上田早夕里の本を、書庫のどこに置くか。目下の私の悩みである。我が家の書庫の棚は、大雑把であるが、日本人作家と海外作家で分け、さらに「歴史時代小説」「ミステリー」「SF・ホラー・ファンタジー」と、ジャンルで分けているのである。
と説明したところで、作者の場合だ。最初は悩む必要がなかった。二〇〇三年に『火星ダーク・バラード』で、第四回小松左京賞を受賞し、SF作家としてデビュー。当然、「SF・ホラー・ファンタジー」コーナーに置けばよかった。しかし早い段階から、作者は物語の世界を拡大している。お菓子を題材にしたパティシエ小説、やはりお菓子を題材にしたミステリー、妖怪と人間が共存する町を舞台にした妖怪ハードボイルド……。SFだけには収まらないので、本の置く場所をどうするかと思ったが、やはり代表作は、二〇一一年に第三十二回日本SF大賞を受賞した『華竜の宮』である。ならば「SF・ホラー・ファンタジー」コーナーでよいだろうと納得していた。
ところが、二〇一七年の『破滅の王』から始まる、戦時下の上海を舞台にした三部作で、作者は果敢に近代史に斬り込んでいく。もちろんそれ以前にも、トラファルガー海戦をクライマックスにした海洋冒険小説『セント・イージス号の武勲』で、歴史への指向は示されていたが、これほどガッツリと歴史小説に乗り出してくるとは思わなかったので、大いに喜んだものである。
さらに二〇二一年九月には、室町時代の播磨の法師陰陽師兄弟、律秀と呂秀を主人公にした連作集『播磨国妖綺譚』(今回の文庫化に際して、『播磨国妖綺譚 あきつ鬼の記』と改題)を、文藝春秋から刊行。時代小説にも参入した。こうなると、作者の本をどこのジャンルの棚に置くべきか、悩まずにはいられないではないか。まあ、そうやってあれこれ考えるのが、上田作品の一ファンとしての楽しみである。これからもさらに作風を広げて、私を悩ませ続けてほしいものだ。
個人的な話はこれくらいにして、本書の内容に踏み込んでいこう。『播磨国妖綺譚 あきつ鬼の記』は、「オール讀物」二〇一九年二月号から二一年五月号にかけて、断続的に発表された短篇六作が収録されている。先に触れたように舞台は、室町時代の播磨だ。夢枕獏の「陰陽師」シリーズを始め、陰陽師関係の小説や漫画を好きな人なら、播磨と陰陽師の組み合わせで、すぐに一人の人物を思い出すはずである。播磨随一の法師陰陽師・蘆屋道満だ。ただし道満は、あの安倍晴明と同じ平安の世の人。室町では時代が違いすぎる。どういうことかと頭を捻っていたら、意外な形で物語に活用されていた。なるほど、面白い設定を考えたものだ。
なお、二〇一四年から刊行が始まった全三巻の「妖怪探偵・百目」シリーズには、道満一派の末裔を師匠に持つ、拝み屋の播磨遼太郎が登場している。早い段階で、陰陽師及び道満への関心があったと見ていいだろう。
冒頭の「井戸と、一つ火」は、燈泉寺にある井戸にまつわる怪異を、律秀と呂秀が解決する。律秀は薬師であり、漢薬に詳しい。呂秀は僧で、薬草園の世話をしている。そしてふたりは法師陰陽師である。しかも呂秀は、物の怪など人外のものを見て、声を聞くことができる。二人が突き止めた怪異の原因は、鬼の式神であった。事情を聞き、話し合った結果、鬼は呂秀の式神になるのだった。
続く「二人静」は、怪我人を治療するため猿楽一座に赴いた兄弟が、舞の最中に現れた死霊の心残りを晴らす。第三話「都人」は、都の天文生・大中臣有傅と兄弟の交誼が綴られている。第四話「白狗山彦」は、兄弟が山の神夫婦から娘(血の繋がりのない人間)を託される。第五話「八島の亡霊」は、海に出た武者の亡霊たちと話し合った呂秀が、思いもかけない方法で怨みを鎮める。第六話「光るもの」は、薬草園にある木の精の願いを、呂秀と律秀が叶える。ラストの美しい光景が忘れがたい。
といった調子で、兄弟は物の怪と対立することはない。物の怪絡みの事件や騒動を解決するが、戦って滅ぼすような真似はしないのだ。むしろ、物の怪や山の神と意思の疎通をして、相手の願いを理解し、なんとかしようと行動している。そこに本書の、陰陽師物としての独自の魅力があるのだ。
そういえば先に少し触れた「妖怪探偵・百目」シリーズも、微妙なバランスを保って一つの町で暮らしている妖怪と人間が、巨大な敵に立ち向かうため、手を取り合う。本書の「白狗山彦」でも鬼の式神が、
「鬼は人ができぬことをする、人は鬼ができぬことをする」
といっている。異なる存在でも分かり合い、協力し合うことができる。そんな世界であってほしい。作者が本書で伝えたいメッセージの一つは、これだと確信しているのである。
さらにいえば、分かり合うのは物の怪と人間だけではない。人間同士も、同じことがいえる。それを象徴しているのが、律秀と呂秀だ。法師陰陽師といっても、いろいろな違いが二人にはある。律秀は薬師でもあり、物事の理にこだわる。「都人」で書かれている、
「呪いに必要なのは手順を守ることである。やり方を間違えなければ、理によって魔は退く。手順を学び、使い方さえ正しければ、物の怪は自然に退くのである」
というくだりは、律秀の法師陰陽師としての在り方を、よく表している。
一方の呂秀は、幼い頃から物の怪の姿を見て、声を聞くことができた。最初から法師陰陽師としての、強力なアドバンテージがあった。しかしある時期までは、自分が他の人と違うことを悩んでいる。また、兄に比べると人間としては未熟だと思っている(そういう兄も、自分が半人前だと思っている)。それぞれに抱えているものはあるが、兄弟の仲は良好。「二人静」の舞手や、「光るもの」の木の精のように、律秀と呂秀も、互いを助け合い、支え合う存在となっている。そう、ここに描かれているのは、人と人、人と物の怪が支え合う世界なのだ。だから兄弟は物の怪を祓わない。人と物の怪によって生まれるのは、時に切なく、時に幸せな空間なのである。
さて、本を閉じた後、もっとこの世界に浸っていたかったと感じた読者は多いはずだ。安心してもらいたい。本書の刊行と同時期に、シリーズ第二弾『播磨国妖綺譚 伊佐々王の記』が刊行される。「都人」から登場し、「八島の亡霊」で愉快な姿を見せてくれた有傅が、播磨に派遣された理由は、本当に天文観測のためだけなのか。一年ほど先に都の方まで含まれる、大きな出来事が起こるという予言は、何を意味するのか。さらにいえば、かつて蘆屋道満が都に行ったとき、何が起きたのか。都の陰陽師と、播磨の法師陰陽師の、これからの関係も気になる。あれこれ考えると、このシリーズは、さらに大きな物語になりそうだ。その渦中で、兄弟がどのように躍動するのか。実に楽しみでならないのである。
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