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「3000円の価値はこの50年変わっていない」原田ひ香が『青い壺』に感じた“長生きの皮肉”

「3000円の価値はこの50年変わっていない」原田ひ香が『青い壺』に感じた“長生きの皮肉”

原田 ひ香

生き残った者たちの、豊かで贅沢な絶望

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #小説

 高度成長期を舞台に、砧青磁(きぬたせいじ)経管(きょうかん)の壺がたどる数奇な運命を描いた、有吉佐和子さん(1931-1984)の小説『青い壺』。

 定年後の夫との折り合いや、遺産争い、女学校の同窓会旅行そしてスペイン出身の修道女といった、そのときどきの持ち主のエピソードから、人間のさまざまな心の綾を映し出す13編の連作短編集だ。2011年に復刊されると、口コミで面白さが広がり、この半年だけで12万部、累計45万部を突破するベストセラーとなっている。

“再ブーム”の大きなきっかけとなったのが、『三千円の使いかた』や『財布は踊る』のベストセラー作家・原田ひ香さんの推薦帯<こんな小説を書くのが私の夢です>だった。原田さんが感じた『青い壺』の普遍的な魅力とはいったい何だったのか。改めて、原田さんに綴っていただいた。

◆◆◆

 まずはこの物語、『青い壺』との出会いから話さなければならないだろうか。確か、10代の頃、有吉佐和子氏の『悪女について』を読み、こんなにおもしろい小説があるのかと驚いた。そして、同じようなものはないかな、と図書館で有吉氏の作品が並んでいる棚を順番に読んでいって見つけたのが本書だ。探した中には『華岡青洲の妻』や『恍惚の人』、『和宮様御留』などももちろん含まれ、スピード感がある大胆なストーリーの数々に私は引き込まれた。 

原田ひ香さん(撮影 喜多剛士) 

『悪女について』はご存じの通り、ある亡くなった悪女について、さまざまな人が彼女の生前の姿を語るという形の小説だ。子供時代のところだけでも、彼女がさまざまな人にまったく違う顔を見せていたことがわかり、読者を幸せな迷宮にさまよわせる。同じような小説を……というなかでこの『青い壺』はどんぴしゃだった。女と壺、有機物と無機物の違いはあるが、在る場所、持つ人によってその価値や意味を変化させ、一つのものを中心にさまざまな人が登場するところは、姉妹小説と言っていいだろう。

 10代の頃は、話の裏に隠された不義の匂いにわくわくしたり、痴呆の症状を見せる老人にげんなりしたが、50を過ぎた今、読み返して気がついたのは、ここに出てくる老人たちは全員、あの戦争を辛くも生き残った人たちだ、ということだった。

3000円の価値はこの50年で変わっていない

 日本の平均寿命は戦後すぐの1947年で男50歳、女54歳である。それがこの本が書かれた1976年には男性72歳、女性77歳で、約30年間の間に20歳以上伸びている。この20年という年月は平和の証に他ならないのに、皮肉にもこの物語に出てくる市井の人々の大きな憂鬱のたねとなっている。

 戦争中はその生死の便りに一喜一憂し、少しでもよいものを食べたい、食べさせたいと必死に生きてきたはずの人たちが今、長生きによって生まれたこと……定年後の夫が無趣味で家に居続け、毎食、大飯を食らうといったささいなことに、死ぬほど嫌気が差している。長寿のリスクとはよくいったものであるが、人間というものはなんと身勝手でわがままなものだろうか。

『青い壺』

 しかし、一方で、科学の進歩、社会保障の整備によって幸せになる人も描かれて、一時の清涼剤になっている。その主人公が部屋で飼うジュウシマツのように、かわいらしく爽やかで私たちを優しい気持ちにしてくれる。

 作中の金銭感覚にも注目したい。青い壺が骨董市で売られる場面があるが、これが3000円。今でも出自がわからない、中古品の壺ならこのくらいの値段が妥当なのではないだろうか。しかも、主人公はこれをとてつもなく「安い」と喜んで買っている。3000円の価値はこの50年であまり変わっていない。

 さらに、この人が京都旅行に現金30万を持って行くがたりないか心配する、というくだりには瞠目した。キャッシュカードもクレジットカードもない時代で、彼女がお金持ちの大奥様であっても、だ。当時の大卒初任給が9万円あまりで、そこから換算すると、30万は今の70万以上のイメージのようだ。それでも、今、30万の現金をぽんと旅行に持って行ける人はあまりないだろう。そこに出てくる金銭価値が、今とほとんど変わらなすぎて不安を覚える。

清掃員の老女が作るバラの花の枕

 ラスト近く、清掃員の老女が乾燥したバラの花の枕を作る場面がある。とても良い話だが、その理由が作中にはない。ただのロマンチックで酔狂な女性と思われかねないが、あれは「はじめての赤ちゃんに、薔薇の花びらの枕を作ってあげると、幸せになる」(熊井明子著『愛のポプリ』)という言い伝えを意識したものだと思われる。熊井氏と有吉氏は10歳ほどの年齢差があり、熊井氏はこの言い伝えの通り、10代の頃、バラの枕を作ったというエッセイを残している。当時はわりと知られた言い伝えで、それゆえに有吉氏は書き残さなかったのかもしれない。

 最後に余談であるが、私の祖父は太平洋戦争の初期に戦死している。

 外交官で一家の長となるべき総領息子だった祖父の死は衝撃的で、長く「あの人が生きていたら」と皆を悲しませたらしい。私も若き日の彼の写真……目元が涼やかで知性的な……を見ると、この人が生きていたら、今頃自分はどんな人生を送っただろうか、と考えたことがあった。戦友によると戦場でも、毎食ごとに冗談を言ってまわりを楽しませる、愉快な人だったらしい。

 しかし、『青い壺』を読んでいて思ったのは、そんな凜々しい青年も当然、歳を取り、退職が訪れただろう、ということだった。もしかしたら、気難しく、エリート意識ばかり高く、まわりをへきえきさせる老人になって、妻に邪険にされていたかもしれない。何より、私という人間自体が存在していなかった可能性が高い。

 死者はいつまでも若く、美しい。

 そんな当たり前のことを、この物語は今一度、思い出させてくれる。

文春文庫
青い壺
有吉佐和子

定価:781円(税込)発売日:2011年07月08日

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