宮城谷昌光氏の『三国志』は全十二巻で、まさに超大作である。これは宮城谷氏にとっても格別な作品だったに違いなく、自作について解説風なことを語るのがきわめて少ないこの作家が、何度かにわたってインタビューに応じていることからもそれが推察されるのである。私はインタビューで語られた作家の言葉に心惹かれ、今でも記憶していることが少なくない。
その一つに、自作には「非常に強力なライバル」が存在した、それは『三国志演義』だった、という発言がある。宮城谷氏の『三国志』の基本的姿勢がまっこうからそこに表明されている。
『三国志演義』は、明代(十四世紀半ばから始まる)になって書かれた「小説」、多分に荒唐無稽な物語であり、三国時代の歴史とは遠くかけ離れている(作者は羅貫中とされるが、この人物は履歴不明)。これに対し、正史の『三国志』の作者は、晋の陳寿であり、『史記』の司馬遷が創造した紀伝体という歴史記述の方法がそこでは採用されている。
紀伝体は、本紀と列伝をもつ。ごく簡略にいえば、本紀は王朝の成立と消長が語られ、列伝はその歴史的時間のなかで生きた人物像が描かれている。むろんそれは人物伝というより、人物を語るエピソードを並べたものだが、虚構ではないというのが必要な条件だろう。
宮城谷氏は、雑誌連載が始まった二〇〇一年のインタビューで、こんなふうにいっている。
《私が書くのはあくまで正史としての『三国志』でして、演義もの、つまり読み物として成立した『三国志演義』の世界ではありません。ですから、大活劇ものを期待する読者には少々違和感があるかもしれませんね。》
いま、私たちは十二巻の宮城谷『三国志』という本紀をもっている。とするならば、その後に書き継がれた『三国志名臣列伝』は、本紀と列伝の、列伝に当たるものといっていいのではないか。そこには、オハナシではない、歴史のなかに生きた人間の姿が出現している。この「魏篇」でとりあげられた名臣の名を目次にある順序で示せば――
程昱、張遼、鍾繇、賈逵、曹真、蔣済、鄧艾
の七名。数は前著の『三国志名臣列伝 後漢篇』に等しい。程昱から賈逵までの四人は、魏を実質的に造りあげた曹操に見いだされた臣下たちである。宮城谷『三国志』は、曹操の文人としての魅力をみごとに描いているが、曹操はまた人間を見いだす力においても卓絶していたことを私たちは知るのである。
目次の最初にあるのは、程昱である。前の名は程立、兗州に住む平民であったが、世間を見る眼は正確で公平、何となく周囲に人が集ってきた。後漢末期、各地に黄巾の乱が起り、それをきっかけにして有力者が角突きあいを始めた。宦官を一掃しようとした大将軍・何進は宦官に暗殺され、その後に袁紹、袁術、鮑信などが存在感を示し、なかでも力をもって中国中央を統治下に置きはじめたのが曹操である。
程立の鋭い精神に気づいた曹操は、程立に小さくない役を与え、身近な存在として扱った。改名を勧め、程立の見た夢にちなんで、立の上に日を置いて程昱とした。その後の曹操と程昱の関係が興味深い。程昱は諫言をしつづけるのである。
たとえば、曹操が袁紹に助力を請うために家族を人質に送ろうとしたとき、それを本気で諫めた。袁紹はいまは盛隆のなかにいるかに見えるが、それほどの人物ではない。苦境を自力で脱する者だけが偉業を成すのだといって、曹操に自立をうながす。
いちばん大きな諫言は、曹操のもとに逃げてきた劉備についてである。曹操は劉備を厚くもてなしたが、程昱は「劉備を殺すべきです」と断言する。劉備は人から受けた恩を返す人間ではない、と見たのだ。
兵を与えられた劉備は、程昱の予言通り、牙をむき、独立した。
それを正確に見据えた程昱は、いわば信念の人で、他者と対立することが多かった。程昱は謀叛します、と曹操に告げる者があったが、曹操はそれにとりあわなかった、と作家は書いている。
程昱は八十歳で死んだ。息子の程武は、父親はなぜあれほど劉備を恐れ、憎んだかと自問し、「父上は劉備に似ていた」のだ、と思い当る。ともに奇妙な「無垢の人」であったというべきか。
次に鍾繇をとりあげる。鍾繇という名臣もまた、不運の経歴をふみながら最後に曹操にめぐりあい、曹操に認められて名をなすに至った。この人物が興味深いのは、古代人の雰囲気を身におびていることである。
十七歳のとき族父である鍾瑜に連れられて洛陽にのぼり、この首都を見学する。その折に「相者」すなわち人相見に観相され、「貴相がある」と予言された。もう一つ記憶さるべきは、族父に「よく、土を踏んでおくように」と示唆されて、手で地面を叩いて地の神に祈りをささげたことである。以後、大事な土地に足を踏み入れたときは、必ず地神にそのことを知らせ、祈ることをおこたらなかった。
郷里の長社県に戻るといっそうに勉学に励み、「孝廉」という二十万人に一人という人材登用の選挙科目に選ばれた。後漢の高級官僚になる道についたことになる。
しかし官途についた鍾繇に不運が続いた。西方の梟雄ともいうべき董卓が洛陽を支配していたり、董卓の死後も共に進むべき人物に出会わなかった。最後に曹操に拾われて、ようやく官吏としての力を発起し、ついには太傅という上公につく。
その間も地面を叩いて地神に祈りつづけて、鍾繇はいう。「信ずるということは、理屈の外にあり、それゆえにふしぎな力をもっている」と。古代人がそうしたように、地神を信じて八十歳の生涯を閉じた。
曹真を語る章は、名臣列伝中もっとも劇的といってもいい。若くして曹丕の従者となり、魏の武将の中心に居つづけた。
少年時代、父の仇と思いつづけた男に死なれ、思い余ってあたりの草を切りつづける。それを二人の親友にいさめられる場面は心に残るほど美しい。早くに死に別れることになる曹遵と朱讚の友情が、曹真を情義の人として育てたかのよう。曹真は、兵の中でいちばん後に食事をし、いちばん後に眠る武将になるのである。
魏の国王・曹操が建安二十五年(二二〇年)に死去すると、曹丕が跡をつぎ、やがて皇帝となる。そこで後漢時代が終わり、三国時代が始まった。
私利私欲がない、情の人である曹真は、曹丕の死後、曹叡の時代にまで生き残り、大司馬という特別の地位にまで登りつめた。三国時代の核心を生きた武将だった。
本書の目次の最後に置かれた鄧艾は、さらに時代が下って、曹芳皇帝のもとに生きた将軍である。鄧艾自身はわりあいにゆっくりと、出世の階段を登っていった人である。彼は「済河論」を書き、魏領の新しい屯田と運河開発の必要を説いた。それを読み、実現に踏み切ったのは、政治の中心にいた司馬懿である。そして鄧艾四十五歳のときこの運河は開通した。これは魏の富国強兵を推し進めるのに大きく寄与した策となり、鄧艾の力が認められる契機にもなった。
軍人として鄧艾の敵となったのは、蜀の将軍である姜維である。策の多い姜維の詐術を鄧艾が見破るエピソードなどは、いかにも三国時代らしい姿を語っているかのようでもある。
曹丕の死後になると、魏のあり方にも変化が大きい。しだいに曹氏の力が衰え、司馬氏が実権を徐々に握っていくのである。五代目の皇帝曹奐の時代、鄧艾は蜀の都である成都を攻めて、ついに蜀を降伏させる。蜀の譙周たちから印綬と書翰を受けとった鄧艾は、蜀を征服したことになる。そして譙周に師事している陳寿が晋の時代になって歴史書『三国志』を書くのだから、時代はまさに煮つまっている。二六五年、魏の司馬炎は皇帝となって晋王朝を建てたのだから、そこで三国時代は実質的に終わっているというべきだろう。
三国時代の中心にいた魏。そこで活躍した名臣たちの姿はじつに多彩で、派手やかでもある。宮城谷氏は、その華やかさを静かで緻密な文章で正確に描き切った。描かれた名臣たちは、生きた姿をあざやかに伝えた後に、ひとりまたひとりと、歴史の中に返ってゆく。
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