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「樹木希林さんが突然訪ねてきて…」戦死した若者の絵を遺す「無言館」共同館主に内田也哉子が就任した縁

「樹木希林さんが突然訪ねてきて…」戦死した若者の絵を遺す「無言館」共同館主に内田也哉子が就任した縁

内田 也哉子

『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #随筆・エッセイ

 2024年6月14日、内田也哉子さんが戦没画学生慰霊美術館「無言館」の共同館主に就任することが発表されました。そのきっかけの一つとなった、無言館の創設者であり館主の窪島誠一郎さんとの対話を公開します。

※本稿は内田也哉子さんの著書『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』からの抜粋です。

◆◆◆

戦死した画学生の作品を遺す美術館

内田 戦争について今一度見つめ直したいと思い、久しぶりに無言館をお訪ねしました。初めて来たとき、まるでスイスの山奥に数百年もたたずむ小さな教会のようだなぁと思ったのですが、そのたたずまいも、静謐で温かな空気も少しも変わっていません。木の扉を開けると、日中戦争と太平洋戦争で亡くなった画学生たちの遺した絵画や彫像、遺品となった絵の道具、戦地からのハガキなどが展示されている。正式な名称は戦没画学生慰霊美術館「無言館」。創設者であり館長である窪島さんが名付けたのですね。

窪島 ここにある絵は無言だけど見る人に多くを語りかける。訪れた人は絵を前に誰もが無言になる。──というのは後から考えた理屈で、実はふと思いついたに過ぎないんです。でも、我ながらよくぞいい名前を思いついたものと、自惚れているんですけどね。

絵・内田玄兎

内田 窪島さんが私財を投じて1997年に建設。その前に信濃デッサン館という美術館も建てています。

窪島 自分で集めた絵が溢れ出したので、それらを収めるために建てたのです。

内田 比較的マイナーな画家の絵ばかり集めていたそうですが、それはなぜですか。

窪島 よく「絵がわかる」というでしょ。でも僕はそもそも「絵がわかる・わからない」というのがわからない。ただ、魅かれる絵がある。その絵を描いた人がどういう人で、どんな思いで、どんな生き方をしていたのかということに魅かれるんです。だから例えば、1919年にスペイン風邪で22歳で死んだ村山槐多、同じく20歳で死んだ関根正二、脳腫瘍で30歳で死んだ野田英夫のように、思いを遺して早世した画家の絵には特に魅かれます。これは無言館にも通じます。志半ばで死んだ、無名の“画家未満”の若者の絵に強く魅かれるんです。

内田 窪島さんは、生まれた3週間後が真珠湾攻撃だったそうですね。よく「無言館は反戦や平和を訴えるために建てたのではない」と発言され、自伝的小説『流木記』には「画家には二つの命がある。一つはナマ身の命、もう一つは作品にこめられた命」と書かれています。つまり作品がこの世からなくならない限り画家は死んでいない。だから、あまりにも若くして戦火に散った画学生たちの「もう一つの命」を守るために建てたのですね。

窪島 自らも東京美術学校(現・東京藝術大学)を繰り上げ卒業させられて召集され、戦地から復員された、現在101歳で現役の洋画家である野見山暁治さん(2023年6月に逝去)が、「このまま戦死した画友たちの絵が霧散してしまうのが口惜しい」とぽつりとおっしゃったのを聞いたのがきっかけでした。まもなく戦後50年を迎える頃のことで、今から収集して保管すれば、散逸を防ぐのにまだ間に合うんじゃないかと思いました。

樹木希林が突然現れ「会いたかったのよ、あなたに」

内田 画学生たちの遺した絵の収集に、3年半かけて全国を行脚されました。

窪島 最初は野見山先生と一緒に訪ね歩きました。当時、先生は72歳、僕が51歳。後半は僕ひとりで。ご遺族から絵を預かるだけでなく、画学生の思い出話を伺うんです。出征の朝、「あと5分」「あと10分」とキャンバスに向かい続けた人、誰にも告げずにひとりで出征した人……涙なしでは聞けないエピソードが山のように集まりました。

内田 窪島さんの執念ともいえる取材力ですね。今日は無言館でイベントがあって大勢の方が集っていました。窪島さんは御年80歳。拝見していると、同年代ぐらいの方から話しかけられると話があまり続かない。でも、若い人とは同じぐらいのテンションとノリでポンポンポンとお話が弾んでいました。その差がとても興味深いです。

窪島 若者というのは、まず予定調和しないでしょう。「いやー、いいお話でした」とか、そういうのがない。でも年を取るほど言うんです。年を取るということは、たいていの人は一つずつ何かを着込んでいくんですけれど、僕の場合は脱いで裸になっていくような感覚があるんですよね。裸になっていく人のほうが話が弾みます。あなたの母上もそういう人でしたね。

内田 はい、何もかも開けっ広げで、誰かに対してじゃなく、自分に対してのプライドの所在がはっきりしてましたね。母との付き合いはどのように始まったのですか。

窪島 2015年のこと、彼女が突然、やってきたんです。一目見れば樹木希林さんだというのはわかった。その大女優さんが「会いたかったのよ、あなたに」と言うものだから、びっくりしちゃった。児童文学作家の灰谷健次郎さんから、しょっちゅう僕のことを聞かされていましたって。

内田 灰谷さんとは、母は自称“がん友だち”だったから。

窪島 僕は無謀にもその場で「無言館では毎年4月29日に新成人たちが、彼らと同世代である戦没画学生の絵を前に決意を新たにするという『成人式』を開催しています。来年のゲストとして来てくれませんか」と頼んだんです。後日、希林さんの直筆で「引き受けさせていただきます」と書かれたハガキが届いた。ろくに式の説明もしていないのに。

 さらに金沢での表彰式の帰りに、打ち合わせのために上田に寄ってくれるという。「でも、有名人をどこへお連れしたらいいものか」と迷っていたら、「一番いいのは駅の待合室よ。サインを求められても写真を撮られても、ちょっと我慢していればみんな次の列車に乗って行っちゃうから」とおっしゃった。

 そして当日、駅で待っていると、当然グリーン車から降りてくるものと思っていたら、自由席からトコトコ歩いてきた。それで、「8000円浮いた」って自慢げに言うんです。

内田 主催者側がグリーン車を取ってくれたのに、払い戻したんですね。母がやりそうなことです。

窪島 すばらしい。僕は惚れちゃいましたよ。待合室ではなく、その8000円で2人でウナギを食べに行った。なんて楽しい食事だったんだろうと思い出します。印象に残っているのは、「私ね、あなたみたいなワイルドには慣れてるのよ」だって。

内田 はい、ものすごくワイルドなロックンローラーが近くに1人いましたから。

窪島 也哉子さんのご主人の本木雅弘さんのことは、「彼が来たことによって、ようやく内田家を立て直すことができたのよ」って感謝されていましたよ。

内田 そんなこと言っていましたか。

敬愛する作家が実の父だと36歳で知った

窪島 成人式当日は、いつもはゲストが帰るとホッとするんですよ。筑紫哲也さんとか菅原文太さんとか山田洋次さんに来てもらったときは、お見送りしてやっと肩の荷が下りたものです。でも、希林さんが帰ったときは寂しくてね。ちょっとがっかりしていたら、電話がかかってきた。「まだいるのよ、近くに」って。

 うれしくて、すっ飛んで行って、別所温泉の旅館のレストランで4時間以上、お酒のんで話しました。ご自分ががんの塊だということをおっしゃっていて、僕もくも膜下出血で倒れた直後だったから、テーマは「死」でしたね。思えば、亡くなる2年前のことでした。

 そのご縁で、今年の成人式は也哉子さんに来てもらい、新成人ひとりひとりに手紙を書いてもらったんですが、普通に家でフラフラしてる奥さんだと思っていたら、大間違いだった。

内田 そう、基本的にはフラフラしているだけです(笑)。

窪島 いやいや、この雑誌のエッセイの連載だけでも文章のセンスのよさ、モノの見方が独特であることがわかるし、『SWITCHインタビュー』(Eテレ)で吉田カバンの創業者の息子さんと対談しているのを観ても、大したもんだなあと認識を新たにしたんです。

内田 吉田カバンといえば、窪島さんはご愛用ですよね。

窪島 このトートバッグがそうです。持ち手の部分だけ直したけど。

内田 以前、お電話で、実のお父様の水上勉さんから唯一もらったものが吉田カバンのバッグだと伺いました。

窪島 そう、ほかには何ももらわなかったけど、カバンは2つもらいました。実際に水上先生が使っていたんですよ。小説を執筆するための資料を詰め込んで、ものすごく重そうだったので僕が持ってあげたこともあります。

絵・内田玄兎

内田 お父様のことを「水上先生」と呼ばれるんですね。お父様ご本人に対してもそう呼んだのですか。

窪島 だって初めて会ったのは、僕が36歳のときですから。もう「お父さん」と呼べる歳ではなかったし、僕自身、代表作の『飢餓海峡』に登場する岬を見に北海道まで行くほど、昔からの水上ファンでしたからね。

内田 まさか自分の好きな作家が父親だとは。自分を育てたご両親が養父母だと知らず、でも13歳ぐらいのときに親と似ていないことや血液型が親子としてはおかしいことに気がついたんですよね。

 そして実の父、母を探し始め、36歳のときに水上さんにたどり着いた。驚いたことに、お互いに世田谷の成城に住んでいたんですね。最初に父子が対面したときはどういう空気感だったんですか。

窪島 先生の軽井沢の別荘で2人きりでした。先生は当時58歳。僕を一目見て、自分の息子だとわかったそうです。自分の書いたもので何が好きかと聞かれ、僕は『飢餓海峡』や『越前竹人形』ではなく、『蓑笠の人』という、誰も読まないような短編を挙げた。これがまた泣かせてね。「あれを読んでいてくれたか」と。

内田 窪島さん、天性の人たらしですね(笑)。

窪島 うれしかったし、父親を大好きになったけど、もし、探し当てた父親が普通の市井の人だったらもっと生きやすかっただろうなとも想像します。

 私たちが再会したことは、父親が有名人であったために大ニュースになったんです。1977年のことですが、父のスキャンダルとして報じるメディアもありました。父は戦時中に僕の母と同棲して僕を授かるのですが、生活苦から僕を手放し、僕は子どもがいない靴屋夫婦の実子として育てられたんです。

 僕が実の親を探し歩いた日々のことは、その後、NHKの連続ドラマにまでなったから、世間の僕を見る目は違ってきました。どんなに夭折した画家の発掘に努め、その評伝や研究書を書いても、「戦後三十数年を経て有名作家との再会を果たした奇跡の子」というのが僕に貼られたレッテルになってしまいました。

 それはあなたにもついて回りますよね。誰もが知っている一流の女優の娘だということが。でも、あなたの場合は恨みもしないし、ごく自然に、素直に生きている。母上の教育も本当に上手だったんだなと思います。

寂しさは宝。寂しくなければ仕事なんてしない

内田 窪島さんはもっと葛藤がありましたか。

窪島 葛藤といえばかっこいいけれど、ひねくれていましたね。水上先生を敬愛していながらも、故郷の福井につくった文学館の館長になってくれと言われれば断る。彼の文学世界を愛してはいたけど、そこに近づくなんていうのは嫌でした。

内田 私も葛藤はあります。母が亡くなってから、彼女の遺した数々の言葉のインパクトがいまだにあって、そこに私はたたずんでいるという感じです。もちろん母とは関係ないところで生きてみたいという思いもあります。でも、一度どっぷり母や父との関係と向き合ってみる機会にするしかない、一度突き抜けてみようと思っています。その先に何が見えるのかに想いを馳せながら。

窪島 それは大テーマですね。僕もどんなものを書いても、水上勉を通り抜けるわけにはいかないんです。養父は靴職人でしたから、僕は36歳までは靴屋の子、36歳以降は作家の子になった。そういう体験をした人はそんなにいないわけだから、自分を一つのモルモットにして、何か普遍的なものを書く。それはやらなければいけないことだと思っています。

 無言館の成人式で也哉子さんが新成人たちに話をしている、その後ろ姿を見ていたら、也哉子さんは也哉子さんで、僕と同じぐらいの海の深さに生きている仲間だなと思ったんです。でも、80歳になったから偉そうに言わせてもらいますが、寂しさは宝だと思います。寂しくなければ仕事なんてしないんじゃないかな。

内田 仕事というのは「書く」ということですか。それともすべての仕事ですか。

窪島 何もかもですね。生きるためのことに一生懸命になるのは、ひとえに、1センチでも5ミリでも寂しさから離れたいというのがあるからではないでしょうか。寂しいということが仕事の原動力であると同時に、その跳ね返りとして、人に認めてもらいたい。よくやったと言われたい。無言館なんかまさしくそうでしょうね。

内田 どういうことですか、無言館がまさしくそうだというのは。

窪島 戦争で亡くなった画学生が気の毒だからだとか、あるいは将来の若い人たちに平和な世界が訪れますようにとか、そんな世のため人のためにやった覚えはないんですよね。

 でも遺族を訪ねると、お寿司は取ってくれるわ、ビールの栓は抜いてくれるわ、大歓迎してくれるわけですよ。そうやってお借りしてきた大事な形見の絵を展示する美術館をつくったら、世間から「ご立派なことをなさって」と言われて、もう、うれしくてうれしくて。

内田 そのご自身や現象を客観的にとらえる目には唸らされます。無言館は、水上勉さんの援助は一切受けずに建設し、運営されてきたんですね。

窪島 1964年の東京オリンピックのときに、マラソンコースの沿道でおにぎりを売って大変もうけましてね、そのおにぎりを握ったのが今の奥さんなんです。バーの開店、支店の拡大……みるみる板垣退助(当時の100円札)が束になりました。

内田 喜怒哀楽をもじった「キッド・アイラック・ホール」もつくって、そこはライブハウスの先駆けになったそうですね。

窪島 当時、僕はサラリーマンもやっていて渋谷の生地屋に勤めていたんだけれど、月給が5000円でした。一方、おにぎりの売り上げだけで一日2万円。子どものころから絵を描くことや文章を書くことが好きで、文学を目指そうとか、画家になりたいとか思っていたのに、お金が入ってきたら稼ぐことのほうがおもしろくなってしまった。

内田 自分のストイックなものに対する情熱がお金の残酷さでパワーを失ったと思われますか。

窪島 でも、あの時間、あのお金がなければ、無言館を建てるなんてことはできなかったわけで、全部を否定するわけにはいかない。ただ、高度成長期の頃の日本人は、都合のいい記憶障害になっていましたね。沖縄では何十万の人、原爆では二十何万人、戦争で三百何十万人もの自国民が亡くなっているという意識は、少なくともおにぎりを売っている僕にはひとかけらもなかったです。ただひたすら板垣退助だけ見つめていた。

 ウクライナの戦争を見てもつくづく思います。戦争がなければこの無言館はなかった。僕は本来あってはならない美術館をやっている。それは僕自身のたどった人生も同じような気がします。金儲けが悪いというわけではないけれど、もう少し次の時代がどうなるか、これだけ空気を汚して、これだけ気候変動を起こし、原発をつくっていいのか考えなければいけなかった。存在してはならない「無言館」が役に立つとすれば、今からでもそういうことを考えるきっかけをここで得てもらうことだと思います。

内田也哉子さん 窪島誠一郎さん「無言館」共同館主就任コメント

 対話から2年経て、内田也哉子さんが窪島誠一郎さんとともに無言館の共同館主に。

内田也哉子さんコメント

内田也哉子さん。

 無言館館主で、作家の窪島誠一郎さんとは『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』の対話を通して、芸術と共に生きるということ、そして、個人と社会にとっての真の平和について語らう貴重な機会を頂きました。

 やがて窪島さんと交流を深める中で、無言館のバトンを共に未来へ繋ぐ走者の役割を拝命いたしました。

 微力ながら精一杯、無言館という稀有な美術館の存在を多くの方々へ伝えていけるよう努めたいと思います。

 戦争を知らない者として、この出会いから多くのことを学び、戦没画学生が遺してくれた素晴らしいアートを通し、それらを愛でることができる平和の今を皆さまとシェアできることを切に願っております。

窪島誠一郎さんコメント

窪島誠一郎さん。

 内田也哉子さんの共同館主就任を心から歓迎します。

 「無言館」27年の孤独な道に、大輪の花が舞い降りたようです。

 私より三回りも若い也哉子さんの新しい力を得て、天上の戦没画学生たちもさぞ喜んでいることでしょう。

内田也哉子 著『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』(文藝春秋)

『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』

谷川俊太郎 小泉今日子 中野信子 養老孟司 鏡リュウジ 坂本龍一 桐島かれん 石内都 ヤマザキマリ 是枝裕和 窪島誠一郎 伊藤比呂美 横尾忠則 マツコ・デラックス シャルロット・ゲンズブール

15人との《一対一の対話》を経て綴られた、5年間の心の旅路を映すエッセイ。

内田也哉子(うちだややこ)
1976年東京生まれ。文章家。エッセイ、翻訳、作詞、ナレーションのほか音楽ユニットsighboatでも活動。樹木希林と内田裕也の一人娘として生まれ、幼少のころより日本、米国、スイス、フランスで学ぶ。夫は俳優の本木雅弘。三児の母。著書に『新装版ペーパームービー』(朝日出版社)、中野信子との共著『なんで家族を続けるの?』(文春新書)など。Eテレ「no art, no life」(毎日曜 08:55~)では語りを担当。

 

窪島誠一郎(くぼしま・せいいちろう)
1941年東京生まれ。無言館館主、作家。印刷工、酒場経営などを経て、浅川マキや寺山修司に愛された小劇場「キッド・アイラック・ホール」を設立。79年に夭折画家の作品を展示する「信濃デッサン館」(現・KAITA EPITAPH残照館)、97年に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を設立。著書に『父への手紙』『流木記』など

単行本
BLANK PAGE
空っぽを満たす旅
内田也哉子

定価:1,760円(税込)発売日:2023年12月15日

電子書籍
BLANK PAGE
空っぽを満たす旅
内田也哉子

発売日:2023年12月15日

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