川上弘美さんと小池真理子さんが選者の名随筆集シリーズとして、その美しい装丁とともに、近現代の名だたる女性作家陣による『精選女性随筆集』(全12巻)が注目を集めています。去年から今年にかけて、文春文庫創刊50周年特別事業の一環として毎月刊行中ですが、その中でもひときわ人気の高い「須賀敦子」巻がいよいよ発売されました。須賀敦子さんの著作に造詣の深い、批評家であり随筆家の若松英輔さんから、今回の文庫化を記念して特別エッセイをお寄せいただきました。
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須賀敦子の拠点「コルシア書店」に集う者たち
ミラノは二度、行ったことがある。どちらの旅も目的は、須賀敦子の作品に出てくる場所を丹念にというよりも思うままにめぐってみることだった。最初は彼女の評伝を書こうと心に決めたとき、そして、二度目は雑誌の連載を終え、本にまとめようとしていたときだった。須賀敦子のイタリアでの生活の拠点だったミラノというよりも、かつてコルシア書店があった街、それが私にとってのミラノだった。
『コルシア書店の仲間たち』が彼女の代表作の一つであることは異論がないように思う。この「書店」は単に本を売る場所ではなかった。出版機能を有したいわゆる書肆でもあるのだが、何よりも「カトリック左派」の拠点、つまり、開かれた教会の「建設」を企図した人々が自分の立場を忘れて集える場所だった。さらにいえば、キリスト教の伝統の上に立って、「キリスト教の殻」を打ち破り、人間が「ことば」によってつながり直すことができる、そうした果敢な挑戦の行われた場所だった。『コルシア書店の仲間たち』にはこんな一節がある。
せまいキリスト教の殻にとじこもらないで、人間のことばを話す「場」をつくろうというのが、コルシア・デイ・セルヴィ書店をはじめた人たちの理念だった。
『須賀敦子全集 第1巻』(河出文庫)より
人々は、この書店で、自らの、のっぴきならない問いに出会い、それを率直に語り合える他者に出会い、そして神へと通じる道をさえ求めた。この書店は、須賀敦子の生前最後の著作となった『ユルスナールの靴』の表現を借りれば、「精神」というよりも「たましい」に何かを感じる者たちが自然と集まってくる、そんな場所だった。
ミラノ大聖堂とコルシア書店
日本にいるとキリスト教会の存在をありありと感じる機会は多くない。だが、ミラノでそうした生活をするのはむずかしい。この街は、地理的にもミラノ大聖堂を核としている事実が象徴しているように教会とは不可分な関係にある。
大聖堂が象徴するのは万物の根源である神だ。だが、あまりに荘厳な姿をした大聖堂は、多くの人を惹きつけるが、ある人たちには近寄りがたく感じる。そんな「ある人」たちがコルシア書店に足を運んだ。
この書店は、ミラノ大聖堂からもほど近いところにひっそりと建っている。あの壮麗な大聖堂とは似ても似つかないほどに質素な装いで、大聖堂へと通じる、賑やかな通りから少し下がったところにある。
人生とは何か、神とは何かを大きな声で語り、求めるのではなく、声というよりはうめきによって自分と他者、あるいは神との関係をつむぎ直そうとする人たちが、自然と集まってくる、そんな場所なのである。
夫ペッピーノと結婚した日のできごと
実を見て木を知るという喩えもあるように、集った人たちが、書店の精神を体現しているということもできるだろう。『地図のない道』には、書店で出会い結婚した二人が新婚旅行に出かける場面が描かれている。
……ふたりは結婚したが、お金がないので新婚旅行はちょうどそのころミラノで開通したばかりの地下鉄に、都心のドゥオモ駅からサン・シーロの終点まで乗るんだといって、みなを笑わせた。笑われたふたりは、しかし、まったく本気で、書店のとなりのサン・カルロ教会で式をあげたあと、小さな花束を手に、めずらしくスーツなど着こんだルチッラと、慣れないネクタイを不器用にむすんだマッテオがしゃんと直立して、ではこれから行ってきます、と書店の入口のところで宣言すると、みなの胸がちょっとあつくなった。
『須賀敦子全集 第3巻』(河出文庫)より
「ドゥオモ」とは大聖堂のことで、書店近くの駅から終点まで、数十分の道行き、それが二人にとっての忘れがたい旅だった。
人は、こうした場面に意図して立つことはできない。これを実現しているのは、語られざる信頼である。貧しいながらも真摯に自分たちの人生を祝福しようとする者たちをけっして笑わない。むしろ、そこに畏敬すら感じる人間観を持った者たちの短くないつながりの歴史が、先のような出来事を生む。
コルシア書店を訪れてみて
『コルシア書店の仲間たち』は、この書店が生まれて、なくなっていくまでの書店の伝記のような本でもあるが、訪れてみて驚いたのは、名称は変わっていても並べてある本は、彼女がいた頃のものに戻っていることだった。むしろ、コルシア書店の父であり、司祭であり、詩人としても知られたダヴィデの復権を強く訴える品揃えになっていた。
★本エッセイに出てくる本のご紹介
*本文引用出典元:『須賀敦子全集』(河出文庫)
『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫)
『地図のない道』(新潮文庫)
『ユルスナールの靴』(河出文庫)
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・「精選女性随筆集」シリーズ 既刊本10冊
『精選女性随筆集 幸田文』
『精選女性随筆集 森茉莉 吉屋信子』
『精選女性随筆集 向田邦子』
『精選女性随筆集 有吉佐和子 岡本かの子』
『精選女性随筆集 武田百合子』
『精選女性随筆集 宇野千代 大庭みな子』
『精選女性随筆集 倉橋由美子』
『精選女性随筆集 石井桃子 高峰秀子』
『精選女性随筆集 白洲正子』
『精選女性随筆集 中里恒子 野上彌生子』
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