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母・辰巳渚のこと

母・辰巳渚のこと

中尾 寅彦

『あなたがひとりで生きていく時に知っておいてほしいこと ひとり暮らしの智恵と技術』(辰巳 渚)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・エッセイ

『あなたがひとりで生きていく時に知っておいてほしいこと ひとり暮らしの智恵と技術』(辰巳 渚)

 母が逝去した6月26日は、私が二十歳になる誕生日のたった11日前でした。大学に入学し、地方でひとり暮らしを始めてから1年と少し経った、普段と変わりないある日のことです。

 お昼前に、父から不在着信と、一件のショートメールが入っていました。母がバイクで事故を起こした、と……。私がそれに気がついたのはお昼過ぎで、半分パニック状態になりながら病院に駆けつけた時には、既に母は、逝った後でした。病室の前で、父からそのことを告げられました。あの時に覚えた脱力感というか、まるで自分がいる今この場所が現実ではないように思えたあの感覚は、今でもとても鮮明に覚えています。その後、身内で母を荼毘に付すまでの3日間でたびたび、痛切に感じました。もう母さんと会うことも、話すこともできないのだ、と。まだ教わりたいことも、頼りたい気持ちも、孝行したい想いもたくさんありました。

 母は昔からしきりに、「早く一緒にお酒が飲みたい」「あなた、早く二十歳になりなさいよ」と言っていました。なぜもう少しだけ待ってくれなかったのか。「バイクは命を落とすから絶対に乗らせない」とも言っていました。それなのに、自分はいいのか……。私は母に、初めてこんなにも怒りを感じました。

 結局のところ、そうした様々な思いや感情は、母がもうこの世にいないという不可逆の事実を受け入れようとするときに生まれてくるのです。後悔は先には立ちません。そして、人生何が起こるかは、起こってからでないとわからないものです。そんなことは至極当然だと自分でも知っていたはずなのに、後悔の念は尽きません。自分はもう少し、何かしらできたのではないかと……。

 

 思えば、私は高校生ぐらいの頃から、家にいる時間が随分と少なかったかもしれません。帰る時刻は平均して21時頃だったでしょうか、家族で食卓を囲める機会を減らしてしまっていたと思います。さらに大学に入ってひとり暮らしを始めてからは、普段実家に居ないのはもちろん、帰省している期間すらもバイトやその他の用事に明け暮れ、家でちゃんとごはんを食べるのは週に一度といった状況でした。家族との時間は、ほんの一握り程度しか取れていなかったと思います。

 でも、これは母が嫌いとか、外のごはんがいいとか、そういった理由では決してないのです。私は、一番尊敬している人を聞かれたら間違いなく母と答えますし、母は自他共に認める料理上手で、外食ではとてもその料理は超えられません。それにもかかわらず、なぜそういう状況だったのかと問われれば、きっと家族の優先順位が知らず知らずのうちに下がっていたからなのだと思います。

 家族はとても大切な存在で、同時にあまりにも近い存在です。それゆえ、いつのまにか居るのが当たり前だと錯覚してしまっている。それが当たり前ではないことに、自分がひとり暮らしをするようになってから気づいたつもりでいましたが、まだその認識は足りていなかったようです。母がこの世から去って、強く強く、そのことを感じます。

 

 *母の子供たちへの想い

 母の死後、母が事故の直前までこの本を執筆していたことを知りました。そして父伝てに編集者の方から「あとがき」を書いてほしいと依頼されました。これは自分にとって、非常にありがたいご依頼であったなと、この本の原稿を読み終えたときに改めて思いました。なぜなら、私は初めてこの原稿を読んだ時、「これは自分に向けて書かれた本だ!」と強く感じたからなのです。

 この本はひとり暮らしを始める人とその親御さんに向けて書かれた本ですが、母が、私たち息子や娘に教えてきたことをまとめたもののようにも感じられるのです。ですから、私がこの本を読んでいると、今まで教わってきたことを、もう一度、ひとり暮らしをするにあたって、母から仔細に教わり直しているような……そんな感覚に陥るのです。実際、自分ができていないポイントについて読んでいる時には、チクチクと指摘されているような気持ちになりました(笑)。

 母がこの本の執筆を始めたのは2017年の夏だったそうです。それは、私がひとり暮らしを始めて、ちょうど3か月の時期。母としても、思うところがあったのかもしれません。

 母は2000年に『「捨てる!」技術』という本がベストセラーとなり、それから継続して実用書を執筆してきました。ですが私は今までその中の一握りの著作しか、読んだことがありませんでした。自分はどうも、「辰巳渚」という人物をよく知ろうとはしていなかったのではないかと思います。息子である私にとって、仕事をしている母は、近くとも遠い存在でした。しかし、今回の件をきっかけにして、母の知人から「辰巳渚」について色々な話を聞かせてもらい、読んだことのない母の著作を読んでいこうと思いました。

 母がこの世を去ってしまったことによって、辰巳渚について知ろうと思うようになったのは、なんだか皮肉に思えます。そして、そんな辰巳渚の著書で自分があとがきを書くことになるとは、まったく思ってもみませんでした。

 本書を手にとって下さった方は、今まで自分を育ててきてくれた家族から自立しようとしている人も多いと思います。それは本書の“はじめに”で書かれているように、人生の大きな一歩であり、とても尊いことだと思います。

 ですがその一歩を踏み出すことは、自分を育ててきてくれた家族との時間がさらに短くなり、より貴重なものとなることだともいえるのではないでしょうか。親や家族から教わらなければならないことはまだまだ沢山あるはずですし、関係性が変化してゆく中でその時間を愉しむことは、きっと素晴らしいことだと思います。

 先にも書いた通り、家族は近すぎるがゆえに、ずっといるのが当たり前だと思ってしまいがちです。でも、それは決して当たり前ではないのです。

 ひとり暮らしという自立の一歩目だからこそ、今まで頼ってきた親や家族に改めて頼り、教わっていくことが大事なのだと思います。どうぞ、その関係を大切になさってください。

 そして願わくは、母の遺した言葉が、これを読んでいるあなたのひとり暮らしの一助となることを祈っています。


「あとがき」より

文春文庫
あなたがひとりで生きていく時に知っておいてほしいこと
ひとり暮らしの智恵と技術
辰巳渚

定価:770円(税込)発売日:2024年03月06日

電子書籍
あなたがひとりで生きていく時に知っておいてほしいこと
ひとり暮らしの智恵と技術
辰巳渚

発売日:2024年03月06日

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