれぞれの玄人が、毎日着々と、趣味ではなく業務でやらなければ雑誌というのは大きくならない。寛は、同人を解散した。

 さいわい――と言うべきか――横光利一や川端康成、あるいは石浜金作などといったような若手の主力は「文芸時代」のほうの編集にすっかり夢中である上に、作家としても多忙になった。

 つまるところ寛の手をはなれ、一人前になったのである。雑誌創刊の目的の一半は果たされた恰好である。それに「文藝春秋」の仲間には、菅忠雄のような人間もいた。菅は公式にではないものの事実上の同人で、しかも小説よりも編集のほうに天分があり、すでにして編集長みたいな存在だったから、解散後の新しい組織づくりも円滑に進んだ。今後はこの菅忠雄が業務の中心となっていくだろう。

 編集のほうはそれでいいとして、もうひとつ、二の会計の問題はいくらか厄介だった。

 それまでもいちおう「文藝春秋」は文藝春秋社なる団体が刊行していることになっていたし、発売ももう春陽堂に依存せず、何とか自分たちでやっていたけれども、実際のお金は、要するに寛が自分の財布から出し入れしているだけ。

 収支の計算も杜撰(ずさん)というか、そもそも帳簿をつけていないのだから杜撰以前である。武家の商法ならぬ文士の商法。いままで何事もなかったのがむしろ奇跡的なので、寛はいろいろの試みの末、文藝春秋社を株式会社とし、みずから取締役社長の座に就いた。

 資本金五万円。ここにおいて組織的にも、会計的にも、個人と法人が切り離されたのである。これにより寛は、ときどき社員から、

「菊池さん」

 でも、

「菊池先生」

 でもなく、

「社長」

 と呼ばれるようになった。ときに「菊池社長」とも。

(文士が、社長か)

 多少の満足がないでもなかった。余談だがこの法人化以降、社員がよく働くようになった。寛は、

(なるほど)

 と思うところがあって、人にはこう言い言いした。

「人間というのは、おもしろいものだね。おなじ仕事でも個人商店でやるのと株式会社でやるのじゃ気概がちがうんだ」

 これは寛の勘ちがいだった。あとで社員のひとりが打ち明けたところでは、個人経営の時代には月給も寛の財布から出るわけで、出る日も金額もばらばらだったからまったく安心できなかったのだという。

 特に家族のある者は、心配がひととおりでなかった。その月給がこのたびの法人化によって毎月決まった日に、決まった額が出るようになったので働きやすくなった、それだけの話だった。気概うんぬんは関係なかったのである。

 ともあれこの結果、「文藝春秋」は急速に面目をあらためた。

 雑誌そのものが分厚くなり、そこへ寄稿するのも、だんだん文壇外の著者が多くなった。

 新聞紙法第十二条にさだめる保証金を当局へ納付することで本格的な政治論、社会論も掲載できるようになったため、この雑誌は、名実ともに総合雑誌へと脱皮した。誌名は変わらぬ。総合雑誌なのに「文藝春秋」というのは考えてみれば奇妙だけれど、まあ、それはそれで粋(いき)に見えないこともないし、だいいち経営の実際から言っても、多数の読者にひきつづき買ってもらおうとすれば誌名を変えるのは得策ではない。その総合雑誌化第一号は、大正十五年(一九二六)十二月号だった。

 創刊から、ほぼ四年後である。翌月には部数が十五万を突破した。目次には政治評論家・鶴見祐輔(つるみゆうすけ)による「二大政党か小党分立か」とか、あるいは太田菊子という著者による「婦人記者十年の生活」などといったようなものが出はじめた。政治種(だね)であり社会種である。「文藝春秋」は少しずつ寛の理想に近づいて行った。もしくは寛その人に近づいて行った。

 おのずから、文壇ゴシップは載らなくなった。

 文壇の話題そのものが激減したのだから当然だった。読者もそれを求めなくなった。たしかに雑誌の雰囲気は一段高級になったのである。

 そうなると、

(直木)

 寛は、みょうに気になりだした。

 自分はひょっとしたら、あの無口な貧乏神を、

(捨てたか)

 直木には直木の言いぶんもあるにちがいない。低級だろうが何だろうが創刊直後のもっとも困難で大事な時期にとにかく「文藝春秋」の名を世にひろめ、発行部数をふやしたのは自分ではないか。文壇ゴシップではないか。その功労者をこうもあっさり追放して、口をぬぐって知らん顔とは恩知らずにもほどがある。

 寛は、

(会いたい)

 その思いが、しきりと去来した。

 言い訳はしない。捨てたといえば捨てたのである。そのかわりと言っては何だけれども、たらふく鰻丼を食わせてやりたい。別の仕事をあたえてやりたい。しかし直木はもう東京にはいなかった。三年前、マグニチュード七.九の関東大震災が発生して東京および京浜地方が壊滅的な被害を受けたとき、直木は、

「東京は、もうだめだ」

 と言い残して、着のみ着のままで大阪へ行ってしまったのである。

 震災うんぬんは口実で、ほんとうはやっぱり毎日のように借金とりに責め立てられる生活が耐えられなかったのだと寛は察したものだけれども、ともあれ寛は、その後は直木と会うことはなかった。

 手紙のやりとりのある誰かから消息を聞くだけ。その消息がまた呆れるものだった。何でも直木は大阪でもやはり出版業から離れられず、プラトン社という出版社に雇われたという。

 プラトン社は、生粋(きっすい)の出版社ではない。

 化粧品の製造販売で全国的に有名な中山太陽堂という会社が興したもので、つまりは異業種参入組である。それがこのたび「苦楽」という名のおしゃれな娯楽雑誌を出すことになったため、直木はその経営と編集をまかされたらしい。寛はそれを聞いたとき、

「また経営か」

 舌打ちしたものだった。

 腹が立ったのは、むしろその版元のオーナーに対してだった。化粧品がどれほど儲かるのか知らないが、どうして事前にちょっとでも直木の経歴を調べないのか。

 調べれば雑誌「主潮」の失敗はすぐにわかる。東京での借金まみれの暮らしぶりも。すなわち他はともかくこの男だけは雇ってはいけないと容易に判明するではないか。直木というこの特殊な才能を制御できるのは、

(俺だけだ)

 それはそれとして、日が経つうち、うれしい知らせも舞いこんで来た。

 直木が小説を書きだしたという。しかもその内容は仇討(あだう)ちだという。芥川龍之介や横光利一や川端康成が書くようないわゆる純粋芸術の系統ではなく、大衆小説なのである。

 こんどは埋草ではないのだろう。「苦楽」には創刊号以来、ほぼ毎月、着々と直木の短編が掲載された。各回だいたい四百字詰め原稿用紙二十枚ぶんほど。それらのうちから数編をえらび、さらに新稿数編をくわえて『仇討十種』という単行本もプラトン社から出した。

 このころ東京・雑司ヶ谷(ぞうしがや)にあった文藝春秋社(後述する)の寛の部屋には、それらの雑誌や単行本がつぎつぎと郵便で送られて来た。寛はそのたび安堵したというか、肩の荷が下りた気がした。よく考えれば直木は編集長の身で自分の原稿を採用したわけだからお手盛りもはなはだしいわけだけれども、二、三編読んでみて、

(悪くない)

 寛はそう思った。大衆文学としてはまだまだ標準的な出来ばえの域を出ないけれど、とにかく書きっぷりの明るいのがいい。文壇ゴシップの余徳といえるかもしれない。東京のジャーナリズムでは特に話題にはならなかったが、新人の作などそんなものだろう。

「直木のやつも、もう筆一本で立ってくれたらなあ」

 と社員に言いもした。おとなしく小説や随筆だけ書いていれば経営失敗で借金をこさえることもないし、多額の原稿料がふところに入る。

 講演旅行で一稼ぎもできる。じつはそのほうが直木に向いているのではないか。

 こんな寛の期待は、

 ――直木が、プラトン社を辞めた。

 の報に接してますます大きくなった。理由は容易に察しがつく。どうせ経費を使いすぎるとか、部数がのびないとかでオーナーと対立したのだろう。いいきっかけではないか。

 ところが一か月後に来た続報は、

 ――こんどは、京都で映画事業に手を出した。

 というものだった。

 何でも直木め、聯合(れんごう)映画芸術家協会なる会社を設立して、プロデューサーのような立場になって、制作費あつめに奔走しているとか。

 筆一本どころではない。自分から借金を増やしに行っているようなものである。ほどなく直木直筆の手紙が来た。右の次第をかんたんに報告した上で、

 ――ついては君の人気作『第二の接吻』を映画にしたい。許可してくれ。

 寛はこれを社長室で読んで、

「馬鹿!」

 あやうく手紙を引き裂くところだった。大声で、

「斎藤(さいとう)君! 斎藤君!」

「文藝春秋」編集部の斎藤龍太郎(りゅうたろう)が飛んで来たので、椅子から立ちあがり、手紙を読ませて、

「返事は君が書け。僕は書かん。そんな際物(きわもの)にうつつを抜かす暇があったら小説を書けと言っておけ」

 くるりと背を向けてしまった。

 斎藤は、有能な実務家である。ふだんと変わらぬ声で、

「菊池さん」

 と呼びかけた。社長を社長と呼ぶ世間の美風は、この会社からはとっくのむかしに消えている。やはりどこかに素人くささというか、同人雑誌ぶりが残っているのだろう。寛は、

「何だ」

「原作の使用は?」

「………」

「菊池さん」

「うるさい!」

 寛は体の向きを変え、大またで出口のほうへ歩いて行った。ドアのノブに手をかけて、ドアに向かって、

「許可する!」

 部屋を出た。われながらどうにも感情の始末がつかなかった。

 直木が東京に帰って来たのは、昭和二年(一九二七)の夏だった。

 先に送った十五個の家財道具はすべて田端駅で債権者たちに差し押さえられたため、直木と妻とふたりの子供はとりあえず本郷の菊富士ホテルに身を寄せているという。ろくに着がえもないのだろう。

 話を聞いて、寛はただちに、

「やつを連れて来い。首に縄をつけても引っぱって来い」

 直木が来た。社長室で机ごしに対峙した。社員を出て行かせ、ふたりっきりになると、山ほど言いたいことがあるのに舌が動かない。

 直木は、むろん話さない。

 寛も話さない。じっと直木を見た。その風貌はかなり変化していた。やせっぽちで背が高く、鉛筆のようであることは以前のままだが、そのてっぺんが、つまり額から頭頂にかけての部分が、ひろびろと禿(は)げあがってしまっている。

 そのくせ、まんなかだけ黒いものが残っているので、武士の髷(まげ)のように見える。ちょっと独特の風貌である。激しい心労でそうなったのか、それとも単なる遺伝の残酷な仕事の成果であるのかは寛にはわからなかった。

 寛は、

「直木」

 ようやく、呼びかけた。

 直木はこっちを見おろしている。その顔からは感情はうかがわれない。

「直木」

 もういちど呼んで、金縁の丸めがねを指でもちあげて、

「無口の病気は、治らんようだな」

「……あんたこそ」

「え?」

「あんたこそ、不機嫌だと極端にしゃべらんようになるらしいな。うまいこと言うやつがいたよ。あれは菊池寛じゃない、クチキカン(口利かん)だとさ」

「くだらん。誰が言った」

「俺だ」

「貴様が言うな」

 と口に出したときにはもう、寛は微笑してしまっている。負けである。この直木という、無量無辺の借金とりを相手にしてきた極道者には、自分ごときの𠮟責など蛙(かえる)の面(つら)に水なのだろう。寛は笑いを引っ込めて、

「直木」

「何だ」

「小説を書け。それに集中しろ。貴様にはその才が……」

「あるか」

 と、ふいにまっすぐ聞いて来る。寛はとっさに、

「経営の才よりは」

「そうか」

直木三十五 昭和7年 上海にて

 直木は、それから猛然と書きだした。「キング」や「週刊朝日」や「サンデー毎日」といったような読者の多い媒体につぎつぎと短編を寄せ、掲載された。

 これらの編集部へは、寛が直木を紹介したわけではなかった。直木へじかに注文が行ったのである。どうやら東京の各社もかねて大阪での作品には注目していたようで、帰京を機に、それがいっぺんに花を咲かせた。

 直木は、注文を断らなかった。すべて引き受けた。翌々年には「週刊朝日」で長編『由比根元大殺記(ゆいこんげんだいさつき)』の連載も始めたし、「報知新聞」での連載も持った。直木三十五の名は、小説好きの読者はもちろんのこと、そのほかの一般的な市民の脳裡にも定着した。薹(とう)の立った新進だった。

 筆名も、このころには固定されていた。あの直木三十一、三十二、三十三……などという年齢をそのまま採った校正者泣かせの奇抜な名つけは、すでにして関西時代、三十五に達したところで直木自身が打ち止めにしたのである。寛もかねて、

「つまらん真似はよせ」

 と言っていたのだが、ここへ来てようやく直木も反省したか、あるいはただ単に面倒くさくなっただけか。どうも後者のような気がする。ともあれその直木三十五のこんな流行作家ぶりには、寛は、おどろくよりも先に、

(よかった)

 胸をなでおろす思いだった。

 運というのは、つづくときにはつづくものである。直木は帰京から三年後、昭和五年(一九三〇)六月より、『南国太平記』という長編を連載しはじめた。

 幕末における薩摩藩の内部抗争、いわゆるお由良(ゆら)騒動に材を採ったやはり歴史ものの小説だが、その連載媒体は、ぴったり十年前に寛の出世作『真珠夫人』を掲載したあの「東京日日新聞」および「大阪毎日新聞」だったのである。

 そうして『真珠夫人』と同様に、『南国太平記』もまた大人気となった。直木三十五はまさしく菊池寛なみになったわけだが、その寛もたまたま、またしてもたまたま同時期に、あらたな試みを始めていた。

 娯楽小説雑誌「オール讀物」を創刊したのである。のちに月刊化されるけれども、この時点では定期刊行物ではない。まずは「文藝春秋」本誌の臨時増刊という体裁で、つまり単発のかたちで世に出した。

 総合雑誌ではどうしても或る程度以上には小説のために誌面をさくことができないので、その鬱憤(うっぷん)をこっちで晴らそうという気もあったのだが、それにしてもやっぱり、

(売れる)

 その目算が大きかった。

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文豪、社長になる
門井慶喜

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