- 2024.01.23
- 文春オンライン
「最後の4割打者」テッド・ウィリアムスの足元に横たわる「ある生き物」とは…人間を浮き彫りにする、取材者の洞察力
鈴木 忠平
鈴木忠平が『神様は返事を書かない』(阿部珠樹 著)を読む
著者の阿部珠樹さんに一度だけ会ったことがある。ある野球場のダグアウトだった。阿部さんは幾列か並んだベンチの一番後ろの一番隅に腰かけていた。ほとんど口を開かず、じっとグラウンドを見つめていた。口髭をたくわえた柔和な顔の奥で二つの眼が球場に漂うあらゆるものを拾い集めるかのように静かに光っていたのが印象的だった――。
本書は冒頭、フロリダの田舎町に最後の4割打者テッド・ウィリアムスを訪ねていく場面から始まる。口を開くと止まらない大打者はいきなり趣味のフィッシングのことを話し始めるが、阿部さんはじっと耳を傾け、頷き、やがて彼が伝説となった1941年シーズンの回想へと導いていく。あのとき何があったのか? なぜ4割を打てたのか? 次第に実像が明らかになっていく。ただ、何よりゾクッとするのはラスト数行だ。阿部さんは取材中、ウィリアムスの足元に視線を注いでいた。そしてそこに横たわる、ある生き物を描くことによって、ウィリアムスという人間を浮き彫りにするのだ。それはまさに洞察の力であった。
57歳で他界するまで、阿部さんは野球だけでなく、大相撲やプロレス、競馬などあらゆるスポーツを舞台に作品を書いた。その視線はウィリアムスのような世に知られた英雄だけでなく、敗者や一瞬だけ輝いた伏兵にも向けられた。
1991年の有馬記念で14番人気ながら本命を差し切り、単勝配当1万3790円という競馬史に刻まれる記録を残したダイユウサク。阿部さんは裏街道を歩んできたこの競走馬を描くために、大本命として表通りを駆け抜けてきたメジロマックイーンの物語を並走させる。その視点と構成技術によって、ひとつの勝利と敗北の中から人生に通じる普遍性を抽出していく。
長く付き合った編集者によれば、阿部さんは取材対象と距離を縮めようとはしなかったという。スポーツライターにとってスター選手との関係性は看板になる。あの選手の本音はこの人しか聞き出せない――そうした関係を築くために取材者がより対象に近づく。それもひとつの方法である。だが、阿部さんはアスリートと酒を酌み交わすことはほとんどなく、スポーツを見るときは記者席や関係者席ではなく、一般の客席から見ることを好んだという。それを聞いて分かった気がした。なぜ阿部さんの目には勝負の裏に潜む、まるで人生のような無情や苦味まで見えたのか。なぜ、フィールドに散らばった人間ドラマの欠片を逃さず集めることができたのか。
こんな言葉がある。『取材とは何かを訊ねることではなく、洞察することである』。あえて客席に座し、スポーツの中に人間を見出し続けたライターの足跡。私は本書を読みながら、あの日、野球場のベンチで見た阿部さんの眼差しを思い出していた。
あべたまき/1957年、北海道生まれ。競馬、プロ野球、MLB、サッカー、相撲、ボクシングなど様々なスポーツを取材。著書に『頂上の記憶』『スタジアムの戦後史』『八月のトルネード』などがある。2015年逝去。
すずきただひら/1977年、千葉県生まれ。ノンフィクション作家。『嫌われた監督』で大宅賞ほか受賞。近著に『アンビシャス』。
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