- 2024.11.05
- 読書オンライン
「僕たちが生きる普通の日常は、本当はもっと美しいものなんだ」小さな声を愛するエッセイストと世界的に活躍するピアニストが語る“至福の時間”
塩谷 舞,務川 慧悟
塩谷舞×務川慧悟
新著『小さな声の向こうに』が話題を呼ぶ文筆家・塩谷舞さんと、パリ在住で世界的に活躍するピアニスト・務川慧悟さんの初対談が実現。小さな声に耳を澄ませると見えてくるものとは?
◆◆◆
ピアノを弾かないステージへの登壇は初めてで…
塩谷 今日は『小さな声の向こうに』を上梓してからはじめてのトークイベントなのですが、ゲストには友人であり、本書の最終章を飾ってくれたピアニストの務川慧悟くんをお招きしました。各地での演奏会で忙しい中、本当にありがとうございます。
務川 ピアノを弾かないステージへの登壇は初めてで、いつもよりずっと緊張しています(笑)。まずみなさんに、二人の接点を僕のほうからお話しすると、4年くらい前に塩谷さんのnoteを読んで文章のファンになって、Twitterもフォローするようになったんですね。
塩谷 それを受けて、大阪に住んでいる私の母が「あなた、務川慧悟さんにフォローされてるよ!」とパニック状態で連絡してきたんですよ。母は大のクラシックピアノ好きで、その影響で私も3歳から実家を離れるまでピアノを弾いていたのですが。それから務川くんの演奏を好んで聴くようになり、Twitterもフォローさせていただいて。
務川 今度はこちらがパニックです(笑)。その後、僕のCD「ラヴェル:ピアノ作品全集」の発売を記念した東京リサイタルにご招待したのが、リアルでお会いした最初の接点でしたね。
ラモーの演奏に静かな衝撃を受けた
塩谷 その演奏会で最初に演奏されたラモーの「ガヴォットと6つのドゥーブル」に、静かな衝撃を受けたんです。演奏が始まった瞬間、美しく枯れた晩秋の情景が心に浮かびました。淡々とリズムが乱れることもなく、禁欲的とも捉えられるような演奏なのに、その中に哀しみや怒りが感じられるような……。その後、務川くんのラモーの演奏動画を何度繰り返し観たかわかりません。
琴線に触れる芸術に出会うことができたとき、それを言葉にして書き残したい、という欲が生まれます。務川くんの演奏に触れたことで見えてきた情景を、新著の締めくくりとなる最後の一篇「誰もが静寂の奏者となるこの場所で」に書かせてもらいました。
務川 音楽は演奏が終わったら形としては残りませんが、そうした最も掴みづらい芸術を、高い解像度で言葉にしてくださっていて感銘を受けました。そして、塩谷さん自身も書くことはセラピーであると言われていますが、僕自身、自宅で一人ピアノを弾くことによって自分自身が支えられてきました。そうしたピアノとの関係性もしっかり拾って、言葉にしてもらえた感触がありました。
パリに留学し始めた頃、一日中誰とも会わずに練習した
塩谷 務川くんはクラヴィコードのような小さな音を奏でる古楽器に魅了されているし、自宅でささやかな曲を弾く、気負わない時間こそが至福であるともよく言っている。その一方で、大きなコンサートホールで、何百、何千のお客様を前に音を響かせる機会がどんどん増えているんですよね。素晴らしい飛躍でありながらも、そうした現状に少しの自己矛盾を抱いてしまうのではないか……というくだりですね。
務川 はい。まさに、そうした自己矛盾を抱いています。演奏家は寒暖差が激しいといいますか、地味な日と派手な日の差が非常に大きい職業です。パリに留学し始めた頃は、携帯電話をチェストにしまって、一日中誰とも会わずに夜まで練習するような日もよくあったのですが、そうやって静かな環境を作ることで、ようやくわかってくる音楽もあります。そうした自宅での地味な日々がありながら、大ホールで大勢の方を前に演奏する日もある。家で弾いているときのように大ホールでも気負わず演奏できれば良いのですが、それは簡単なことではありません。
塩谷 ただ、務川くんがそうしたことを時折言葉にして発信しているからでしょうか。務川くんのリサイタル会場では、客席の穏やかな連帯を感じます。「彼のささやかな音に耳を澄ませよう」というお客さんそれぞれの思いが、静謐な、でもあたたかい空気を作っている。
務川 それは僕も感じていて、本当にありがたいことです。演奏会という一つの場を一緒に作ってくださっている。塩谷さんはそれを「誰もが静寂の奏者となるこの場所で」という言葉で表されていましたね。
「小さな声」が雄弁に語りかけてくれるとき
塩谷 はい。私もこの静寂を創り上げる一員として、音楽に参加しているのだな、と。そうした文章を書いている中で、「小さな声に耳を澄ませる」という行為の奥深さについても考えるようになりました。
私は昔演劇をやっていたのですが、そのとき演出家の先生が「喧噪の中で話をきいてもらうには、どうしたらいいと思う?」と問うてきたんですよね。劇団員たちは周囲の注目を集めるための方法を色々と答えたけれど、先生は「小さな声で話してみること。そうすれば、周りの人は音量を下げ、耳を傾けて、あなたの声をきいてくれますよ」と教えてくれて、当時小学生だった私は大きな感銘を受けたんです。
ただ「小さな声」に耳を傾ける側は、黙ってそこに座っていればそれでいい訳ではありません。美術も、音楽も、日常の言葉も、その背景にある知識を持っていることで理解が深まることもあれば、動物的でフィジカルな感性を開いていることで感じられるものもある。知性と感性、その両者がうまく重なったときに「小さな声」は雄弁に語りかけてくれるんじゃないか、とも思っています。
務川くんは以前、自らの身体で演奏することではじめて楽曲を真に理解することが出来る、といったようなことをnoteに書いていましたよね?
“ラフマニノフはこういう人だ”と、指の感触が浮かぶ
務川 書いていました。音楽は耳で聴くものですが、奏者にとっては半分スポーツのようなもの。自分で苦労して弾くフィジカルな体験によって、その曲への理解度が格段に上がる、ということはあります。パッとはわからない曲も、まず弾いてみて、一度寝て、翌日また身体を使って弾いてみる。それでもまだわからなくて……そうした日々を繰り返しているうちに、ようやく自分の身体の中に音楽が取り込まれていくんです。
例えば、「ラフマニノフのピアノコンチェルト」と聞けば、音が思い浮かぶと同時に、指の感覚が思い浮かびます。“ラフマニノフはこういう人だ”というとき、指の感触が浮かぶというのは、ピアノを弾いている人ならではの理解の方法なのかもしれません。
塩谷 あの、僭越ながら私もかつてラフマニノフに挑んだのですが、思い浮かぶのはただただ指が痛い! という感覚ばかりで……。
務川 それも、一つのラフマニノフらしさですね(笑)。演奏の場では、僕がこうして日々身体で受け止めている感覚を、できるだけ忠実に伝えたいという思いがあります。
例えば家でひとり、ショパンが亡くなる前の病弱で、非常に繊細な音楽を弾いていると、ショパンの言いたいことが手に取るようにわかってくる。それは自己満足かもしれませんが。でも、過去の偉大なピアニストたちが弾き尽くしてきたショパンの名曲であれ、それでも自分が弾く意味があると強く思えるくらい、曲のメッセージ性がわかってくることがあるんです。
僕は器用なほうではないし「遅い」人間です。だから、毎日同じ曲を繰り返し弾いていくことが、自分の心にとっても心地いい。僕が演奏家を天職だと思えているのは、ショパンやラヴェルといった作曲家たちの心が、身体を通してしっかりわかっている、という自負があるからなのだと思います。
コスパやタイパが推奨される社会で
塩谷 そうした身体性を大切にされているからこそ、今回の出版記念イベントでは務川くんとお話ししたいと思っていたんです。
社会の中では、どうしても大きな声が力を持ちやすいし、小さな声、ささやかな芸術は脇に追いやられてしまうことも多い。さらにメディアに出る人の多くは情報感度が高く、ものごとの処理速度が速いですから、どうしてもコスパやタイパを推奨するようなメッセージが溢れてしまいます。私自身も物書きですから、頭の中だけで仕事が完結してしまうことも多くて、身体性がおざなりになってしまうことも多々。でも、なにかを手を動かして作ったり、同じことを何度も繰り返し練習したり……そうした身体性が伴う仕事をしている人でなければ、見えないこと、感じられないものは必ずあります。そうした大きなリズムの中で生きている人たちの存在をおざなりにしていては、社会はけっして豊かにならない。だから自分のなかに大きな時間軸の車輪をもって表現に取り組んでいる人を目の当たりにすると、この人の営みを適切な形で書かなければ! という強い衝動に駆られるんです。
務川 そういう小さな声を拾い上げてくれる人は本当に貴重で、僕自身、この遅くて静かな性格を助けてくれる重要な出会いが人生のなかでいくつかありました。
反田恭平さんと出会い、人生が変わった
塩谷 それは、務川くんの事務所の社長であり、相方でもある反田恭平さんのことでもありますか?
務川 彼もまさにそうです。彼との出会いがなかったら僕の人生は全く別のものになっていたと思うし、これまで本当に大きな助けになってきてくれた。だから反田くんが「これ弾きたい」と言ったら「じゃあ弾こう」と思わせられる特別な存在だし、彼のどんなワガママも聞いてあげられます。
塩谷 ものすごい愛! 反田さんはご著書を拝読するだけでもアクティブで野心的な方という印象なのですが、きっと性格はまるで違いますよね。
務川 真逆です。
塩谷 そうしたお二人が相性がいいというのは奇跡的なことだな、と。根底に互いへのリスペクトがあるからこそ、各々が持つ車輪のリズムが違ってもうまく噛み合うのでしょうね。
いまはフィルターバブルと言われるように、自分と波長のあう人だけとSNSで繋がって、そうした居心地の良い世界に閉じこもってしまうことが多い。そんな時代だからこそ、異なる性格の人と手を取り合うことこそが大切だな、と常々思っています。
私のデビュー作『ここじゃない世界に行きたかった』は、コロナ禍でいろんな人の意見が対立し、世代や立場の異なる人が「あっちは悪でこっちが正義だ」と語ることが増えたなかで、「視点の異なる友人」を増やすことはできないだろうかと願いながら書いた一冊でした。
こういうものの見方があったのか!と気付かされる文章
務川 僕が塩谷さんの文章に触発されるのは、まさに自分とは異なる「視点」を持っているからなんです。僕からすると、こういうものの見方があったのか!と気付かされることが沢山書かれていて。「僕たちが生きる普通の日常は、本当はもっと美しいものなんだ」ということを、リアリティをもって感じさせてくれる。
塩谷さんの文章の厚みって、芸術方面への感度が高いのと同時に、もともとWEBライターとして活躍し世の中の実務的な仕事をされてきたという、両者がバランスよく入り混じったところから来ているのではないか、と僕は感じています。
あとは一つのトピックに対して、たぶん書けることは10あったなかで一つだけ選び抜いたんだろうなと感じることが多いです。
塩谷 ゴールを決めずに悩みながら書くことが多いので、ボツになる分量はかなり多い、まさにコスパの悪い書き方をしています。こっちの方向性もある、あっちの方向性もある……と手探りで探していくなかで、想定していなかった方向に文章が転がっていき、その結果「これだ!」と道が拓けていくこともある。そうやって書いている時間は、自分にとってすごく贅沢なことをしているように思いますし、本当に楽しい。もちろん苦しさもあるのですが、苦しくも楽しいんです。
それだけでもう幸せ、と感じる至福の時間
務川 やっぱり表現の根源には楽しさがありますよね。僕の場合は、ちょっと前にパリの家を引っ越したんですが、暗くて病んでしまいそうだった以前の部屋に比べて、今の部屋は太陽の光が入るんですよ。毎朝起きたらまずピアノの前に座って、朝の光のなかで練習しているのですが、その時間が本当に楽しい。もしかしたら、これ以上もう何もいらないんじゃないか、って。
塩谷 「もう何もいらない」と言われてしまうと、演奏会を心待ちにしている側としては不安にもなりますが……(笑)。
務川 いや、もちろん演奏会も頑張りますよ(笑)。でも、ここ2、3年すごくバタバタした人生を歩んでいたので、そうした静かな時間が好きだったことを少し忘れていたんです。僕は家に楽譜があって、自分がいて、ピアノがあれば、それだけでもう幸せなんだな、と。
塩谷 誰も立ち入ることの出来ない、務川くん一人の至福の演奏会ですね。今日はあらためて、こうした場で務川くんとお話し出来て本当に楽しかったです。ありがとうございました。
務川 こちらこそ、すごく楽しかったです。ありがとうございました。
(青山ブックセンターにて)
塩谷 舞(しおたに・まい)
1988年大阪・千里生まれ。京都市立芸術大学卒業。大学時代にアートマガジン『SHAKE ART!』を創刊。会社員を経て、2015年より独立。2018年に渡米し、ニューヨークでの生活を経て2021年に帰国。文芸誌をはじめ各誌に寄稿、note定期購読マガジン『視点』にてエッセイを更新中。総フォロワー数15万人を超えるSNSでは、ライフスタイルから社会に対する問題提起まで、独自の視点が人気を博す。著書に『ここじゃない世界に行きたかった』(文藝春秋)。
務川慧悟(むかわ・けいご)
1993年愛知県生まれ。東京藝術大学1年在学中の2012年、第81回日本音楽コンクール第1位受賞を機に本格的な演奏活動を始める。2014年パリ国立高等音楽院に審査員満場一致の首席で合格し渡仏。パリ国立高等音楽院、第2課程ピアノ科、室内楽科を修了し、第3課程ピアノ科(Diplôme d’Artiste Interprète、フォルテピアノ科に在籍。 2019年ロン=ティボー=クレスパン国際コンクールにて第2位入賞。 2021年エリザベート王妃国際音楽コンクール第3位など数々の国際コンクールで入賞を果たす。各国で精力的に演奏会を開催し、NHK Eテレ「ららら♪クラシック」、テレ朝「題名のない音楽会」など出演多数。
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