〈小田和正が「詞をつくるのは苦しかった」と…オフコース最大のヒット曲「さよなら」に対する“屈折した想い”〉から続く
1970年、オフコースとしてデビューし、音楽の道を究めて半世紀。シンガーソングライターの小田和正は、76歳になった今もなお、透き通るようなソプラノボイスで聴衆を魅了し続けている。
ここでは初の評伝『空と風と時と』(追分日出子 著、文藝春秋)を一部抜粋して紹介する。2011年、東日本大震災が発生。そのとき小田和正の心に浮かんだ思いとは――。(全2回の2回目/最初から読む)
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小田和正の2010年代もまた、東日本大震災を抜きには考えられない。
2011年3月11日。小田は、3月末から始まる予定の全国ツアーのリハーサル中だった。場所は東京世田谷区にあるタッドポウルスタジオ。その時、東京でも、経験したことのないほどの大きな揺れを感じた。その後の報道を見て、小田は予定されている全国ツアーは無理だと感じた。
「ツアーは難しいと思ったよ。物理的よりも精神的に難しかった。歌なんか歌っている場合じゃないというか、歌を歌って、それが救いになるっていうイメージが最初はもう消えたよね。多くの人がそうだったように、歌ってなんだろうと。日常というものがどれだけ大変なことかと。自分の歌を聴くのが、どんどんしんどくなっちゃってさ。なぜかわからないけど、言葉がどれをとっても、そこ(震災)にむすびついていくから。だから、あの日から聴かなかったものね」
しかし、ツアーは約1カ月半遅れて、5月7日、長野から始まった。ツアータイトルは本来の「どーもどーも」に「その日が来るまで」というサブタイトルがつけられた。
ライブで語った「あの日」以降
ツアー初日、会場には、緊張感と不思議な高揚感が漂っていた。
冒頭、小田は「明日」を歌った。2003年にテレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」のエンディングに依頼されて作った曲だったが、この状況のなかで、それはまた新たな響きをもって伝わった。
「リハーサルを再開してからも、1曲目から歌おうとして歌えなかったものね。歌い出しの『君のために ありふれた 明日だけを願う』も、全部の言葉も、あまりにストレートだからさ、ずっと以前に書いた歌があんな感じで跳ね返ってくるとは思っていなかった。初日は、これでいいんだというものを確信したいという気持ちが強かったな。でも何にも関係なく、楽しくやるんだというのもあった。俺ばかりが気張っても仕方ないし、気持ちがチグハグにならないようにね。とにかく自分の思いを伝えようという、そこが一番にあったね。思っていることは全部伝える。それを毎日、毎日考えていたな」
小田は1曲目の「明日」を歌ったあと、あの日以降の自分を静かに語った。長いMCだった。そして最後の曲の前には「僕はぜひとも日本が復興していくのを見たいので……身体に気をつけて長生きしたい」とも語った。そんな言葉が大げさに感じられないほど、被災地でなくとも、当時、日本人の多くは打ちのめされていた。
歌えなくなる場面もあった
最後の楽曲は、約1年前に映画「ロック~わんこの島~」(2011年7月公開)の主題歌にと頼まれ作った「hello hello」だった。映画は三宅島の噴火時の少年一家と犬の物語であり、少年に語りかける歌はやはり震災後の状況のなかでシンクロして響き、小田自身も歌えなくなる場面もあった。
こうして、2011年、小田の全国ツアーは粛々と始まり、10月26日まで、東北地方を除いた地域で行われた。5大ドームも含む25カ所48公演と、大規模なツアーだった。しかもこのツアーから、バイオリン、ビオラ、チェロなどストリングスの面々も全行程帯同することになった。
どの会場も、驚くほど静かな熱気に覆われていた。
当時、私は、いくつかの会場で感じた印象を雑誌「AERA」に書いている。少し引用する。
今回、ツアーを見てきて、改めて感じるのは、小田和正の歌の力である。その歌がもつ包容力といってもいい。小田の歌は時代の色や匂いを感じさせないと言われてきた。しかし2011年のいま、小田の歌は、なんと心に強く優しく沁みてくることか。時代が小田の歌を必要としている、そんな気がする。四国のイベント会社デュークの宮垣睦男社長は、長野の初日からいくつもの公演を見てきて語る。
「ほとんどのお客さんが涙を流している。それを見て、本人もぐっと感極まってしまってね。たとえば『今日も どこかで』、前回のライブであれほど聴いていたのに、僕には違う曲に聴こえてしまって、この状況にまさにストライクにはまってしまった。すごい曲だねと本人にメールしたんですね。みんなそれぞれにストライクになる言葉があるんですよ。リタイアした人もいっぱいいるし、若い人もいっぱいいる。それぞれに響く歌があるんでしょうね。お客さんの異常な熱気というか、こういうコンサートはあまりないです。
「自己完結」から「人に手渡す音楽」へ
いつのことだったか忘れたが、「小田和正の歌はどの時代に突出しているか、“時代の歌”になっているか」といった雑談を吉田雅道としたことがあった。私の念頭にはどうしても1970年代の拓郎や陽水がいて、では小田和正の歌は、どの時代にとりわけ必要とされた(る)だろうかと思ったのである。ファンの人にとっては、それはずっとであって、無意味な設問なのは十分承知だが、会場でその時の会話を思い出し、そうか、小田和正は現在、21世紀、2000年を超えてから、さらに一層、人々から、時代から、必要とされているのではないか、そう感じたものだった。
このツアーが始まる直前の4月20日、小田はアルバム「どーも」を出した。当初は発売も心配されたが、前年からレコーディングが行われ、作業は終わっていた。「どーも」というとぼけたタイトルについて、小田は「俺がステージで叫ぶ時みたいに“どぉ~もーっ!!”って、この一言で、いきなりみんなの懐に入って行けるというかね」と語っている。なにより、〈挨拶する人、渡す人がいてこそ成り立つ言葉〉である。自己表現で完結していた音楽作りから、人に聴いてもらう、人に手渡す音楽へ、まさにそれを象徴する言葉とも言えた。
同時に、「クリスマスの約束」に挑戦し、多くのミュージシャンと交流し、世界を広げた小田の10年間が凝縮されているアルバムとも言えるだろう。多彩であると同時に、言葉の重みが加わり、聴き応えのあるアルバムである。
全10曲中、依頼されて作った楽曲は5曲あるが、小田の場合、それはあくまでもきっかけであり、歌には小田の想い、こだわり、表現が色濃く織り込まれている。たとえば、ドラマ「獣医ドリトル」の主題歌である「グッバイ」は、「風」が印象的な、不思議な味わいの歌だ。
「hello hello」は被災した三宅島の少年に語りかけている詞だが、それを超えて訴えかけてくるチカラがある。
作詞するときに、必ず思い浮かぶもの
小田は「hello hello」をつくるにあたって、「三宅島のどこまでも続く白い道」を思い浮かべたと語っている。イメージの白い道だ。その道の彼方には夏の空が広がる。空と風。小田の歌には欠かせないものだ。そこに、小田の想像(創造)力の源があるのだなと感じる。実際、NHKの「100年インタビュー」で、それを問われ、「さあ、歌詞を書こうと思うと、必ず、とりあえず、空と風が浮かんでくるんだよね」と話している。さらに「空を見て、何かを感じるんですか?」と訊ねられ、こう答えている。
「何を感じてるんだろうねえ。いま見ている空が美しいっていうのもあるんだけど、前にもこういう空を見たんだろうなって思うんだろうね。あの日と同じようだけど、あの日といまとは違うんだって、そういうことを考えるタイプなんだよ」
「東京の空」に込めた思い
本来はノンタイアップで作った曲は5曲ある。
冒頭の曲は、1970年代のフォークシーンを思い出させるスリー・フィンガー奏法のギターで始まる「君のこと」。小田自身がギターを弾いている。そして「君」とは、若き日の友人たち、仲間たちのことだろう。
若い時に「幻想」なるタイトルの歌も作ったこともある同級生たち。そんな友人たちに、小田は「歌い続けてゆくからきっと 元気でいて 君がいないと つまんないから」と歌っている。若いころ好きだった音楽を改めて見直したような歌もある。ちょうどこのころ、小田は1970年代によく聴いていたキャロル・キングの来日公演に行っている。5番目の「誰れも どんなことも」はその影響が感じられる楽曲といわれる。
そしてアルバム「どーも」の最後を飾るのが「東京の空」だ。
2006年の「クリスマスの約束」用に作った曲である。2008年の全国ツアー時には、「ご当地紀行」の際に撮った各地の空の映像がモニターに流れるなか、小田のピアノのみで歌われ、人々の胸を打った。慰められているような、励まされているような、そんな歌である。
小田に、この歌について訊ねた時の問答は、こんな感じだった。
「『さよならは 言わない』とか『東京の空』は、よく書いたなと思うんだよね。相当、根性が入ったものがないと書けなかった。この曲はこうじゃなければダメだという、代用のない材料で書いたんだ」
それは、若いころからの経験に基づいた小田さんの想い、信念みたいなものですか?
「うん、そうだな。なんか、救いが、どこかに救いがあるはずだという想いかな。頑張っても、頑張っても、うまくいかないようだけど、でも結局、自分が頑張ることによって、道が見つかってきたということではないかな。俺の曲のテーマのひとつだよね、きっと」
筑紫哲也からの手紙
小田にとって、「東京の空」の歌詞が、小田自身の実感なのだと感じた逸話がある。それは2007年の「クリスマスの約束」を見たと、ジャーナリストの筑紫哲也から手紙をもらった時のことである。
手紙の日付は2008年1月26日。二人の交友は筑紫がメインキャスターを務める「筑紫哲也NEWS23」のエンディングテーマ曲を1991年に提供したことから始まった。筑紫は2007年末の「クリスマスの約束」を「素晴らしいショーでした」と書き、殊にさだまさしと共作した「たとえば」に感銘し、必ずCD化してくださいねと書いている。筑紫はこの時、肺がんによる闘病中で、「NEWS23」はすでに降板していた。これに対する小田の返信のなかに、こんな文章があった。
番組の感想いただいてびっくり、感激しました。人生の中でこんなふうに心が浮き上がるようなうれしい瞬間というのは滅多に訪れません、ほんとうにありがとうございます。辛い想いをして頑張った甲斐があるというものです。人には頑張ればきっと誰かが見てくれているんだからと言ってきました。でも自分のこととなるとどうにも挫けそうになります。これでまた強い声でみんなを説得できそうです。
挫けそうになった時、きっと誰かが見てくれている、小田自身がそう思って自らを励まし生きてきた、そんなことがわかる手紙である。同じように、この歌を聴き、励まされてきた人は少なくないだろう。
聴く者の辛さに寄り添う
人に寄り添い、人の心に沁みるメッセージを込めた歌を、小田はある年齢を経てからつくるようになったという印象があった。そう言うと、小田はこう答えた。
「いや、若いころから、俺は結構、こういう曲はたくさん書いてきたつもりなんだよね。頑張っても、頑張っても、うまくいかないのは、みんなもそうなんだろうなと。でも若いころは、それがうまく書けなかったばっかりに、届かなかったんだろうな」
こう言って、小田は「秋ゆく街で」という曲を知ってる? と、訊いた。
「秋ゆく街で」は、1974年10月26日、まだ二人オフコース時代、当時としては破格に大きな会場となる中野サンプラザホールでの開催を決めた最初の「オフコース・リサイタル」のタイトルであり、この日のために小田が作った楽曲である。約50年前に作った楽曲ながら、小田はその場で瞬時にその詞をスラスラと諳んじた。思い入れの深い歌だとわかる。この「秋ゆく街で」と「東京の空」が、小田のなかでは、繋がっているようだった。
「秋ゆく街で」は、「僕の生き方で もうしばらくは 歩いてゆこう」と、時に挫けそうになる自分を励ましている。そうやって一つ一つ乗り越えて生きてきた地続きに、60歳になる小田がいて、「東京の空」が作られたということだろうか。ときに小田の歌が聴く者の辛さに寄り添っているように感じられるのは、小田自身がその不安や苦しさに向き合い、安易な道を選んでこなかったからかもしれない。
ちょうどこのころ、ある編集者が小田のファンクラブ会報誌「PRESS」に文章を書いていた。当時、彼女は大病と闘うなかで仕事をしていた。その文章の書き出しはこうだった。
小田さんは私の人生を見ている。
きっとみなさんもそう思うように、私も思った。
自分のアタマのなかを、日々の出来事を、小田さんは見ているんじゃないか。
ずうずうしくも、思う。
こと、人生の転機において。
「小田さんはなんでも知っている」と。
辛い時に、そっと見守り、励ましてくれる歌。小田の歌をそう感じる人は多いのだなあ、そう思ったものである。
小田にとっての2010年代
アルバム「どーも」の中に、すでにシングルになっていた曲が3曲ある。「今日も どこかで」と「さよならは 言わない」「グッバイ」だ。
「今日も どこかで」は「めざましテレビ」(フジテレビ)のテーマソングとして知られるが、同時に小田が2008年のツアーに向けて作った楽曲でもある。「さよならは 言わない」も、2008年のドーム公演を前に作った曲である。
還暦を迎えた小田が「さよならは 言わない」と歌い、「いちどきりの 短いこの人生 どれだけの人たちと 出会えるんだろう」(「今日も どこかで」)と歌った。この姿勢こそが、60代の小田を貫いていったように思われる。それが小田の2010年代だったといえようか。
しかもその冒頭に、日本は東日本大震災を経験し、それはさらに小田の心情に拍車をかけた。若いころ、決して好きとは言えなかった「ツアー」だが、〈小田の歌を愛する人々に積極的に「会いに行く」〉、小田の2010年代は、そんな10年になった。
「秋ゆく街で」作詞・作曲:小田和正
〈著者プロフィール〉
追分日出子(おいわけ・ひでこ)
千葉県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。「カメラ毎日」編集部、週刊誌記者を経て、『昭和史全記録』『戦後50年』『20世紀の記憶(全22巻)』(毎日新聞社)など時代を記録する企画の編集取材に携わる。著書に『自分を生きる人たち』(晶文社)『孤独な祝祭佐々木忠次 バレエとオペラで世界と闘った日本人』(文藝春秋)などがある。最新刊は『空と風と時と 小田和正の世界』(文藝春秋)。
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